しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

親鸞入滅の地 「角坊」

2011-04-30 07:03:51 | 旅行

               太秦や広隆寺の近くに「角坊」 (すみのぼう)はあります。
               浄土真宗本願寺派本山(西本願寺)の飛び地境内とされます。

               30年の歳月を経て京都に戻った親鸞は、和讃を作りながら
               慎ましやかな日々を送り、関東の門弟たちからの送金や援助で
               暮らしをまかっていた。

 

           

            山門にかけられている大きな笠は、昭和10(1935)年境内に立てられた
            親鸞像のもの。
            この像は戦時中供出され、体は失われたが、笠のみが戻ってきたそうです

 

 

           

               建設工事中だった本堂と書院は平成22年12月に完成したばかり
                   (写真で見ていたのとあまりに違うのに驚きました)

               この日は法要があったようで大勢の参詣者が帰られるところでした
               ”ようこそお詣りで”と迎えていただきました。

 

 

                

                      威厳のある大きな親鸞像
        
                  旅姿の像は山門をくぐった時から目に留まります、
                  参拝者は仰ぎ見ます

 

 

                

                  
             住まいは転々としたらしい、また弟子に宛てた手紙では83歳の時
             火災に見舞われ、善法坊に身を寄せたと綴られている。

             やがてこの坊が往生の地となった。
             寺伝によれば、この善法坊があった場所に建てられたのが角坊です。

             「角坊」とは、親鸞が善法坊の一角の庵に号した名にちなむという。

 

           

                   善信聖人絵  「入滅葬送」

              枕を北、顔を西に向けて往生を遂げた親鸞を弟子たいが囲む。
              静かな死であった、翌日遺骸は輿に乗せられて東山の鳥辺野に
              運ばれ荼毘にふされた。

 


親鸞流罪

2011-04-28 21:43:31 | Weblog

            信頼する師・法然と出会い,その教えを一心に学んで充実していた
            親鸞の人生を突如暗転させたのは,法難だった。

            法然の説く専修念仏は,これまでの仏教では救われなかった民草までも
            阿弥陀如来は救うと誓った,として庶民の信仰を集めていた。
            しかしそれが旧来の仏教各派には許せない。 まず比叡山の僧が
            決起集会を開いて,念仏停止(ちょうじ)を求めた。

            法然は,弟子達の過激な言動への戒めを記した「七箇条制戒」という
            文書を提出して対応。  親鸞も署名していた。

            しかし事はこれで収まらなかった。
            奈良の興福寺が朝廷に念仏の取締りを訴える奏状を提出,その結果
            法然の門弟2人が処罰を受け,法然自身も弟子1人を破門する事を
            余儀なくされている。

            そんな中,安楽寺の事件は起こった,処罰を受けた門弟とは住蓮と安楽
            の事である。

            松虫,鈴虫出家で激怒した後鳥羽上皇は,ついに専修念仏停止の
            院宣を下す。
            住蓮,安楽を含め法然門弟の4名が死罪,法然を含む8名が流罪となった。
            親鸞も流罪である。

            この念仏への弾圧を大いに嘆き,後に著書「教行信証」にも怒りと悲しみを
            書き綴っている。

            こうして法然と親鸞はともに僧籍を剥奪され,法然は四国へ,
            親鸞は越後へと流されてゆくのです。

 

           

                   善信聖人絵 「念仏停止」

              念仏者の取締りが始まった。  
              絵は検非違使(警察官)から逃れようとする住蓮と安楽

 

 


鹿ケ谷 「安楽寺」

2011-04-28 08:24:45 | 旅行

              法然上人の門弟住蓮と安楽が結んだ,「鹿ケ谷草庵」にちなむ
              閑静で美しい古刹です。

 

           

             鹿ヶ谷疎水道,哲学の道から一本裏に入ると,静かな散策道に出ます,
             その一画にある「安楽寺」,茅葺の山門に通ずる石段,このあたり全体が
             秋には燃えるような真紅に染まりますが,春は静かな佇まいでした。

 

 

           

                    一本の桜が春を告げていました

 

