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城と歴史歩きを楽しむ

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大洞城 美濃 その1 山上に石垣の山城 山下に屋敷地が明瞭に残り見ごたえあり

2023-02-20 | 歴史

大洞城は岐阜県関市富之保にあります。一柳城とも呼ばれ一柳伊豆守直末が築城した、稲葉彦六が城主だったなど諸説があるようですが、不明な点が多いとされます。今回の参考資料は「 岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第2集」 岐阜県教育委員会2003 などです。


大洞城 山城、居館、城下町が揃っていたか  
 津保川と武儀倉川に挟まれた尾根上に城郭遺構が、山下に居館跡が残ります。保津川左岸(南側)の地名「町」には城下町もあったと伝わります。


大洞城 山下と山上に城郭遺構が残る 城道b は林道で改変された
 資料によると、稲荷神社の敷地部分は屋敷地だった可能性があるとされ、その場合はさらに広い屋敷地が山下に広がっていたことになります。道aは今も残りますが、道bは近年の林道の敷設でかなり失われていました。山上の城郭はコンパクトながら、興味深い遺構が良く残されていました。


大洞城 63号線からの入口に「一柳城址」の看板が立つ
 稲荷神社の参道になっている道の奥に大洞城が見え、車は神社まで登れました。


大洞城 稲荷神社 往時は一柳天神社と称し明治に稲荷神社が合祀され稲荷神社となった
 一柳天神社は天正年間には一柳城主一柳監物直盛の城下の城山にあり一柳家の崇敬する神社だったが、明治になって付近の稲荷神社を合祀して稲荷神社と称するようになったとされます。※岐阜県神社庁HPより引用
  そうしてみると城の名称は古くは一柳城だったようですね。


大洞城 山下の屋敷地⑦と⑧ 
 屋敷地は植林され、ブッシュが覆っていて地形は明瞭に見えませんが、平場⑦と一段下がった平場⑧が広がっていました。図4の矢印1,2,3,4には通路がありましたが、植林する前には耕作地だった可能性もあるように見えましたので後世の道かもしれません。


大洞城 平場⑧ 東辺の虎口地形1  東から
 平場⑧はブッシュをかき分けながらの見学でしたが、東辺の通路1 は虎口地形の様にも見えました。改変もありますので、可能性があるという範囲です。


大洞城 道aと平場⑦  東から
 屋敷地と思われる平場⑦も植林がされ、ブッシュで覆われていましたので掻き分けながら地形の確認をしました。道aは明瞭に残っていました。


大洞城 道aと道bの分岐点
 道aは途中に道bとの分岐点がありました。資料によると、道bは山上の城郭に入る部分で石垣造りの枡形虎口を通っていたとありますので、ヒョットすると道bがメインだったかもしれません。林道の敷設によって道bと虎口部分は改変を受け今は確認が難しくなっていました。


大洞城 道bは近年の林道によって改変を受けている
 道bのあった尾根には重機が入って林道を作ったようで、道bの痕跡は部分的にしかたどる事が出来ず、枡形虎口も石垣の一部を残してほゞ失われたようでした。


大洞城 林道の幅は広く林業のトラックがⅢ郭まで登っていたかも
 林道はすでに使われなくなっているようでしたが、幅の広い道が残っていて尾根上の道bは失われて様で辿れませんでした。


大洞城 櫓台②  西から   右手に通路c  石垣造りが見どころです!
 道aを登りきってⅢ郭に出ました。Ⅲ郭からⅠ郭への通路cは石垣造りの櫓台②の下を通りました。道cの南側は崖状の斜面で、通路は櫓台から見おろせるようになっていました。


大洞城 櫓台②と道c 手前の立石が見どころ
 櫓台②の下を通り抜けると、高さ1m程の大石が立っていました。いわゆる鏡石のような効果を狙っている様に思いましたがどうでしょう。


大洞城 石垣③  道c沿いに石垣が築かれている    3m近くの高さの部分もある
 櫓台を通り抜け、大石を見せつけられて進むと石垣③が現れました。左手上にはⅠ郭とⅡ郭があり通過する間、ズッと上からの攻撃を受ける構造になっているようでした。石垣の高さは3m程ある所もありました。

その2では、いよいよⅡ郭(馬出)を通って、虎口からⅠ郭へ向かいます。