しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

「塩竃神社」

2013-05-30 12:01:02 | 旅行

                本塩釜で宿泊して、山寺に登り疲れた体はすっかり回復、
                いつものように早く目覚めて、ホテルから徒歩15分ほどで
                行けるという「塩竃神社」を散策することにしました。

 

               

                 教えてもらった近道、塩竃神社の東参道から入ります

 

               

                       新緑の中の五重石灯籠

               

                朝6時過ぎでしたから、参拝する人影もなく静かな参道

 

        

              陸奥国一ノ宮  ” しおがまさま”と慕われる  「塩竃神社」

                

                        東神門に新緑が映えて美しい

                

                      すがすがしい朝の光景でした

 

         

             舞殿                        撫で牛

                

                       別宮にもお参り

 

            

                 塩竃神社 右宮 左宮の楼門と回廊 

                      (正面奥右宮、左宮はお参りしましたが、工事中でした)

 

                 

                   随身門  表参道から入ると随身門、楼門と続きます

 

                     もう少し境内を散策すっるため戻ります

                  

                         参道を戻ると

 

                  

                         「志波彦神社」の大鳥居

            

                   農業守護・国土開発・殖産の神

                  

                        こちらも静かな境内でした

                  

                    近くに桜の花を見かけました、塩竃ザクラかどうかは
                    聞きそびれましたが、国の天然記念物の桜があるそうです。

               こちらは見事な白藤

 

 

             美しく整えられた社務所前に広がる庭園

        

                白藤の裏側に紫の藤も咲いていました

          

          

                  まったく人影もなく、神秘的な景色です

 

        

                桜梅花空木  (さくらばいかうつぎ)

             春から初夏の花が全部咲いているようでした。

 

      

                   なんだか可愛い狛犬

 

                

                    帰り道は随身門の正面、表参道からです

 

                

                      怖いような急な階段でした

 

        

                   塩竃神社の表参道です

 

          

                 途中で見かけた名物「しほがま」のお店、残念ながら
                 朝7時過ぎでは開いてませんでした。

              亡き父の好物で、入院中、絶食だった時に病室の天井が”しほがま
              みたい”と言うので、見ると細かい紫蘇が入った”しほがま”にそっくり
              だったのを思い出しました。

 

 

                本塩釜に着いた日、前日になりますが、塩釜港に出てみました。

                 

                      港からすぐのマリンゲート塩釜

    

        塩釜港は松島湾内にあり、ここから松島観光にも出られるそうです

        東北震災により被害を受けたのですが、塩釜は松島と共に島で守られ
        石巻に比べて被害が少なかったそうです。

            夕暮れ時の静かな湾でした

  

              ピンク色の列車は仙石線

          近くで夕食後、しばらく湾を眺めていました、途中代替バスに乗りますが
          明日、石巻に向います。

 

                 


東北の旅 「立石寺」

2013-05-28 07:16:14 | 旅行

               立石寺・根本中堂<薬師如来坐像>の50年に一度の
               ご開帳拝観に山形に行きました。

               今回の旅は、念願の東北被災地も訪ね、以前行ったことのある
               お店の様子も知ることが出来ました。     
               
               
               

                

                早朝の新幹線で向ったのは山形駅、仙山線に乗り換えます

 

            

                 山形駅から15分ほどで山寺に着きました

 

  

          山寺駅のホームから五代堂が見えます、車窓から何回か見た景色です

          

          下車は初めてです、駅から徒歩で、まずは根本中堂へ向います

 

        

                拝観の列が出来ていました

 

        

                  堂内でも並んで順番を待ちます

 

          

                 五色の紐は

 

          

               お堂の中を通り、<薬師如来坐像>の手に結ばれていました。
               順番を待ち、静かにお参りできました。
               傍らには1200年灯し続ける不滅の法灯がありました。

           

             宝珠山立石寺は慈覚大師が開いた天台宗の山、立石寺は山の総称で
             その名の堂宇はなく、860年に創建の根本中堂が中心道場です。

 

