しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

香港の風

2011-10-12 06:57:50 | Weblog

                2日夜に香港から帰省したcameliaさんと買い物や
                食事を楽しみました。

                年に2回は帰省しているのですが、今回は1年ぶり、
                行きたい所や、買いたいものなどたくさんあったようです。

                妹さん宅に滞在で、いつも”今から出ます”と電話があり
                だいたい銀座で会います。
                3日はまず銀座で待ち合わせ、池波正太郎ファンの彼女の
                希望で、食通の池波氏が銀座で通われていたお店のひとで
                ランチにしました。

 

 

                

                   滞在中に一度は行くことの多い銀座「煉瓦亭」

 

 

         

              こちらの上カツレツは脂身の少ないトンカツで私も大好きです
              ウスターソースでいただきます。

          前にも紹介しましたが、cameliaさんとはもう10年ぐらい前に出会いました。
          父が大好きな香港に、母を亡くしてから私と年に2回ぐらい出かけて
          いた頃、80才を過ぎた父が体調を崩して入院したときに、その病院に
          勤務していてお世話になったのがcameliaさんでした。

          以後お付き合いがつづき、私が香港に出かけたときは紹介していただいた
          cameliaさんの友人たちとも食事を楽しんだりしています。

          この日は前日夜来日の2日目、 ゆっくり銀座散策、その後日本橋に出て
          デパートで歩き疲れて、休憩したのが日本橋三越地下にある「ミクニ」の
          お店のちょっとしたカフェでした。

 

               

                リンゴのシャーベット、上にはイチジクのコンポート、
                デパートを歩き、少しほてった身体に心地よい冷たさでした。

                翌火曜日は、妹さんのご家族のお祝い事で、ご家族が
                集まります。   
                水曜日に会う約束をして、駅でお別れでした。

               香港の話を聞き、大好きな香港の風を感じたひとときでした。



                         

 

 


ヴェネツィア展  Ⅳ

2011-10-11 07:16:00 | 美術館 博物館

                     第3章     美の殿堂

                ヴェネツィアのパラッツオには収集室、絵画のギャラリー、
                家族の文書室といった貴重なスペースがあった。

                15世紀には収集家や古物愛好家たちが存在していて
                その収集品は大変有名であった。
                
                博物学的ともいえる基準によって集められた、家門に代々伝わる
                古画や、現役の画家に注文されたり、絵画市場で購入された
                絵画が収められた。

 

                

                  聖母と洗礼者聖ヨハネ  (ヴィットーレ・カルパッチョ)

                我が子を贖い主としての将来の死と復活の運命を予感した
                聖母が、息子に悲しげに祈りを捧げる様子が描かれている。

 

 

                

                    天使より戴冠される聖母子 (ロレンッオ・ロット)

                 ロレンッオ・ロットは16世紀のヴェネツィア絵画において
                 もっとも偉大な主役の一人であった。

 

 

         

                春                        レダと白鳥

 

         

              驚き                          踊り子

 

                      

                            アモールとブシュケ

                「一連のこの絵はどうも向こうの同じ人が選んだようです」
                と学芸員談

 

 

        

                柱廊のあるカプリッチョ(奇想画)  (カナレット1687~1768)

       基本的に想像上の産物で、建築要素はほとんど「実在不可能」なものとなっている。
       カナレットを始めヴェネト地方の景観画家たちは、市場の執拗な需要に応え、
       「カプリッチョ(奇想画)」を非常に精力的に制作した。

 

 

           

              プンタ・デッラ・ドガーナ付近のカナル・グランデ   (カナレット工房)

          描かれた画面はカナル・グランデ入り口付近、左方には「海の税関」が見える。
          多くの船員や漕ぎ手が働く、あらゆる船舶が行き交い、活気に満ちている。
          そこは他の港から到着した貨物や輸出される貨物を通関せねばならなかった。

 

 

           

                  サテール教会付近のカナル・グランデ           

            上の絵とは反対側から見たカナル・グラン出入り口付近の光景。
            「海の税関」の倉庫が反対側から描かれている。  この絵の制作年代は
            上と同じ1740年代はじめの頃。

            右前景にゴシック様式装飾のサン・グレゴリオ修道院が描かれている。
            この修道院は現在では完全に姿を消してしまい、ネオ・ゴシック様式の
            大きなパラッツオに取って代わられてた。