 

                 

               丹精された庭,その奥の本堂で講和を聞かせていただきました

              八百年ほど昔,このあたりに庵を結んだ住蓮と安楽は
              美声と「六時礼賛」という声明(しょうみょう)で名高い僧でした。

              2人が称える美しい声明に多くいの参詣者が心酔したといいます。

              1206年後鳥羽上皇が熊野詣でに出かけた留守に,上皇が寵愛する
              女官,松虫と鈴虫は住蓮と安楽の庵でひそかに出家した。

              それを知った上皇は激怒し,この事件をきっかけに,法然の念仏
              教団への弾圧が決行される事になった。
              それは死罪4名,流罪8名というきわめて厳しいもので,住蓮と安楽は
              斬首に処された。

              そして法然は四国へ,親鸞は越後へ流罪。
              この法難により念仏教団は新たな局面を迎えた。

 

           

               本堂厨子には住蓮上人像と安楽上人像そして松虫像と鈴虫像が
               安置されています。
               安楽上人は2人の女官を剃髪するためか,右手に剃刀をつ。

 

                

                   松虫,鈴虫両女官を剃髪する場面が描かれた掛け軸

               2人は法然の教えを聞いて「南無阿弥陀仏」の教えのありがたさに
               涙を流し,宮中の虚飾に満ちた生活を続けるよりも,阿弥陀仏の
               教えに従って生きる決意をした。

               出家時,松虫19歳,鈴虫17歳 。

 

           

                  

           

                   鈴虫と松虫の供養塔

 

 

            新緑に映えるサツキが華やかな春を過ぎると,カボチャ供養の夏,
            鹿ケ谷カボチャ発祥の地,カボチャ供養は毎年7月25日,煮炊きした
            カボチャが供されます。

            そしてモミジの真紅が錦織のように境内を染め上げる秋! 
            そんな季節にまた訪れたいと思います。

 

 


吉水へと通った草庵跡 「岡崎別院」

2011-04-27 07:56:02 | 旅行

              「雨の日も,照る日も,法然のもとへと通い続けた親鸞」

              六角堂での無告をきっかけに吉水の法然上人を訪ねた親鸞は,
              その後岡崎あたりに草庵(親鸞屋敷)を結び,そこから毎日
              法然のもとに通った,その跡に建つのが岡崎別院だ。

 

            

                山門と奥に見えるのが本堂享和元年(1801)親鸞の旧跡を記念して
                建立し,岡崎御坊としたのが始まりです。

 

 

           

              妻・恵信尼が晩年に娘に送った手紙には,親鸞は「降るにも照るにも,
              いかなる大事も参りて」とあり,どれだけ熱心に吉水へ出かけたかが
              伝わってくる。

 

           

                  そこには信頼する師に加え,同じ志を持つ仲間もいる。
                  吉水での日々はどれほど充実していたことだろう。

 

 

           

               念仏停止の院宣が下り,法然にも親鸞にも流罪が課せられたとき,
               親鸞は草庵に帰ってそばにある池の水面に姿を写して名残を
               惜しんだと伝えられる,八角形の池。

 

                 

               越後へ流されてから30年近くが過ぎたころ,関東にいた親鸞は
               再び京都に戻った,住居は転々としたようだが,帰洛した親鸞が
               最初に住んだのが岡崎の草庵であったという。

 

                 

                 八房の梅   親鸞お手植えの梅の木の由緒を伝えるもの
                           (次世代を担うため育成中)

 

                妻・恵信尼

            当時は「戒」によって僧侶の結婚は禁じられていたものの,ひそかに妻を
            もつ者もいたらしい。
            しかし親鸞は「聖として念仏申せずば,妻をめとって念仏申せ」という
            師・法然の言葉を支えに,僧侶にして初めて公に妻帯した。
            その妻が9歳下の恵信尼である。

            2人の結婚はこれまで,流罪後に越後でと言われる事が多かったが,
            最近では京都時代だったという説が有力だそうです。
             
            恵心は越後の中級貴族の出身であったようです。 恵心が晩年に書いた
            娘への手紙(「恵信尼文書」)からもわかるように教養の高い女性であった
            ことだろう。
            また近年,その「恵心尼文書」の研究により,親鸞に先んじて法然の教えを
            受けていたのではないかという見方が強まっている。

