江戸東京博物館「友の会」の広重「江戸百景」名所散歩に参加しました。
今回は我が家の隣り駅、メトロ東西線茅場町が集合場所でした。
ひとグループ8名、案内の人が付いて順次出発します、まず着いたのは
集合場所からほんの数分、「鎧の渡し」があったところです。
46景 「鎧の渡し小網町」
江戸時代小網町二丁目の蔵の間から、こちら表南茅場町北側に
渡し舟が出ており鎧の渡しといいました。
日本橋川の両岸は江戸の商業の中心であり、江戸で消費される
大量の物資が船で運び込まれ、大小の船でかなり混雑していた。
この絵の手前は足の早い猪牙舟(ちょきぶね)、大きな船の舳先の陰は
渡し舟、手前で舟の往来を眺めているか、渡し舟を待っているのは
近くの商家の娘であろう。
鎧の渡し跡案内板と日本橋川に架かる鎧橋
八幡太郎義家が奥州征伐に行くとき、ここから下総の国へ海を渡ろうとして
舟を漕ぎ出したところ暴風が吹き、船が転覆しそうになった。
そこで鎧一領を海中に投げて竜神に祈ったところ、風と浪が静かになり、
無事に渡ることができたという故事により「鎧の渡し」と名づけた。
兜神社
松平泉守屋敷跡内にあります。今の兜神社は、東京株式取引所が
設けられるにあたり明治11年に取引所関係者の鎮守として造営された。
境内に安置されている兜岩は源義家がこの岩に願いを懸けて
戦勝を祈ったと伝えられていて、周辺は兜町と呼ばれています。
番外 第一国立銀行発生の地
八丁堀
現在の茅場町近くの八丁堀は船運のため八丁堀川が開削され、その水路の
長さが八丁(約872m)あったことから八丁堀と命名された。
元禄年間以降は江戸奉行所の与力。同心約300人(時代により人数変動)の
組屋敷が置かれた。 八丁堀の旦那の始まりです。
地図の右上川に挟まれた角が東京証券取引所、その右が日本橋川です。
永代橋のところから隅田川テラス出でました
4景 「永代橋佃しま」 絵
永代橋は隅田川の最下流で、日本橋の箱崎と深川佐賀町を結んでいた。
完成は元禄11年です。 (現在より100mほど上流)
赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸で主君の仇を討ち、高輪の泉岳寺へ
引き上げる途中この橋を渡ったのは、その4年後でした。
永代橋の下から佃島の方向を望んで夜の白魚漁の有様を描いたもの。
永代橋から見える佃の高層ビル群
佃島は摂津の国(大阪)から幕府に呼び寄せられた漁民が、この地を賜りそれを埋め立てて
住みついたところである。 島の名前は出身地の村の名前からつけられた。
白魚は江戸時代に非常に好まれた魚、佃島辺りで獲れるのが最も美味とされ、漁で取れた
白魚を幕府に納入することになっていた。
夜行われる漁の篝火が江戸の風物詩の一つにもなっていた。
現在の永代橋の下にも遊覧船が行き交います
当時は日本橋から川沿いを歩き、橋を渡れば深川八幡に行けたので重宝された。
番外 霊岸島水位観測所
日本の標高は東京湾の平均海面を基準として計られています。
その基準となる平均海面を測定していた場所がここでしたが、
東京湾の埋め立てにより適さなくなり、標高0を決める役目は
油壺験潮所に移っています。
77景 鉄砲洲稲荷橋湊神社
赤い塀で囲まれたところが神社、八丁堀の出口に架かるのが、稲荷橋。
隅田川に流れ出る河口からできた細長い洲が鉄砲の形をしていたとか、
そこが昔大筒の試射場であったからとかいわれ、鉄砲洲という名が
付けられていた。
鉄砲洲から芝浦までの湊が江戸湊となっていた。
関西方面から菱垣廻船や樽廻船で運ばれてきたいわゆる下り物は、
この湊で小型船に積み替えられて、縦横に張りめぐらした掘割を通り、
最終消費地の河岸まで運ばれていた。
ちなみに江戸周辺で取れた産物は質が劣るとされ、「下らぬ物」といた。
手前の大きな帆柱は菱垣廻船か樽廻船のものであろう。
(ひがきかいせん、たるかいせん)
現在この亀島川に架かる橋は高橋、左手二つの白いビルの間に水路がありました
今は埋め立てられて公園になっています。 (地図左斜めに向かう水路)
鉄砲洲稲荷神社
江戸時代、八丁堀稲荷橋南詰めに江戸湊を守る稲荷神社がありました、
南北八丁堀の総鎮守でした。
す組の水桶