       

           山寺に訪れた芭蕉と随行した門人曽良の像がありました

               「静けさや岩にしみ入る蝉の声」  芭蕉も訪れた地です。

 

               

                こちらには、それぞれ人の寿命がくると、長患いすることなく、
                苦しむことなく極楽浄土にお迎えくださる阿弥陀如来が
                居られました。

 

        

                     山門 を通り山に入ります

                

               ここから800段以上です、最後まで上れるか少し心配でした
               こんななだらかな階段だけではなかったのです。

 

            

               仁王門が見えてきましたが、赤いもみじで秋の景色と間違えそうです

 

            

              ”邪心を持つ人は登ってはいけません”と睨みつける仁王像がおわします

 

                 

                   かなり暑い日でした、花を愛でつつひと休み
                   日陰に入ると心地よい風に一息つけました。

                  山の自然に沿って造られた参道は昔から修業の道、
                  一番狭いところは約14cmの4寸道です。

                  くねくね曲がる狭い階段は登る人と、下る人で譲り合い
                  ながら進みます。

        

                なんとか1015段登りきり、奥の院に着きました
                                      (1015段は下からの段数)

               

               右のお堂は奥の院とも言われる「如法堂」 開山・慈覚大師が
               中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来が本尊です。

               

             左の大仏殿には像高5m、金色の阿弥陀如来が安置されています

 

        

         奥の院を少し下り、右の入ると小さなお堂がすっぽり入った三重小塔がありました

 


                  

              藤が見ごろでした

                  奥の院に行く途中に塔頭が何箇所かあります

 

                

                         奥の院手前の塔頭

                

                      こちらも塔頭、お土産も買えます

 

          

                  胎内堂     現在はここには行けないようです
                                                        

 

                

                       釈迦堂  修業の場だったのでしょうか

 

 

               下界が見える場所に出ました、右の小さなお堂は

 

                

                   納経堂  この横を通り最終目的地に行きます

 

 

           駅のホームから見えた五大堂です  百丈岩の上に建ちます

 

           列車の音が聞こえたので見ると、駅に向うところでした

 

           列車は駅に到着   左下赤い欄干の橋は来る時渡った宝珠橋です

 

        

                    崖に沿うように咲く藤の花

 

                

                      五大堂の中です

                

                   山の斜面から突き出るように建てられています

                

                     お堂の床下

 

                

                      下のお堂は開山堂

 

                

                  シャガはあちこちに見られました、そしてこぶしの花

 

                

                        仁王門の下を通り

        

              うっそうとした杉木立の中、日陰は心地よく、順調に下山

 

                

                   弥陀堂の近くの不思議な光景、ちょっとした窪みに
                   コインがいっぱいでした。、張り付いているようにも
                   見えるんです。

 

          

            こちらはだいぶ薄れてしまっていますが、磨崖仏(まがいぶつ)

 

                

                思ったより軽快に下山できました、帰りはこの門を抜けました

                この日5月21日は気温がかなり上昇し、汗だくになりましたが、
                行きも帰りも快調で、自分でも驚きました。

                 

                    根本中堂での拝観待ちが思いのほか長く
                    予定の列車には乗れませんでしたが、
                    そこは気ままな一人旅、息子が作ってくれた
                    旅程と時刻表を見て予定変更です。

     

        山寺駅に降り立った時とは違い、なんだか山が神々しく見えました。  
        崖から突き出たような「五大堂」まで行き、上から景色を眺められたからでしょう。

           手前の岩は「香の岩」というそうです。

 

                

                 仙山線快速で仙台まで約1時間、仙石線に乗り換えて
                 30分ほどで本塩釜駅、駅近くのホテルに到着。

 

           

                 ひと休みして、ホテルから徒歩15分ほどの塩釜港まで散歩
                 夕食を楽しみ、旅初日の開放感を満喫しました。
                 

      
                  
                  
               