            配流の越後でともに家庭を築き,さらに関東へ,幼い子供たちを連れて
            旅立った。 
            その途中,親鸞が観音菩薩の生まれ変わりであったという夢を見る,
            恵心にとって親鸞は菩薩のような存在であった。
            そして親鸞は,念仏信仰も共有した最良の理解者であり,人生のよき
            伴侶であった。

                    「親鸞めぐり旅」 講談社編より

 

 


法然の「吉水草庵」跡 「安養寺」

2011-04-26 08:10:23 | Weblog

                  

                   「法然と親鸞両上人御旧跡吉水草庵 慈円山 安養寺」
                   と山門に立つ碑に記されています

                 法然上人が專修念仏を説いた「吉水草庵」には親鸞をはじめ
                 老若男女がこぞって訪れた。

 

                  

                      本堂

              東山の山懐に建つこの寺の創建は平安遷都のときに遡り,もともと
              電業大師最澄が都の鎮守のために建てた天台宗の寺だった。

              比叡山黒谷で一心に就学に勤しんいた法然は,唐の善導大師が
              書いた経典から,念仏一筋に生きる教えを見出した。
              そして旧来の仏教を捨て,比叡山を離れる事を決意する。

              法然は山を下り,最初は西山広谷に住んだが,やがて東山吉水に
              庵を結んだ。 その跡に建つのが「安養寺」です。

 

         
         
              庵は法然の門弟が増えるに従い,坊社が増えた。
              六角堂で夢告を受けた親鸞が法然を訪ねたのもその庵です。

 

               

         親鸞にとっては充実した日々を過ごした場所である,しかし法然75歳のとき,
         念仏教団は解体させられてしまう,残された坊舎は親鸞の得度に立ち会った
         慈円が営むようになり「慈円山大乗院安養寺」と名づけられた。

 

               

               幾多の歴史を経たいまでも法然が使ったという井戸が残り
               法然,親鸞の御旧跡として親しまれている

 

                 「安養寺」   

                    京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624

 

 


救世観音の夢告を得た「六角堂」

2011-04-24 22:17:46 | 旅行

             「六角堂」は悩みぬいた親鸞が、参籠95日目に、”夢告”を得た寺。
             京都の”へそ”に位置し、聖徳太子が建てたという観音信仰の霊場

 

           

                  六角堂の正式名称は「紫雲山頂法寺」  

 

 

                

                    本堂の形にちなんで「六角堂」と呼ばれている

                「六角の角」とは六根(目・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる
                六欲のことを言いますが、人間の欲望、つまり煩悩を脱して
                角を無くし円満になること、つまり「六根清浄を願う」という
                祈りを込めて六角堂を造ったと伝えられています。

 

        

                     十六羅漢

                池の飛び石に童子のような愛くるしい羅漢像が並びます
                いつもニコニコと可愛い表情です、所々に邪気もいます

 

                 

                       太子堂の前の枝垂れ桜も満開でした

 

 

                 

                           親鸞堂

             比叡山の修行に行きづまった親鸞は状況を打開すべく六角堂への
             百日参籠を決意した、観音のお告げを得ようとしたのです。

             比叡山から六角堂までは約30㌔、親鸞の参籠には毎日その距離を
             往復したという説と、100日間ずっと堂宇に籠もったという説があるが、
             参籠自体は妻・恵信尼(えしんに)の手紙にも記されている。

 

 

                 

               参籠して95日目、親鸞はついに救世観音の夢告を受けました。

               これをきっかけに親鸞は吉水の法然を訪ねる。
               そして法然を生涯の師として入門し、比叡山と決別した。

 

                 

                        親鸞聖人像

 

 

                 

                      六角堂のご本尊は如意輪観音像で、秘仏
                      厨子の前にはお前立ち本尊がまつられています

 

 

           