 

 

         

           「アドリア海の真珠」と賛美されるヴェネツィアは、世界有数の観光地。
           7世紀末から18世紀末まで、千年以上ヴェネツィア共和国として栄えた。

           展示は「黄金期」「華麗なる貴族」「美の殿堂」で構成。
           海軍国らしい船の模型、貴族の暮らしを描いた絵や生活用品など158点を
           展示しています。  ヴェネツィアの魅力いっぱいでした。

 

           カルパッチョというイタリア料理、薄切りの牛肉やマグロにホワイトソースを
           かけた前菜、その命名の由来は、カルパッチョ作品だという。
           彼の絵に特徴的な白と赤の鮮やかさを記憶していたシェフが、白いソースと
           牛肉やマグロの赤をそれに重ねたとされる。
             


                      


ヴェネツィア展  Ⅲ

2011-10-09 21:20:50 | 美術館 博物館

                        第2章  華麗なる貴族

                  ヴェネツィアのパラッツオ(邸館)における日常生活は、
                  長い年月の間さほど変わることはなかった。
         
                  中世、ヴェネツィアはその歴史においてもっとも輝かしい
                  時を迎えた。

 

           

 

           

                 アラティエルの物語 (婚礼の晩餐)  (横長の一つの作品)

           ルネッサンス時代のイタリアの女性が結婚する際にはカッソーネ(婚礼の柩)
           と呼ばれる家具の一種が嫁入りの道具としてあたえられた。

           蓋付きの大型チェストで、花嫁個人の、あるいは家族用の衣類、寝具などを
           収納するために使われ、絵画や木彫りの装飾が施されていた。

           本作はカッソーネの全面部分で、ジョバンニ・ボッカッチョ作「デカメロン」の
           一話に取材したエピソードが表されている。

           上段(左)には飾り付けされた室内の優雅な宴の様子が、下段(右)には
           武装した若者の騎馬行列が描かれている。

 

 

                

                    横顔の女性像 (クレオパトラ?) 16世紀半ば

               ジュゼッペ・リヴェッリのものとして知られる唯一の確実な作品。
               画家の正体が不明であるのと同様に、ここに描き出された
               テーマの解読も不確かである。

               コッレール美術館のカタログでは、賢明の擬人像だとされているが
               ここではエジプトの美しき女王、クレオパトラと解釈したい。

 

 

           

                   家族の肖像  16世紀  

            解説で出てきた作品のひとつで、同じ一族に属する17人の様々な年齢の
            男女が描かれている。  (顔がよく似ているので家族と分かる)
            中央に描かれているのか一家の紋章であるが、未だどの家族のものかは
            特定されていない。

            当時のファッションと流行を示すものとしてこの作品は重要である。
            手前に座った老人から子供たちまで多様な年代の男女の髪型や宝石などが
            注目に値する。

 

 

           

                   ブシュケの死が描かれた「グアスターダ」

               食卓用の液体容器、ルネッサンスのマジョリカ陶器の傑作

 

         

              薬種業用の壺             アレクサンドロス大王とロクサネスの
                                    結婚が描かれた皿

 

         

             塩入れ                       大型水差し

 

 

        

                 「カ・レッツオーニコ」様式のシャンデリア

         精巧な技術で制作された花冠、花弁の装飾が多数取り付けられている。
         500の色ガラスの小片から制作されていて、ひとつひとつ組み立てたそうです。

         薄暗い中、ため息の出るような美しさ、大変豪華な貴族の生活がうかがえる
         作品のひとつでした。

 

 

         

              アンドロスの婦人用ドレスと男性用礼服、燕尾服、キュロット、ベスト

 

 

         
         

           シルクの刺繍入りバッグやポーチ、今でもそのまま使えそうなデザインです。
           布好きですのでドレスやポーチに特に興味がありました。

           ヴェネツィアではバッグは15世に既に広く流布していた、一方フランスでは
           17世紀頃になって初めて広く普及し、男女問わず身につけるようになる。

 

                 

                 木靴  男女のファッションにおいて、靴は常に重要であった

 

                 

                     これも靴なのです、支えがなければ歩けません。
                     木、なめし皮で作られています。

 

 

                 