江戸名所絵図を中心に江戸の面影を訪ね歩く <駒込~白山>

2013-05-20 22:09:12 | Weblog

               江戸博友の会の見学会、今回出発は駒込駅、10人一組で
               順次出発でした。 

               江戸時代、駒込村は岩槻街道(日光お成り道)の宿場でした。
               日光街道は日本橋~宇都宮までは奥州街道と重複していて、
               大名行列などで込み合うため、将軍の日光東照宮参詣は専ら
               岩槻街道を利用したそうです。

 

                

                     富士神社   駒込は一富士二鷹三なすび

               

              駒込の「お富士さん」は江戸六富士の随一とされ有名であった。
              二鷹は、八代将軍吉宗が鷹狩りを復活し、鷹匠屋敷が駒込におかれた。
              駒込なすは良質で有名で、富士裏のなすとして神社裏が生産地だった。

 

               

                  拝殿は階段の上、横に緩やかな女階段もあります

  

               

                   天祖神社 (駒込神明宮)

                 本郷通りに戻り数分で左折すると神明宮の前に出した。
                                      (本駒込三丁目)

               

                   

        

                 江戸時代は「駒込の新宮様」と呼ばれ親しまれた

 

               

                     駒込名主屋敷は天祖神社のすぐ近くです

 

           

              高木家の先祖は、大阪城落城後、豊臣方の残党として関西から
              ここに亡命、駒込の開拓を許され、名主役を務めた。

                 

                      式台付き玄関

                  一般の町家では許されず、武家でも旗本以上の屋敷しか
                  許されない式台付き玄関がある。
                  町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったので、
                  ”名主様玄関の裁き”といわれた。  (都指定文化財史跡)

 

        

               山門は両袖に潜り戸をつけた四脚門

            明暦の大火(1657)で焼け、水道橋際から現在地に移転した。
            現在の中央線の吉祥寺はそのとき門前の人たちが移って新田開発に
            従った事から名づけられた。

 

     
                             「不許軍酒入山門」とかかれています
                                 (軍に草冠がつきますが、酔っ払いの事)

         曹洞宗の修業所であった、学寮、寮舎を備え、常時1千人以の学僧が修業し
         当時の官学の幕府・昌平坂学問所と並び称された。現在の駒澤大学の前身。

 

        左端中央が講堂  手前右と中ほどの屋根が続くところは学寮

 

                

                 お七吉三の比翼塚は、文学愛好者により建立された。

                井原西鶴が「好色五人女」で八百屋お七を書き、吉三との
                出会いを吉祥寺としたことによるが、白山の円乗寺が本当である。

        

               本堂に続く参道は新緑が美しい桜並木です

 

                

                       二宮尊徳の墓

 

                

                     経蔵

        

                各部の彫り物の意匠は素晴らしい

 

        

               

 

               

                     鐘楼も桜の木に囲まれています

 

             本郷通りに戻りしばらく行くと右手に赤目不動尊の門がありました。

 

        

              江戸五色不動尊のひとつです

        

               赤目不動尊   (南谷寺)

          江戸五色不動は、目白は(豊島区 金乗院)  目黄は(江戸川区 最勝寺)と
                                              (台東区 永久寺)
                      目青は(世田谷区 数学院)目黒は(目黒区 龍泉寺)です

                 

                

                   本郷通り沿い本駒込駅近くに「駒込土物店」跡

               神田、千住の青物市場と共に、江戸三大市場のひとつと言われた
               青物市場でした。

               土物店というのは、富士神社裏一帯は駒込なすの生産地として
               有名であり、大根・人参・ごぼうなどの土の付いたままの野菜(土物)が
               取引され、土物店ともいわれた。

               江戸城には大奥を始め多くの奉公人がおり、城中に詰める武士にも
               食事を出したので、大量の魚や野菜類を必要とし、ここも野菜を納める
               御用市場となった。

               野菜を大八車に積み、御用札を立てて街道を行くときは、大名行列も
               これをよけたといわれる。

 