            六角堂はいけばな発祥の地でもあります、聖徳太子が沐浴した跡とされる
            池のほとりには、小野妹子を始祖とする僧侶が坊を建てて住んでいた。

            これが「池坊」の名の由来だという、池坊の僧侶達は代々宝前に花を
            供えていたが、平安時代になると供花が一般的になり、その名手も
            登場する。

            池之端で花を生ける池坊専応、專栄の名が知られるようになり
            やがて「いけばな」として全国に普及して行く。

            池坊の特長は立花、それは池坊の花が神仏への供花からスタートした
            事に起因する。

 

 


親鸞修行の地 「比叡山」

2011-04-23 22:55:39 | 旅行

             法然が長い勉学の末についに専修念仏の教えを見いだし、
             親鸞が渾身の力で修行を続けた比叡山に行くことにしました。

             朝一番の比叡山延暦寺行きバスは8時30分、京都駅出発です。
             月曜の朝のバスは空いていて、そこで1人旅の女性に出会いました。
                  (延暦寺バスセンターまでの所要時間は1時間15分)

 

           

              延暦寺バスセンターで下りて東塔(とうどう)に向かいます

 

           

            国宝 根本中堂(こんぽんちゅうどう)  延暦寺の総本堂です

 

 

           

              根本中堂の本尊は秘仏 薬師如来像その前には「不滅の法灯」が
              開創以来1200年の間消えることなく灯り続けています。

              内陣が参拝者のいる中陣・外陣より低い位置にあり、本尊や法灯が
              参拝者の目の高さにきているのは、仏も人もひとつという仏教の
              「仏凡一如」の考えを表しているのだそうです。

 

 

                

                 根本中堂の向かい側のこの石段の上には「文殊楼」
                 比叡山の総門の役目を果たす重要な楼門です。

                 駆け上がれた事もあるのですが、足を痛めていたので
                 今回は登るのを諦め、下から参拝しました。

 

 

 

                

                 

              御修法 (みしほ)  という行事の日でした

 

           

                 「御修法」 はじめて出会う行事でした
              
              開宗以来続く天台密教の秘法で根本中堂に天皇の「御衣」を供え
              加持祈祷すると伝えられています。
              17名の天台最高位の僧侶により行われる伝統儀式だそうです。

 

           

                    行列を見送り東塔内の見学です

           

                         大講堂 

             僧侶が法華経の講義を聴いたり、お互いに問答をして勉強する
             学問修行の道場です、比叡山で修行して一宗の開祖となられた
             法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などの像が安置されています。

                

                     ご本尊は大日如来

                  親鸞は9歳で出家するとやがて比叡山に上がり
                  堂僧として修行に明け暮れた。

                  堂僧とは、常行三昧堂に仕える僧で、日夜多くの
                  勤めが課せられていた。

                  親鸞はそうした責務を果たしつつ、自身の修行を
                  極めていく。

           

                阿弥陀堂

          ここは滅罪回向の道場  ご本尊は阿弥陀如来

          お堂の前、写真右手に見える石のところに大きな水琴窟が作られていました、
          ”妙音”をお楽しみ下さいとありました、 妙なる音を楽しみました。

 

 

                   

                          東塔

 

           

                   朱塗りの美しい回廊

 

 

           

                       戒壇堂   

                    僧侶が大乗戒(規律)を受ける重要なお堂         

 

 

 

                     

                         ほとんど人通りのない道でした

                 京都駅バス乗り場で一緒になった女性と2人でこの山道を
                 西塔に向かいました。

 

 

           

           

                 

                        浄土院

               伝教大師の御廟がある浄土院は東塔と西塔の境目にありました
               山内で一番神聖な場所なのだそうです。

               12年籠山修行の僧が生身の大師に仕えるごとく奉仕しています

 

    

               

                  美しい杉木立と静寂な空気に包まれています

 

           

                      椿堂

                人影もなく、1人では淋しいところでした

 

         

                親鸞聖人修行の地という石碑を見つけました

            どんなに厳しい修行をしても、求める境地に至ることはできなかった、
            20年の修行生活ののち、親鸞は比叡山をあとにするのです。

 