                    ジュデッカ島のナーニ家での祝宴

             この非常に珍しい場面は、ケルン選帝候大司教クレメンテ・アウグスト
             のために、1755年9月9日、ジュデッカ島のナーニ家の館で催された
             祝宴を描いたもの。

             この祝宴には100名を超える招待客が参加し、たくさんの召使いが
             給仕にあたった。

             この場面で支配的なのは馬蹄形のテーブルである、その上には豪華な
             食事が用意され、馬蹄形のテーブルの頂点には主賓が座っている。

             招待客は皆、流行の服に身を包み、その態度はエレガントでのびのびと
             している。

 

 

         

            仮装する人たち  (18世紀)       貴婦人の美容師 (18世紀)

 

 

         

             愛の告白  (1750年)              カードゲーム

    (左) 非常に優美な騎士が座って糸巻きをする若い婦人に愛の告白をしようとしている。

    (右) 部屋着でテーブルの周りに座る3名の人物がカードゲームに興じている、画面
        左の貴婦人は、ゲームの策を助言する紳士のささやきに耳を傾けている典型的な
        家族の情景。

 

         美の殿堂につづきます

 


ヴェネチィア展  [Ⅱ]

2011-10-09 07:26:43 | 美術館 博物館

                  

                  

                  イタリア北東部の都市、ヴェネツァアは世界有数の観光地

 

           

             ヴェネッィアの期限はほぼ2千年前にさかのぼる、ヴィザンチン帝国の
             政治権力の下に生まれ、成長し独立した。

 

           

                ヴェネチィア市立美術館群  代表する13の館なる組織で
                7つの館から作品を展示しています。

 

                 

                   カ・レッツォーニコ(ヴェネチィア1700年代美術館

 

                    第1章    黄金期  ヴェネツィア共和国

 

 

           

                サン・マルコのライオン    (ヴィットーレ・カルパッチョ)

             長い歴史を通じて、ヴェネツィア共和国の最も重要なシンボルであった。
             ライオンは古典および中世の伝統において「力」「知恵」「高貴さ」「自分の
             子供の保護」などを象徴した。

             2本の足を水中に、もう2本の足を地上において立つライオンは、
             ヴェネツィア国家の水陸両方の性格を表した。

 

 

          

             聖ヒエロニムスと聖アウグスティヌスを伴う聖マルコのライオン
                                   (ドナート・ブラガディン)

          巨大なライオンを描いたこの作品は、ドゥカーレ宮殿にある司法官の事務所の
          ために制作されたもので、作者の署名と1459年の年記がある。

 

                

                 アルヴィーゼ・ビアンコと協力者聖マルコのライオン

            この堂々たる聖マルコのエンブレムは、サン・マルコ聖堂のマトロネオ
            女性用の歩廊)に設置されたオルガンの収納ケースを飾っていた。

 

 

               

                総督マルコ・フォスカリーニ  (ナザーロ・ナッザーリ)

             著名な歴史家にして文学者であり多くの書物の著者であった。

             肖像画の画家ナザーロ・ナッザーリはモデルの心理に鋭く迫る
             画家様式を受け継ぎ、総督の衣や被り物の高価な布地の表現を
             きわめて正確で、光を表す筆遣いによって生き生きと表現されている。
             ヴェネツィア共和国最後の総督たちの肖像画の作例中では際だっている。

 

 

           

                   船の模型  ガレー船    (作者不詳)

             旗をつけた3本マスト2つの錨を有する44櫂式ガレー船の模型
             戦闘用および商業用の古典的な船を指す。

 

   

        ガレー船の建造は比較的短時間でおこなわれ、厳密な設計図や計算上の規則は
        存在しなかった。

        長さ約40-50m、幅5-7m、2本マスト(21mほどの高さで、嵐の時速度を
        増すため、収納可能な3本目を備える)を装備した。 櫂で漕ぐ人力で動く。

        外国映画でこのガレー船が出てくる歴史劇をよく見た覚えがある、漕ぎ手は
        囚人だっように思う、戦闘においては過酷だった、訓練された兵士だった
        かもしれません。  歴史映画が好きだったので、いろいろ想像しながら見た。

 

 

                

               1688年 木と紙製の高さ146cm、直径108cmの地球儀

               会場では正面に日本が見えるように展示されていた。

               他にも天体観測リング、世界航海図、コンパスや望遠鏡、
               日時計などいずれも精巧な作りだった。

 