                

                 メトロ南北線、本駒込駅から程近くにある高林寺は明暦の
                 大火で焼け、お茶の水からここに移転した。

             

                    緒方洪庵・岡麓(アララギ派歌人)の墓があります

 

                  

                    大観音   光源寺の大観音として有名であった
                    
                 元禄10年(1697)造営といわれる金色の十一面観音菩薩
                 木彫りで高さ約5m、台座からだと約8mもあり二階の窓から
                 顔を出していた。 絵は二人の男が驚いている様が描かれている。

 

        

                   現在の大観音も上の窓からお顔が見えます

              

                

                 覗きこんでみました、観音様の尊顔がよく拝めるようにと
                 窓を開け、観音開きにしたのはこの頃としては秀抜のもの。

                 7月9,10日の両日は多くの参拝者で賑わった。
                 戦災で堂内の一千体の観音像と共に焼け、平成5年に
                 堂と観音像が再興された。

                 ほうずき市に行ったことがあるお寺さんでした、
                 それにしてもこの辺りはお寺さんが多いです。

 

                

 

                

                    浄土宗 瑞泰寺  珍しい入り口の像の飾り

                    京都 知恩院の末寺と書かれていました。

                

                     東都六地蔵の一番のお寺さんでした

 

                本郷通りをそれて薬師坂に入ると次の訪問地は白山神社

 

              白山神社

 

                

                       旗桜

                 境内に旗桜と称する老樹があった。  永承六年(1051)
                 八幡太郎義家が奥州平定の途中この地を通った時、旗を
                 この木にかけ戦勝を祈願したという。

                

        

              文京あじさいまつりを何回か紹介したことがある神社ですが、
              菖蒲の奥のあじさいの蕾はまだこんなに小さかったです。

 

               

                 五大将軍綱吉の生母桂昌院の崇敬篤く、この辺りの
                 地名白山はこちらの神社があることから名づけられた。

   

               

                   円乗寺  八百屋お七の墓

 

     

        恋に身を焼いた悲恋のお七の事件は江戸の人々を驚かせ、同情を誘い、歌舞伎、
        浄瑠璃、草双紙に描かれ、実説、虚説、さまざまに脚色された。

        余話 
        お七を裁いた北町奉行所は、放火が小火であることからお七を助命しようと
        「お前は15であろうな」と問えば、付き添いの名主は奉行の心中を察し、
        「恐れながら15でございます」といったが、正直なお七は16ですと答えたため
        掟どおり処刑された。

        寺小姓吉三は僧となり、諸国を行脚し、後の目黒の大円寺の下の明王院に
        入り、お七の菩提を弔った。

        
        私の友人の実家、千葉県八千代市の「長妙寺」さんに八百屋お七のお墓があり、
        訪れたことがあります、そのことを話しましたが、どちらにもあるのではないかと
        いうことでした。

 

         

              円乗寺さんの六地蔵さんたちに見送られてこの日の見学会は
              白山駅で解散となりました。  所要時間は約3時間でした。

    


              
              


「ワテラス」で焼肉

2013-05-17 20:20:46 | Weblog

                神田淡路町に4月にオープンした高層ビル「ワテラス」内の
                焼肉レストランに息子夫婦に誘われて、出かけたのは
                ”母の日”が近い日でした。

 

                 

                  出かけることのある神田須田町からも見える高層ビル

 

            

                     神田明神祭の最中でした

 

                 

                     <エイジング ビーフ> ワテラス店

                   熟成された美味しいビーフが食べられるお店です

            

                    夕食にはまだ少し早い時間でした

 

            

               開店してまだひと月ほどですし、きれいでモダンな店内です

 

            

             いろいろな部位の盛り合わせ、実はもうこの前に別の一皿平らげています

 

                 

                   焼肉のお供はやっぱりこれ、もう1種類カクテキの
                   3種が付いて盛り合わせ。

                 