 

           

                 常行堂・法華堂 「弁慶のにない堂」

              同じ型のお堂が廊下でつながっている、弁慶がこの廊下に肩を入れて
              担ったとの言い伝えから、「にない堂」とも呼ばれています。

 

                      

                            鐘楼

 

               釈迦堂

        山上で最も古く、天台建築様式の代表とされる荘厳な釈迦堂

 

                       

                          さらに山道を行きます

 

 

           

            瑠璃堂       苔むした石段と趣のあるお堂

  織田信長の軍勢によって比叡山が焼き払われ、建物で残ったのはこの瑠璃堂といわれます

 

       西塔の少しはずれにあるお堂です、1人ではここに行くのを躊躇ったと思います
       あまりにも淋しいところです、ご一緒した女性に感謝でした

       比叡山内のシャトルバスでこの先横川(よかわ)まで行けたらよかったのですが、
       横川から先に廻らないとバスの時刻表的に無理とあとで知りました。

       西塔からさらに奥へ4㎞の横川はひときわ静謐な修行の地、神秘的だそうです、
       そして親鸞など名僧たちが修行に入った地だったのです。
       何度か訪れている比叡山もこの横川にはまだ行ったことがありません、次の機会に
       ということになりました。

       帰りは京都駅まで直通のバスがなくて、比叡山頂ロープウエイで下山です。

 

                

                所要時間は3分のロープウエイからケーブルに乗り換えて

 

 

           

                 途中京都の町が見えました

 

           

            桜を楽しみ9分でケーブル八瀬駅に到着

 

           

                 八瀬比叡山口から出町柳までは叡山電車でした

              出町柳で遅い昼食を済ませ、ここから「飛雲閣」が公開されている
              西本願寺をYumiさんと一緒に見学、夕方まで過ごしました。
                   (京都駅で出会った女性はYumiさんという名前でした)

 

             京の都を守るようにしてそびえる標高800㍍余の山、比叡山。
             その山並みの全体が一大仏教寺院である。 八世紀に最澄が開いた
             この寺院はやがて多くの逸材を輩出した。

             厳しい修行とすさまじい湿気、恐るべき冬の寒さと切り詰めた生活から
             いつしか「論湿寒貧」が比叡山のキャッチフレーズとなる。

             後の親鸞の師となる法然は13歳でこの寺に上り「知恵第一の法然坊」と
             讃えられた、だが自身は名声を求めようとせず、中央から外れた「別所」
             と呼ばれる地で念仏の道に進んで行く。

 

 

           

 

             比叡山には「一度しかない経験」の思い出があります。
             もう15年ほども前のことですが、JR東海の京都クラブに入っていた頃、
             比叡山の麓、滋賀県側の坂本から徒歩で比叡山に登ったことです。

             坂本の阿者梨(あじゃり、正しいじゃは門の中に者です)さんと
             参加者は30人ぐらいだったと思いますが、明け方の3時に出発、
             日吉大社にお詣りしてから、根本中堂のところまで山道を歩きました。

             山道を一列に、数人の若いお坊さん達に守られながら、遅れないように
             必死で歩きました、参加者の中で私はいちばん年上のようでした、
             そして山には登ったこともないのです。

             根本中堂に到着する頃には夜が明けていました、そして帰り道は
             ケーブルに乗った人もいたのですが、何とか徒歩で下山できましたが
             一番最後に下りた1人でした。
             暗闇の比叡山山道、時々見える麓の小さな灯りが神秘的でした。

             「親鸞めぐり旅」から逸れましたが私にとっての比叡山のよき思い出です。

 

 

 


青蓮院門跡

2011-04-22 09:00:44 | 旅行

           9歳にして出家得度した親鸞の思いを訪ねるべく青蓮院門跡に向かいました。
           幼くして父母を失い、都にある伯父の家に預けられていた親鸞は出家する
           事になります。
           その得度の場所が現在の青蓮院だった、青蓮院は門跡寺院とされる
           格式高い寺です。
           平安末期から明治維新の直前まで、親王や摂家の子息だけが門主(住職)を
           務めてきた。