都内唯一の富士塚が現存し、頂上には浅間神社が鎮座しています。
これは明治になってからのものですが、江戸時代には庶民に人気が
あったようです。
鉄砲洲稲荷橋の碑
隅田川テラスに戻り佃に行きます
一度通過した中央大橋を渡ります
永代橋とスカイツリーのコラボ
中央大橋を渡り佃の高層ビル群の横を通り住吉神社に行きます
55景 佃しま住吉の祭
絵は安政4年(1857)6月28日から29日にかけて行われた
佃島鎮守の住吉神社3年に一度の大祭の情景です。(旧暦)
祭が近づくと大幟を神社の前に立てられ、佃囃子の笛の音に
合わせてはためいていた。
この絵の幟に安政4年6月とある、広重の死は安政5年9月6日であり
この絵はその1年前に描かれていることがわかる。
祭の2日目には、大きな神輿が裸の若集連中によって海中まで
担ぎ込まれ、その有様は壮観であったという。
住吉神社
自分達の生国「佃」と名づけて、郷土の村の住吉神社を勧請して
この地に住吉神社を建立した摂津の国(大阪)の漁師は、この島で
自家用に近辺で獲れた魚介類や海苔を煮しめて保存食を作っていた。
これが後に他の人々にも賞味されるようになった佃煮である。
6月に佃を散策した時に住吉神社は紹介しましが、この水盤舎の彫刻に気づきませんでした
この四箇所の彫刻は江戸時代のものだそうです。
佃大橋からみた佃島 佃煮屋さんの看板が何軒も見えました
これが佃大橋、徒歩で渡るのは始めてでした、高層ビル群も佃です
隅田川から少しはなれ聖路加タワービルの前に出ました。
ここにあったのはアメリカ公使館跡の石碑でした。 右側の星の数は
当時の州の数のようです。
隅田川を少し離れて築地市場辺りを散策
明暦の大火(1657)をきっかけに江戸市中の大改造が行われ、築地が
誕生したのも、この時です。
「築地」という地名は、江戸湊を埋め立て「築いた土地」であることに
由来しています。
東京中央卸売市場は松平越中守下屋敷跡です。
78景 鉄砲洲築地門跡
ひときわ高い築地本願寺の屋根が目を引きます。
鉄砲洲の内側はもともと葦の茂る洲でありました。明暦の大火の
教訓から密集地を拡散させるためこの湿地帯も埋めさせ土地を
造成し、築地と名づけた。
浄土宗西本願寺はもと浅草にあったが、大火後再建、築地門跡と
呼んだ。
壮大な屋根は群を抜いて高く、海を航行する船もこの屋根を目標に
することができたといいます。
鉄砲洲の前の海は江戸湊といわれ、大小の船で混雑していた。
一方このあたりの海は江戸有数の漁場でもあり、春はキス、秋は
ハゼが獲れ、投網ではカマスやカレイが獲れたといいます。
番外 築地で大正・昭和の町並み
こちらは旅館
この建物は売りに出てました
懐かしいような家が何棟もありました
賑わう大通りからちょっと入ったここは静かで、知らない土地に迷い込んで
しまったような不思議な感じがしました。
108景 芝うらの風景
芝浦は汐留橋から高輪辺りまでの海浜を指した。 ここは多くの漁師が
住んでいて、小魚を獲っていた。
美味しい魚が多く、芝肴と称し、のちになって肴は江戸の前で獲れたから
「江戸前」と名づけて珍重するようになった。
芝浦の北端近くに浜御殿があった。
(絵の右側石垣の上青々しているところ)
御殿前の海中には、御留杭(おとめぐい)と称する木組みが4本立ち
水位が分かったので、船はこれを見て浅瀬を避けながら進んだ。
海上を飛んでいるのは都鳥と俗称されたゆりかもめです。
浜御殿の先の沖に土盛りがいくつか描かれている、近いように見えるが
幕府が黒船撃退のために、品川の御殿山を削った土で品川沖に築いた
御台場のようである。
ここは浜離宮恩賜庭園に入る橋から見える景色です、右手が庭園
絵の景色は中央卸市場の南端から望むのが近いそうですが、現在工事中で
近寄れず、ここからの眺めになったそうです。
広重「江戸百景」 茅場町・築地周辺散策は4時間近くにもなり、ここで
解散となりました。
日ごろから自分でも歩く我が家から近い範囲と思っていましたが、知らない
ことがいっぱい、江戸の町の名残を見つけるとわくわくしました。
このコースを20回ぐらいも歩かれたという「えど友」の方の解説も素晴らしく、
江戸好きのお仲間と歩いた楽しい4時間でした。