                 焼いたカルビにごま油で味付けした小ネギをたっぷり巻いて
                 食べます、もうお腹いっぱいと思ったのに入っちゃいました。
                 ビールに合うんです。

                 

                    こちらは自家製というビーフの生ハムは
                                     日本酒にも合うようです。

               
                    お肉好きの私が一番食べました、ご馳走さま。
                    
                 

 


「お練り大法要」

2013-05-13 21:17:30 | Weblog

                    回向院で出開帳が行われているのに合わせて、
                    東日本大震災 犠牲者追悼・被災地復興祈願の
                    「お練り大法要」が国技館通りで行われました。

 

                   

                      国技館から両国駅を通り回向院までの道です

 

             

              大法要は善光寺木遣り保存会を先頭に、生憎の雨模様の中始まりました

 

          

             白鵬、日馬富士両横綱を先頭に、三役以上の力士らが続きます

 

        

                 沿道からは掛け声が上がりました

 

        

                    さすがに横綱は、ひときわ大きく見えました

 

              

                   後に続くのはお坊さん達

 

        

             見たことあるようなポーズ!  いいえポーズでなく”散華”をしてます

 

         

                 紙製連弁形の花を、仏を供養するため散布してます

 

      

 

      

         お付の人が傘を指しかけているお二人は善光寺さんのご住職のようです

 

               

                     これが散華の花びらです、いただけました。

 

                     ほんの数分間に通過してしまう行列でした。
                     このあと回向院前で法要が行われましたが、
                     とても近づくことは出来ませんでした。
                     

                     地元の子供達による稚児行列は雨のため
                     中止になってしまい残念でした。

 

            
                


「善光寺出開帳」 両国回向院

2013-05-13 07:14:43 | Weblog

                 両国「回向院」で東日本大震災復興支援出開帳が
                 開催されています。    お参りに行きました。

 

                

               開帳とは、普段は拝する事の出来ない寺院の秘仏や霊宝を
               一定期間公開し、特別に拝むことができるように祀る催しです。

               その寺院で行われるのを居開帳、他所に出て行われるのを
               出開帳といいます。

        

          信州善光寺と同じように仏さまと縁を結ぶ回向柱が立てられ、「善の綱」により
          本堂の仏さまの右の手と結ばれています。
          この柱に触れることは仏さまに触れるのと同じご利益があるといわれています。

 

                

                   この日念仏堂では特別大法要が行われました

        善光寺では松代藩が本堂建立の際、普請奉行にあたったこというご縁から、毎回
        松代町から「回向柱」が奉納されてきました。

        今回の回向院における出開帳は、東日本大震災の被災地・岩手県陸前高田市の
        復興住宅の造成用に伐採され、製材された杉の木が用いられているそうです。

               

                

                  回向院の本尊と回向柱、善の綱が描かれている。
                  本尊はかつて本堂を背にして露天に安置されていた。

                    

                         一光三尊阿弥陀如来像
                          

               絶対秘仏のご本尊さまと同じ姿をしたご分身仏です。七年に一度
               行われる「善光寺御開帳」で開帳される前立本尊とも異なり、今回の
               出開帳で特別に開帳される普段は見ることが出来ない珍しい仏さま。

 

            善光寺如来御開帳の図  

       上が開帳図、下は両国の賑わいを表した図です。  
          
       江戸時代、回向院における善光寺出開帳を呼びかけた瓦版です。左上に書いて
       あるのは「わざわざ信州に出向いて参詣・結縁しようという者もいるのに、如来さま
       の方から江戸の人々と結縁するために江戸に出てきてくださる。 そのありがたさを
       感得して、参詣するように」と勧める内容です。

     

                

                      本堂と念仏堂を結ぶ回廊には

                

                極楽浄土に通じる七法輪の林に見立てたスワロフスキーの
                念珠が林立。

            出開帳は江戸の人々の間で大変人気があり、ことに安永7年(1778)には
            60日間に延べ1600万人もの人が参詣したといわれます。

            江戸時代、回向院では合計166回の出開帳が行われ、これは江戸全体の
            4分の1、中でも人気だった信州善光寺と京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来の
            出開帳はほとんど回向院での開帳でした。