 

           

                   青蓮院門跡

           門主が国家や皇室の安寧を祈るためにある門跡寺院は全体に堂宇が小さい

 

                 

                    

                    

                          華頂殿の前に庭が広がる

 

           

            親鸞の出家に立ち会ったのは間もなく青蓮院の三代門主となる慈円だった

 

 

          相阿弥作と言われる見事な泉水庭  紅葉の頃はまた別の美しさです

 

           

              一文字手水鉢    自然石できた手水鉢は秀吉の寄進と伝えられる

 

           

           

                池にかかる半円形の反りの美しい石橋は跨龍橋(こりゅうのはし)

 

       震殿(正しくはウ冠に辰)そのシンは皇帝の意味を表し門跡寺院特有の建造物

 

 

           

             右近の橘 左近の桜を配している入母屋造り、寺内で最も大きな建物

             特別夜間拝観できた時、この庭にブルーの照明で梵字が浮かび上がり
             それは幻想的だったことを思い出しながら見せていただいた。

 

                 

                     鐘楼の鐘は手を合わせてからつくことができます

 

 

                 

                      親鸞聖人絵伝 「剃髪得度」  西本願寺

             西本願寺の絵師が親鸞聖人400回忌法要のために描いた八幅絵伝。
             右に控えるのが伯父・範綱か。
 
             多くの伝絵では実際に剃髪するのは近従の僧だが、この絵では慈円自ら
             行っているように見える。

             「親鸞伝絵」とは親鸞伝記絵という意味で詞書(ことばがき)と絵とを
             交互に連ねた絵巻物。  曾孫の覚如によって製作された。

 

 

                 

                        好文亭

 

 

           

                 親鸞お手植えとされる大楠木と長屋門

 

             何故慈円のもとで出家したかは定かでない、また出家の動機については
             諸説あるが、自身では何も語っていない。

             門前にそびえる5本の楠木(くすのき)は樹齢800年と推定されている。

             出家得度した9歳の親鸞聖人はここで何を思い、何を感じたかしらと
             しばし感慨にふけるひとときをすごしました。

 

             東山区粟田口の青蓮院から知恩院の前を通りました

 

           

              「知恩院」  親鸞聖人の師である法然上人が布教の拠点とした地に
              建てられた浄土宗の総本山  非公開の山門内も特別公開の折りに
              拝観したことがありますし、何回も訪れています、法然上人の法要が
              行われているようでしたが今回は通過しました

 

             親鸞は青蓮院から20年の修行の地比叡山に向かいました。
             私も比叡山に登ってみることにしましたといっても今回はバスでですが、
             そこで出会った1人旅の女性と1日行動を共にすることになたのです。

 


「親鸞めぐり旅」ー京都 法界寺・日野誕生院ー

2011-04-21 20:50:37 | 旅行

            「親鸞めぐり旅」 (講談社編)という本を見つけた。
            興味があったのは親鸞聖人、それは中学・高校と浄土真宗の女子校で
            学び、朝の礼拝にはお経を読んでいたからです。

            1週間に1度、宗教という授業があり親鸞聖人のことを学びました。
            13才から18才の頃ですから、興味を持って授業を受けていたわけでは
            なかったのですが、、、

            卒業して何十年も後に気がついてみたら、京都や奈良のお寺さん巡が
            趣味になっていました。
            女子校での経験があったからこそと思います。

            桜の季節に「親鸞めぐり旅」ゆかりの京都い行くことにしました。

 

           

              親鸞聖人誕生の地日野に建つ「法界寺」の薬医門形式の山門

              承安三(1173)年、京都市の郊外、法界寺の建つ現在の伏見区
              日野で親鸞は誕生した。
              父は日野有範(ありのり)、母は吉光女(きつこうにょ) 
              有範は、法界寺を建てたとされる日野資業(すけなり)から数えて
              四代後である、親鸞はこの地で幼児期を過ごした。

 

           

                     「阿弥陀堂」 

 

                 