 

        

           (左) ヴェネツィア海軍総監カルロ・アウレリオ・ウイドマンの肖像画
               1797年共和国滅亡前最後のヴェネツィア海軍総督の姿は
               赤と金を主調としたまばゆい色彩の中に描かれている。

           (右) マルコ・ポーロの帰還 商人、旅行家、冒険家であったマルコ・ポーロは
               疑いなくヴェネツィア史の中でもっとも著名な人物であると言える。
               「東方見聞録」はこれまで書かれた旅行記の中でもっとも有名であり、
               マルコポーロ神話はよく知られている。

               帰還したマルコ・ポーロが、彼の体験を証拠立てる宝石や貴石を
               持参したところを描いている。

 

 

                 

                      総督モロジーニの祈祷書と銃 (作者不詳)

            この大変興味深く、きわめて珍しい祈祷書はフランチェスコ・モロジーニの
            所有物であった。    それは改造を加えられ、個人的な防衛のための
            小拳銃を収めることができるように、秘密の隙間が作られている。

            本品は軍人であった著名なこの総督が自分の身に起こることを懸念
            していた謀反や陰謀の際自衛の心構えのあったことを証言している。

            展示を見ると思ったより小型で、銃は日本での展示にはレプリカです。
            「いざというときこんな所から取り出せるのかしら?」なんていう声も
            聞こえてきました。

 

 

                

                      真実の口   (作者不詳)

            真実の口は、人や犯罪、とりわけ政治権力やその司法府に対する犯罪
            (汚職、裏切り、スパイ行為、横領・・・)に関する匿名の告発のために
            用いられた。    その機能は郵便受けのようなものである。

            告発の書状はここからか回収された後、10人委員会の卓上に運ばれ
            その場で被疑者に対していかに訴訟を起こすかが決定された。

            我が国でいう目安箱でしょうか?怖い顔が気になります。

 

 

         

          元老員議員にしてサンマルコ財務官ヴィンチェンツオ・クエリーニの肖像
          40才位で司法官の衣装を身につけ、流行の鬘を被り、公職にあることを示す
          ビロードのストラ(ストール)をつけている。

          右の長衣トストラはサンマルコ財務官のもの。
          ヴェネツィア総督の次に高位の身分である9人のサンマルコ財務官は、
          緋色のダマスコ織りによる長衣(トーガ)を身につけた。

 

 

                       唯一の都市 ヴェネツィア

          ヴェネツィアは3つの潟口によって外海と結ばれるラグーナ(潟)に位置し、
          都市の生活は常に6時間ごとの塩の干満によってリズムを与えられていた。
          
          町は400以上の橋で結ばれた多くの小島から構成されるが、その建設は
          きわめて特殊な技術による。

          ヴェネツィアに特徴的な町「世界で一つだけの」都市を作り上げることになった。

          地上の歩行者の交通網は、カツレ(道)、カンポ(広場)、フォンダメンタ(河岸)
          に分節される。

          水上の交通網はカレーナ(大運河)とリオ(小さく狭い運河)からなり、そこを
          人と物資の運搬のための様々な種類と大きさの船舶が絶え間なく行き交った。

          ヴェネツィアは1846年鉄道建設に至るまで、完全に孤立した一つの島だった。
          水道の供給も1898年ラグーナに渡る導水管が敷設されるまでは、雨水を
          集める井戸のシステムによっていた。

          とはいえ、共有空間、道、運河においてヴェネツィアの生活は豊かさと活力を
          もって脈打っていた。

 

        

               リアルト橋   (ジュゼッペ・ボルサート) 

          石造りのリアルト橋は様々な国の多くの建築家たちの設計案が検討された後、
          17世紀初頭に建設された。

          この作品を描いた画家ジュゼッペ・ボルサートは、19世紀前半のヴェネツィアに
          おいてもっとも成功を収めた画家・装飾家の一人である。

 

 

         後半につづきます。

 


ヴェネチィア展

2011-10-08 07:46:48 | 美術館 博物館

                 「世界遺産ヴェネチィア~魅惑の芸術ー千年の都」
                 えど友開催の見どころ解説と特別観覧会に出かけた。

 

                

                   学芸員による解説はわかりやすく、興味深かった

 

 

       