 

                

                     木造如意輪観音菩薩坐像

              陸前高田市金剛寺の秘仏で、震災で津波の被害に遭いましたが
              後にがれきの中から奇跡的に発見されました。
              今回この観音様もお出ましでした。

                  

                        木造地蔵菩薩立像(おやこ地蔵)

                  犠牲者の供養のため、被災地である陸前高田の松で
                  造立された地蔵菩薩が都内で初の公開です。
                  父地蔵は善光寺より、子地蔵は陸前高田の普門寺よりの
                  お出ましです。

                 
                    

                         木造鳩字扁額

                   善光寺の山門に約160年間懸けられていた先代の額
                   文字の中に5羽の鳩が見えることから、「鳩字の額」と
                   呼ばれている。

                            

                              木造阿弥陀如来像

                    優美で繊細な阿弥陀如来像、4年前の解体修理によって
                    快慶工房での製作が指摘されている。
                    修復後、寺外で公開されるのは初めて。

            

                       銅造釈迦涅槃像

                   沙羅双樹のもとで入滅した時の釈迦の姿をあらわしている。

                   他にも善光寺出品の文化財が展示されていました。

                   東日本復興を願い、両国回向院での善光寺出開帳は
                   江戸時代ほどではないでしょうが賑わっていました。

                           5月19日まで開催

                  

                  

 

                 


「ミュシャ展」 パリの夢  モラヴィアの祈り

2013-05-09 07:09:05 | 美術館 博物館

                

                     「ミュシャ展」  パリの夢 モラヴィアの祈り

              

                チェコ人ミュシャ

 

                   

                      パレットを持った自画像

                  1860年、今日のチェコ共和国、モラヴィア地方にある
                  小さな村で生まれた。

                  チェコ人というアイデンティティと祖国愛は生涯変わらぬ
                  精神的支柱であり、画業を通して祖国のために働くことが
                  夢でした。
                  その決意はスラヴ統一を象徴するロシア民族衣装を着て
                  自画像や写真に現れることやミュンヘン、パリ、ニューヨーク、
                  シカゴなど行く先々でスラヴ協会を結成し、コミュニティーの
                  リーダー的存在となっていたことからもうかがえる。

              

                サラ・ベルナールとの出会い

 

                      

                          ジスモダン

                   挿絵画家ミュシャがデザイナーとして一躍有名になる
                   きっかけとなったポスター。
                   女優サラ・ベナール主演のポスターがパリの街頭に
                   飾られるや評判になった。
                   

                

                   椿姫               ロレンザッチオ

              ミュシャがベルナールのために製作した2作目のポスター(左)
              初めて男役ロレンザッチオを好演した時のポスター  (右)

                 

                  メディア               トスカ

                 ミュシャは血塗られた刀剣を持つメディアが死体を前に
                 立ち尽くす鮮烈な情景を創造。

                 トスカはのちにプッチーニによってオペラ化され、
                 三代歌劇のひとつとなった。

              ミュシャ様式とアールヌーボー

            印刷技術の飛躍的な発展と、ベル・エポックの消費文化の恩恵を受けて
            ポスターは新たな視覚文化のジャンルとなり、黄金時代を迎えた。

            企業間の商品競争が高まるにつれ、自社製品を消費者にアピールする
            必要から宣伝ポスターの需要が急増し、多くの画家がポスターのデザインを
            依頼された。
            この新たなジャンルに登場したのがミュシャである。

         

           カサン・フィス印刷所   ルフェーヴル=ユティル ビスケット:シャンペン風味

     ミュシャはサラ・ベルナールのポスター以外にもさまざまな商業ポスターを手がけている。

     ルフェーブル=ユティル社はフランス有数のビスケットメーカー、ミュシャは同社の公式
     画家であり、ポスターやカレンダーのほか商品のラベルやパッケージのデザインも
     手がけている。