                     ご本尊は阿弥陀如来座像

                 親鸞が生まれた時、寺には本尊の薬師如来座像をはじめ
                 座高3㍍にもおよぶ阿弥陀如来座像もすでにあり、複数の
                 堂宇が壮大な伽藍をなしていたといわれる。

 

           

                     薬師堂

              その後堂宇の多くは焼失したが両像は今も残り、それらを目にした
              親鸞の姿を参拝者に思い起こさせる。

              また薬師如来は出産と育児にご利益があるとされ、「お薬師さん」と
              親しまれてきた。

 

 

           

               薬師堂は「日野薬師」「乳薬師」として女性達の信仰を集めてきた
               その証拠に堂内には出産や育児にご利益を施された女性達が
               献じたよだれかけがぎっしりと結びつけられている。

 

 

         

                   池にじっと佇む白鷺の姿がありました

 

 

                

              99年の生涯において親鸞が京都にあったのは65年におよぶ。
              越後に流罪となった35歳までの歳月と、60歳頃に帰京してから
              なくなるまでのおよそ30年間である。

              京都は故郷であり、青春期と晩年を過ごしたかけがえのない土地。
              また旧来の仏教界による弾圧を受けた受難の地でもあった。

 

              はじめて訪れる法界寺は親しみ深くここから親鸞上人の足跡を
              たどるのは楽しみになりました。

 

                

                     親鸞誕生の地を記念する「日野誕生院」

 

 

                

               法界寺から数分のところに佇む日野誕生院はその名の通り、
               親鸞誕生の地を記念して建てられた堂宇である。
                   

               現在、浄土真宗本願寺派(西本願寺)飛び地境内と位置づけられ
               自由に参拝することができます。

 

           

             親鸞が誕生した当時の建築様式を繁栄させた、回廊をめぐらした
             古風な作りになっています。

             境内には9歳で出家した折りに詠んだといわれる歌を刻んだ碑も立つ。

                    明日ありと思う心のあだ桜
                           夜半に風の吹かぬものかは

 

           

                      「誕生院保育園」内の飛び地に残る胞衣塚 

                      親鸞のへその緒が埋められているといいます

 

                

                       

                            親鸞産湯の井戸

                   親鸞の産湯のために水を汲んだと伝えられている

 

 

           

               こちらでも親鸞聖人750回大遠忌法要が行わるようでした

 

               次は9歳で出家得度した「青蓮院門跡」に向かいます。

 

 


京都の桜

2011-04-19 20:19:11 | 旅行

            「親鸞めぐり旅」という本を見つけ、ゆかりの京都の旅を思いつきました。
            ちょうど桜が満開の時期に行けて、京都初日以外は、めぐり旅の途中で
            偶然通りかかった桜があまりに美しかったので撮ってみました。

 

           

               青蓮院門跡に向かう時に通りかかった平安神宮です

 

 

           

                神苑の紅枝垂れが見えていました、ここでライトアップの中
                紅枝垂れコンサートが行われます、印象に残るコンサートです

 

 

           

               ここの紅枝垂れは見事ですが残念ながら神苑には寄れませんでした

 

 

        

                平安神宮近くの岡崎公園あたりに咲いていました

 

 

                

                       紅枝垂れ桜のようです

 

 

        

                  数種類の桜にわくわくしました

 

 

        

               ソメイヨシノとはまた違う艶やかさです

 

 

                

                       美しさを競い合っているかのようでした

 

 

        

               急いでいたのに時を忘れて見入りました、何という美しさ!

 

 

          

                 夢見心地で歩いていると疎水の桜が目に入りました

 

 

  

                   こちらはソメイヨシノでしょうか

                青蓮院門跡は「親鸞めぐり旅」の中で紹介しましょう
                知恩院の前を通り、安養寺に向かう途中に通りかかりました

 

 

        

                あまりにも有名な円山公園の枝垂れ桜です

 

 

 

            桜が咲いていない時期には包帯のように布を巻かれていたこともあります。
            この時期のための養生でしょうか、見事に満開でした。

            久し振りの京都でこんな満開の美しい桜が見られたのは幸せでした。