                     二人の貴婦人   ヴィットーレ・カルパッチョ
  
       1490-95年の作品 誤解や無理解にさらされなっがらも、のちにルネッサンス期
       ヴェネチィア絵画の中でもっとも名高く・広く愛される絵の一つとなる。

       ヴェネチィア絵画史全体においても希有な作品の一つである。
       サンマルコ広場にあるコッレール美術館に展示されている中でもっとも有名である。

 

       

        ブロンドの髪に奇妙なかたちの小さな帽子をかぶった二人のヴェネツィア女性、
        物思いに沈んだ二人のまなざしは、絵の境界線の外にある何かを見つめている。

        
        この絵は長い間、幾分いかがわしい名声を享受してきた。 
        この絵を[コルティージャ(高級娼婦)たち]の名で呼び、客を待つ二人の売春婦を
        描いていたものだといわれていた。

        だが比較的最近になって、実は二人は身分の高い貴婦人であり、ラグーナ(潟)に
        面したテラスに座り、夫か恋人か、誰かの帰りを待っているところだということが
        明らかにされた。

 

              

            1944年ローマのある美術商のもとでこの絵が発見されたのです。

            7艘の細い手こぎ船によるラグーナの狩りの場面が描かれている
            この絵の左下に百合の花が見えるが、茎が途中で切れており、
            どこから生えているのかわからない。

            このラグーナの絵が二人に貴婦人を描いていたの途中で切れていた
            百合の茎とつながることが発見されたのは1963年のことでした。

 

              

               その後、科学的分析などにより、これら2枚の絵がもとは
               一つの作品であったことが確実に証明された。

               また500年以上が経過する中で様々な苦難(乱暴な切断)
               を経てきたにもかかわらず、保存状態は良好であった。

 

      

        この絵に描かれている動物、植物などすべて偶然そこに配された訳ではない

 

              

        <花瓶> 紋章入りの壺にユリが生けられているが、茎は途中で切れている、
               2点の絵が結びつく要因となった。

        <オレンジ>棚の上に置かれたオレンジ、途中で切れたユリは処女性と
                 夫婦愛を表す。

        <少年>欄干から顔をのぞかせている少年は婦人の子供たちだろうか?
              彼の前に置かれている赤いカルカニエッティは誰のものであろうか?

        <オウム>「しゃべる」ことができることから遠く離れた愛するものの名を
                繰り返ししゃべることができ、宗教的祈りの文句も唱えること
                ができるという。

        <犬> グレ-ハウンドとおぼしき犬が貴婦人と戯れている。
              顔と前足しか見えず、身体はもう一枚の絵にあるのか・・・。

 

               

       <貴婦人>15世紀末から16世紀初めに流行した華麗な衣装を身にまとった
               婦人。 長い間娼婦という説があった。
  
       <ギンバイカ>異教世界においてキリスト教世界においても婚姻関係を表す。

       <犬> チワワのような犬。 忠実さの象徴であり、夫婦関係の忠節を表す。

       <カード>犬の前足の押さえられたカードには画家の書名ー「ヴェネスト人
              ヴィットーレ・カルパッチョ」ーとある。もう一行は摩滅していて解読不能。

 

           この絵が表しているのは、夫婦愛、純潔、官能による誘惑への抵抗、
           結婚がもたらす成果への敬意、無秩序な情熱の制御である。

           これらすべてのことからはっきりわかるのは、この絵が(家具の扉であれ、
           衝立のパネルであれ、窓の内側の板戸であれ)夫婦の部屋のインテリアを
           なしていたということであり、それゆえ婚姻の(とりわけ妻の)美徳と長所と
           特色を想起し、これを称えるものだったということである。

           この絵がいかにして2枚に分割され、異なるコレクションの道をたどることに
           なったか、その経緯をたどるという課題がまだ残されている。
           確実にわかっているのは、18世紀後半にはすでにいた絵の切断が
           行われていたということである。     (図録より引用)

           まだ長い年月、多くの収集家や著名人の所有になったり、秘密裏に国外に
           持ち出されたりと、長い時を経て今回この絵を見ることができたのです。
           この絵の公開は東京のみとの学芸員の話でした。

 

 


      


丸の内

2011-10-05 08:20:11 | Weblog

                     

                   このビルに用事があり丸の内に出かけました。
                   待ち時間があったので少し歩いてみました。

 

                