                 

                        ショコラ・イデアル

 

                

                       ムーズ川のビール

                 片手で泡立ったビールのジョッキを持ち、もう一方の手を
                 顎に添えてひじを付いた女性。
                 ミュシャのよく知られた画風に比べて、よりリアリスチックな
                 調子で描かれている。

                 ムーズ川はフランス北東部を水源とし、ベルギー、オランダを
                 経て北海に注ぐ川。
                 

                  

                        モナコ=モンテカルロ

                   この作品は、パリ、リヨン、マルセイユを結ぶP.L.M.
                   鉄道のための観光ポスター。

                

                   モエ・エ・シャンドン;ドライ・アンペリアル
                                ;ホワイトスター・シャンペン

               ドン・ペリニヨンをはじめ世界的に有名なシャンペンのメーカー。
               同社の2種類のシャンペンのために製作されたのがこの2点の
               ポスター。

           

               ネスレ社の奉祝ポスター (ヴィクトリア女王即位60年記念)

 

            

                  ウェイヴァリー自転車

              アメリカのインディアナポリスにある会社の製品だが、ヨーロッパの
              主要都市で売られていた。

     

      ルフェーブル=ユティル                  ビスケット;ブドワールの箱
              ビスケット;マディラ酒風味の箱

           

                  フランス香水<ロド>のセット

 

                  美の探究

             ミュシャのポスター作家としての名声を不動のものとしたのは、
             装飾パネル画の成功であった。

             装飾パネル画とは、宣伝ポスターから広告の文字要素を取り除き、
             純粋に室内装飾と観賞を目的として製作された。

        

                  夢想

           花と女性の芸術家ミュシャの典型的な作例のひとつ。
                    1898年の迎春用にパリのシャンプノワ社から依頼されてデザインした
           社名入りの作品、その後画面上端の飾り枠にあった社名など文字が取り
           除かれ、一般向けの装飾パネルとして販売するためにアレンジされた。

               

                 パリスの審判 (ヴィエマール印刷会社のカレンダー)

               万年カレンダーとして企画された作品。 画面下方の3つの
               マスクの口内に日付が現れる仕組み、枠内には古代ギリシャ
               神話の物語が表されている。

           

              サロン・デ・サン ミュシャ展         ノートルダム石鹸の習作


                パリ万博と世紀末
         
             1900年パリ万国博覧会は、前世紀の人類の偉業を讃え、新世紀への
             さらなる躍進を願って開催された世紀のイベントであった。

             1896年から本格的な準備の始まったこの大事業は、アールヌーボーの
             広がりと並行して急ピッチで進み、この最先端の芸術精神が展示品から
             会場の建築物に至るまで席巻したパリ万国博覧会は、後に「アール
             ヌーボーの勝利」と評される。

                  

                   パリ万国博覧会の公式晩餐会のメニューの下絵

            パリのアートシーンの注目を集めていたミュシャにも仕事の依頼が殺到した。
            しかしミュシャにとって、このイベントは華やかで豊かなるヨーロッパ文明の
            陰に潜む闇の部分を再認識させられる契機となった。

            スラヴの同胞のための仕事を渇望していたミュシャは当時オーストリア=
            ハンガリー帝国の占領下にあったボスニア=ヘルツェゴビナのパビリオンの
            内装を請け負うことを喜んだが、祖国がオーストリアの植民地政策にあるのに
            自分がパリ画壇でもてはやされ、帝国を代表する芸術家としてプロジェクトを
            請け負う矛盾した現実に悩み、 ミュシャは祖国とスラヴの同胞のために働く
            決意を新たにした。
                

            パリが博覧会の準備で沸いていた1898年、中世の石工ギルドに起源を
            発するともいわれるフランスのフリーメイソン組織フランス大東社に入団した。

