江戸東京博物館・友の会で出かけたのは、江戸四宿のひとつ甲州街道の
宿場町・内藤新宿です。
人通りが多い中を歩くので1班10名づつ、集合場所四谷区民センターを
順次出発しました。
四谷区民センターの脇には「四谷大木戸跡」と「水道碑記」(いしぶみのき)
甲州街道は、徳川家康が慶長・元和年間に整備した五街道のひとつで
江戸から甲州を経て下諏訪で中山道に合流する。
「水道碑記」碑文には開削の由来や開削を請け負った玉川兄弟の事績を
たたえた内容が漢文で記されている。
外苑西通りと新宿通りとの交差点・四谷4丁目交差点に「四谷大木戸」が
甲州街道・青梅街道への出入り口として設けられた。
内藤新宿開設300年記念碑は新宿御苑大木戸門のすぐ近くにあります。
内藤新宿は元禄12年(1699)譜代大名内藤家の中屋敷(現新宿御苑)の
一部を宿場開設の用地として返上させ、業務を開始した。
宿場は東西九丁十間(約1km)、現在の四谷4丁目交差点手前から
新宿3丁目の伊勢丹あたりまで続き、本陣や問屋場などがあった。
江戸の出入り口として繁栄したがその繁栄を支えたのが旅籠屋であった。
旅籠屋には、飯盛り女と呼ばれる遊女が置かれたが、元禄15年(1702)
には幕府公認の吉原から訴訟が出されるほどであった。
玉川上水・内藤新宿分水散歩道
かつての流れに沿って、新宿御苑散策路があります
井の頭を水源とする「神田上水」が、江戸城下の北部・東部への給水が
中心となったのに対し江戸城下西部・南部への給水のため、多摩川を
水源とする「玉川上水」が計画された。
承応2年(1653)11月羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmの
掘割をわずか8ヶ月で完成し翌年6月には、甲州街道などの地下に
石樋・木樋を埋設し、虎ノ門までの約51kmの全工程が完成した。
玉川上水の終点となった、現新宿御苑大木戸門付近には「四谷大木戸
水番所」が置かれ、ここから地下の石樋や木樋で供給する前に、水量を
調節し塵やごみの除去を行った。
広重・名所江戸百景「玉川堤の花」
上水沿いに植えられた桜並木は、玉川堤の桜として小金井や
内藤新宿などの桜の名所を生み出した。
*桜には、解毒・水質保持に有効と考えられていたようです。
今も残る余水の水路
玉川上水が増水した時には、渋谷川(実際は隠田川と呼ばれる支流)へ
通じる分水路に余水を吐水(排水)した
NHK番組「ブラタモリ」で紹介された時印象に残り、見たかった場所です。
御苑の大木戸門から外側を行くとすぐのところでした。
多武峰神社 (とうのみね) (内藤町1-8)
新宿御苑と東隣に位置するこの辺り一帯は内藤家の中屋敷のあった場所
内藤家の家紋は下がり藤なのに、何故かここは上り藤
社殿にかけられた綱は右が頭の馬の形
こちらには駿馬伝説と駿馬塚があります。 徳川家康が入府後、
譜代の家臣内藤清成と青山忠成の二人に「馬で駆けまわっただけの
土地を与える」と言い渡した。
内藤清成の乗った駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、
東は四谷と広大な地域を走り回りまわることに成功し、息絶えたため
亡骸は大きな樫の木下に埋められた。
駿馬堂
のちに樫の古木の下に功労をたたえる石碑を残した。
駿馬堂には江戸時代に造られたとする「駿馬の像」が
設置されている。
神社に隣接する地に鉛筆の碑 (番外)
鉛筆の歴史が誕生した場所、明治20年(1887)佐賀藩出身
眞崎仁六は、この地に「眞崎鉛筆製造所」(三菱鉛筆株式会社の
前身)を起こし、鉛筆の生産を開始した。
長善寺(笹寺) (曹洞宗 四谷4-4) 「四谷勧進相撲始祖」の碑
通称「笹寺」の由来は
1)2代将軍・秀忠が鷹狩りの途中に立ち寄ったとき境内に笹が茂っていた
とする説(江戸名所図会)
2)3代将軍・家光が江戸を巡覧したときとする説(寺伝)
いずれの説も確実な証拠はなく、寺宝である「めのう観音」が秀忠の念持仏で
秀忠夫人が寄贈したという寺伝など、将軍秀忠時代のことと考えるのが自然
のようです。 (めのう観音の正面下部蓮華の左右下部に笹を配した台座)
四谷勧進相撲の石碑は寛永1年(1624)境内で行った6日間の相撲興行を
江戸勧進相撲の始めとする記念碑。
・定説は貞享1年(1684)雷権太夫が、深川八幡神社境内で春秋2回の
勧進相撲興行の許可を受け実施、となっている。
なお天保4年(1833)以降は本所・回向院が勧進相撲の定場所となった。
太宗寺 (浄土宗 新宿2-9-2)
寛永6年(1629) 内藤家5代・正勝が逝去の際、葬儀が行われ
ここに葬られた。
これが縁で6代・信頼から寺領が寄進され「太宗寺」が創建された。
内藤新宿中ほどの仲町にあり、江戸庶民の信仰を集め、門前町も
発展した。
銅造地蔵菩薩坐像
江戸に入る6つの街道の出入り口に安置された地蔵菩薩坐像
「江戸六地蔵」の第三番目、座高267cm
「内藤新宿のお閻魔さん」として信仰を集めた閻魔大王坐像
左側には怖い顔の奪衣婆像(だつえばぞう) 閻魔大王の下で
三途の川を渡る亡者から衣類を剥ぎ取り、罪の軽重を計ったと
されている奪衣婆、猛々しい姿が閻魔大王より恐ろしく見える。
「葬頭河(しょうづか)のばあさん」と呼ばれ、内藤新宿の妓楼の
商売神として、楼主や遊女の信仰を集めた。
切支丹灯籠
キリスト教禁制の時代に、隠れキリシタンが密かに
礼拝したといわれる。 (内藤家墓地改装の際出土、復元)
内藤正勝の墓(内藤家墓地)
かつては57基の墓石・約300坪の広大な墓地であった、現在残る3基
三日月不動像(不動堂)
額の上に銀製の三日月をいただくため通称三日月不動。
新宿山の手七福神・布袋尊像も厨子に納められている。
塩かけ地蔵
不動堂の隣は塩かけ地蔵のお堂、塩に埋もれ
塩で溶けてしまい、原形をとどめていないが、
「いぼ」にご利益があるといわれるお地蔵さま。
・お願いする時は、願いをかけて塩を少しいただいて
帰り、患部にぬり、願いがかなったお礼は、塩を
倍にしてお返しするという。
太宗寺の境内案内図を見ながら解説を聞くお仲間
第2班説明者は「えど友」宮地さん(帽子にリボンの人)
其の弐に続きます