                   久しぶりのブルックスクエアーです

 

                

                      赤煉瓦の三菱一号館美術館

 

                

                   ここの庭にはいつもバラが咲いています

 

                

                 午後のお茶の時間、外が気持ちよい季節です

 

                

                        青空が少し見えました

 

                

                

 

 

          

                Siesta  (午睡)  (1982年 オランダ)  

 

 

                

              ガーデン入り口の花屋さんにはいつもすてきな花がいっぱいです

 

                

 

                

                     秋色の向かいのビルのロビー

 

                      

                      モンブランカフェオーレ、ここにも秋が。

 

           

 

                 

                      こんな場所でゆっくりお茶にすればよかった!

 

          

                     ここも秋色ですね~  

 

 

               東京駅の屋根の部分が公開されたのを思い出し見に行きました

 

                

                   ほんの上部分だけでした、完成はまだ先のことです

 

                

                 地下鉄に乗る気がしなくて、バスで帰ることにしました。
                 バス停は駅のすぐ前です。 丸の内南口方向を見たら
                 こんな景色が見えました。   東京駅前の夕景です。

 

 

 


熱海 来宮神社

2011-10-03 07:16:49 | 旅行

                     熱海の温泉に息子夫婦と出かけました。

 

                 

                    前の道路の向こうはすぐ海のホテルです

 

 

           

            前回は台風の余波でブイもみえなかったが、早朝から作業が始まっていた。
            定置網でしょうか?     この日は初島もよく見えました。

 

 

         

               温泉に入りのんびりするのが目的なのです

 

 

                 

                    熱海駅から海岸に下りるのにはかなりの坂道です

 

 

           

                      いつもの熱海の景色です

 

 

 

           

             来宮神社に行くことにしました、来宮駅を下りて、線路のトンネルを潜ると

 

 

           

                   来宮神社は目の前でした

 

 

                 

                  古くから来宮大明神と称し熱海郷の自主神社であった

 

 

         

             大きな楠がありましたが、これは第二楠、一本の楠ですが落雷により
             空洞状態になっていますが、青葉が元気に茂っています。

 

 

                 

                    全国四十四社のキノミヤジンジャの総社にお参り

 

 

                 

                   これが天然記念物に指定されている神木の大楠

 

           

 

                 

                         2000年を越える大楠なのです

 

 

                 

                  幹は龍が登っているようにも見えたり、不思議な感じです

 

 

                 

                        幹の周りは24米

 

 

         

            ゆったりとした悠久の時の流れを感じます、楠は常緑樹であるゆえ
            新葉が成長し、古葉が落ちてゆく、親の葉は子の葉の成長を見届けて
            落ちてゆく、子孫繁栄、国家弥榮の象徴なのだそうです。

 

 

                

                      思わず触れみたくなりました

 

 

                

                  まさにパワースポットでした (健康・長寿・心願成就)
                  
                 幹を一周すると寿命が一年延びるという伝説
                 心に願いを秘めながら一周すると願い事が叶うという伝説

 

                

                    大楠のすぐ横に流れる川にも癒しを感じました

 

 

                

                       帰るとき来宮神社の境内で

 

 

           

              大きな蜘蛛を発見! 巣作りの邪魔しないようにそっと写しました。

             いつもの温泉を楽しみ、パワースポットにも行け、大満足な熱海でした。

 

 

 


板橋宿 その弐

2011-10-01 16:09:23 | Weblog

                天保14年(1843)の記録によると、当時の板橋宿は573戸で
                人口は2448人、本陣1軒と脇本陣3軒が置かれ、旅籠数は
                54軒を数えたという。

                本陣のある仲宿は宿場の中心で、ここに問屋場や貫目改所が
                置かれ、宿役人が詰めていた。
        
                上宿には大木戸があり、それを囲むように商人宿や馬喰宿が
                密集していたとされる。
   
                江戸寄りの入り口に位置する平尾宿は、今ではJR板橋駅の
                駅前商店街として賑わっているが、かつては仲宿・上宿と比べて
                閑散としていたようだ。

 

 

         

             江戸時代は「縁は切ってくれるが、良縁は結んでくれる」といわれ
             庶民の信仰を集めていましたが、昭和44年再開発のあおりを受け
             現在地に新しい榎を植え祠堂も新しくしました。

             狭い場所なのでちょっとだけ覗いてみたら、「離婚できますように」とか
             「彼女と別れられますように」など絵馬に書かれていました。
             絵馬に書くのが男性が多いのに驚いた!といっている人がいました。

 

             和宮降嫁行列が迂回したといわれる「縁切榎」の榎は根本から梢まで
             菰すっぽりと隠した。

             桂離宮からの行程は
            
            文久元年(1861)10月20日 桂御所出発  午前休憩、昼食、午後休憩
            そして宿泊された場所が書かれています。
            11月14日 板橋宿に宿泊、 翌15日出発、 その日から12月11日に
            江戸城本丸に入られるまで清水屋敷となっています。

 

             もう一つ和宮下向の祭に街道沿い村落、各宿場に出された禁止事項は

            1)  公私領の別なく、通行の3日前は旅人の通行を禁止する。
            2)  往来の草深い場所は刈り込み、2日前から掃除をしておくこと。
            3)  街道の木立の枝は、日傘に触らぬように刈り込むこと。
            4)  通行時、家屋の前には盛り砂をして、水を入れた桶を置くこと。
            5)  宿場の2階家は、雨戸を閉じ、看板や暖簾は外しておくこと。
            6)  通行時は、店の土間にむしろを敷き、平伏すること。
            7)  商いものは片づけるかよしずを被せること。
            8)  旅や草鞋など軒先で売らないこと。
            9)  農家の軒先に竹木を立てかけておかないこと。
           10)  通行時、近くの寺の鐘は鳴らさないこと。
           11)  通行の2日前から鳴り物を鳴らさないこと。
           12)  通行時は、煙を立てないこと。
           13)  目障りなものはよしずやむしろで覆うこと。
           14)  男は裏手にいること。

                
                     ちょっと面白かったので載せてみました。

 

 

 

                

                   宿場を離れ土手沿いに行くことになりました
                
            石神井川沿いの桜並木は千本を超えるそうで、江戸時代から有名な
            飛鳥山まで続く桜並木は区内を代表する名所なのだそうです。

 

 

 

         

          板橋宿の東側には、加賀百万石前田家の下屋敷があっった。
          板橋の加賀藩邸は敷地約21万8000坪という広大なもので、現在の町名に
          加賀の名があるのを初めて知りました。

 

 

                

                       金沢小学校もありました

 

 

 

                

                      圧磨機圧輪記念碑 かなり大きな碑です

             この碑は大正11年(1922)陸軍省が設置。圧磨機圧輪火薬製造に
             使用した。
             下屋敷内に陸軍歩兵板橋火薬製造所として石神井川の水力によって
             火薬製造を開始、およそ30年間使用したそうです。

 

 

                     

              現在は中に入れませんが、この道にはかつてレールが引かれ
              工場内の荷物運搬のトロッコ列車が走っていたそうです。

 

 

                

                 加賀公園ですが、終戦までは陸軍火薬製造の拠点で、
                 火薬開発、燃焼実験、弾道実験など行われていました
                 下屋敷敷地内にも当時の施設があり、実験の跡が残って
                 います。(崩れている部分)

 

 

         

          石神井川に沿った歩道は風も心地よく、えど友の案内人、玉木さんの早足に
          ついて行くのもやっとでしたが、3時間半ほどの行程は知らないことばかり、
          江戸時代の板橋宿に思いを馳せて、楽しい時間でした。

 

          明治17年(1884)には上宿を火元とする大火が発生し、旧板橋宿は
          一夜のうちに灰燼と化してしまった。
          これ以降かつての宿場は、遊郭街へと変貌を遂げて行くことになる。

 

 

         *  加賀藩下屋敷範囲は、現在の加賀一・二丁目・板橋一・三・四丁目、
             仲宿の6町内にまたがる。

 

 

 


江戸四宿を歩く  板橋宿 その壱

2011-10-01 07:42:28 | Weblog

                 「えど友」(江戸東京博物館 友の会)館外授業、
                 前回の「千住宿」に続き「板橋宿」を歩きました。

                 9月25日12時45分JR板橋駅東口集合ですが
                 12時5分に到着したら、列ができていていました。
                 10人のグループで、集まると順次出発します。

 

                

               案内してくださるのは「えど友」のベテランメンバーの方々
               私は第6班、説明者は玉木さん、10名で出発しました。

 

 

         

           最初は東口目の前にある近藤勇墓所、当時官軍の本陣がこの板橋宿にあり
           この近くで処刑されました。

 

 

         

                      

                       東光寺 浮田秀家の墓

 

 

           

                 江戸より二つ目の一里塚がこの付近にありました。

               英泉の絵は一里塚あたりより描いたもので奥に見える林が
               加賀前田家下屋敷にあたります。

 

 

                

                 平尾追分  この辺りが中山道と川越街道の分岐場所、
                 商店街入り口に板橋宿の文字

 

         中山道は木曽路を経て江戸から京都まで通じる街道です。江戸時代の5街道、
         (東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)のうち最も往来が盛んだった
         東海道に次ぐ賑わいだったのが中山道でした。

         その中山道の初宿が板橋宿(下板橋宿ともいう) 江戸側から順に平尾宿、
         仲宿、上宿と呼ばれ、この3宿域で板橋宿が成り立っていた。

 

 

               

              庚申塔  区内最古の寛文元年(1661)の銘が刻まれている

 

 

               

                   観明寺  山号は「如意山」 
 
              室町初期の創建と伝えられる古刹です、本尊は聖観世音菩薩
              この門は加賀下屋敷にあった通用門を移築したもの

 

                    

                出世稲荷欄間の彫刻は左甚五郎作とも言われます
                同屋敷内にあったものを移築したものです。

 

               

                      疱瘡石祠  

                享保8年(1723)造立、正面に開けられた穴の下部に
                「疱仏」と陰刻され疱瘡除けの守り仏でした。
                 (疱瘡が治ると’かさぶた’を穴に入れたとか)

 

 

                   

          観明寺は明治6年、成田山新勝寺から不動明王を勧請し、宿場に活気を
          取り戻すため、当時の住職が不動明王堂をを建立し、露天商を集め
          毎月4回縁日を開きました。

          しかし今は、巣鴨の「とげ抜き地蔵」の縁日が盛んになり、その縁日は
          すたれてしまいました。

 

 

               

                     板橋宿脇本陣跡

              この脇本陣は平尾宿名主豊田家(地元の旧家)この屋敷は
              紀州徳川家が休息所にするほど格式が高く、建坪109坪という
              豪壮な構えでした。 

              幕末には近藤勇がここに監禁され、約20日間ここで過ごし、
              平尾一里塚付近で斬首されました。

 

 

           

                    板橋観光センター  こちらで10分の休憩

 

 

                 

                     区内の旧跡名所を紹介

 

 

           

               中山道に関する展示と観光案内もしてもらえるそうです
                                          (休館火曜日)

 

 

                

                    中山道板橋宿上宿にあった初代縁切り榎

               榎は本来縁結びの木として知られていたものが、板橋の榎は
               縁を切る木として特に離縁を願う女性たちの信仰の対象となった。

               文久元年(1861)皇女和宮が降嫁する際には縁起が悪いと
               嫁入り行列を迂回して江戸に向かったそうです。

 

 

         

                商店街には旧中山道仲宿との案内板

 

 

         

                 成田山 遍照寺

 

                      

                  宿場時代名残の寛政10年(1798)造立の馬頭観音

                  境内には馬つなぎ場があり継立馬50頭が常時待機して
                  いた重要な宿場施設の一つでした。
                  馬の安全を願い馬頭観音が祀られていた。

 

 

 

                 

                       板橋宿本陣跡

           代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡で、参勤交代で通行した
           大名や幕府公用の武士・僧・公家などが休息しました。

           この近くに問屋場(といやば)(人馬の継立を主な業務)と貫目改所
           (重量制限の監視)がありました。

 

 

           

               江戸前期、延命地蔵を祀るお堂を建てたと伝えられる真言宗寺院

 

 

           

            本尊は文殊菩薩座像   板橋宿本陣を勤めた名主飯田家の菩提寺

 

 

                 

               宿場の飯盛旅籠で働いていた女性たちを弔ったお墓もありました

 

 

 

                 

                     板橋区の地名の由来といわれる橋

 

                 

                 日本橋より2里25丁33間は10k642mです、渡ると上宿

 

 

                 

                      石神井川に架かる橋です

 

 

                 

                      中山道板橋宿 ここは上宿

 

        <その弐に続きます>