            1918年にチェコスロバキア共和国として独立すると、ミュシャはそれまで
            抑圧されていたチェコのフリーメイソン活動を復活させ1923年には初代の
            グランド・マスター(最高大総監)に就任する。

                 

                      <月と星;月> 月の下絵

           ミュシャ様式の中の女性の姿も、世俗的な誘惑者あるいは美の化身から
           形而上的な存在えと昇華されてゆく。

 

        

               ヤロスラヴァの肖像

           1909年アメリカ滞在時代にニューヨークで生まれたミュシャの娘、その後
           15年にプラハで生まれた息子のジリと共に繰り返し描かれ、チェコの紙幣の
           デザインにもモデルを務めている。

           力強い視線のヤロスラヴァの目を引く頭に巻かれた白い布は、チェコの
           民族衣装。
             

              ミュシャの祈り

           
           1904年最初の訪米のあとミュシャは活動拠点をアメリカに移し、資金
           集めに奔走していたが、資金援助を得て「スラブ叙事詩」を実現する
           ために、1910年に長年離れていた祖国へ戻った。

 

                

                   モラヴィア教師合唱団のポスター

            プラハで再出発したミュシャは、新築のプラハ市民会館の装飾に着手、
            1911年その仕事を終え、以後17年の歳月を<スラヴ叙事詩>の
            製作のために費やすことになる。

            これに並行して愛国的なイベントのポスターや民族的なテーマを描いた
            絵画を次々に制作してパリでの決意を実行に移してゆく。
              

                 

                     チェコスロバキア共和国独立10周年記念

                今回ミュシャのチェコ民族衣装コレクションも展示されている。

                        

                           スラヴ叙事詩展

                 「スラヴ叙事詩」は基本寸法6x8mの大作20点にも及ぶ、
                 ミュシャの後半生を代表する大規模な連作である。
                 アメリカの富豪の資金援助により1911年から製作が開始され、
                 最終的には20点すべてがプラハ市に寄贈されたのは、チェコ
                 スロバキア共和国独立10周年の年1928年であった。

                 叙事詩という表現形式に大きなインスピレーションを与えたのは
                 アメリカ滞在中に聞いたボストン交響楽団の演奏によるスメタナ
                 作曲の交響詩「我が祖国」であった。

                 ミュシャは芸術を通してスラヴ民族の文化を世に知らしめ、
                 スラヴの団結を促す仕事に余生を捧げる決意をしたという。

                 

                    母と子;子守唄 (プラハ・ハラホル合唱教会の壁画
                                      歌のための習作)

              
            

                 

                   参考図  プラハ聖ヴィート大聖堂のステンドグラスの窓
                   
                           (最終下絵が紹介されています)

              1933年ヒトラーが台頭すると、「スラヴ叙事詩」の中に「希望の光」を
              モチーフに使って戦争の恐怖をテーマにした作品に取り組んだ。

              さらに1936年、迫り来る戦争と祖国の将来に心を痛めたミュシャは
              人類の叡智への願いを込めて三部作<理性の時代><叡智の時代>
              <愛の時代>に着手した。

              しかし1939年の春ドイツ軍がプラハに侵攻、祖国は再び独立を失う。
              3月15日、ミュシャはゲシュタボに逮捕される。
              5日間尋問された後、帰宅を許されるが、前年から肺炎を患っていた
              ミュシャの健康状態は悪化する。
              79歳の誕生日を迎える10日前、7月14日プラハにて死去。
              ミュシャの三部作も未完に終わった。

              ドイツ軍に集会や演説が禁止されていたにもかかわらず、弔問に
              訪れ大勢の人々の前でチェコ芸術アカデミー会員マックス・シュヴァ
              ビンスキーが追悼演説を行った。

 

              音声ガイドから流れるスメタナの交響詩<我が祖国> が印象に
              残り、図録を見ながらも流れてくるような気がしました。
              「アルフォンス・ミュシャ展」 素晴らしかったです。

                 (森アーツセンターギャラリーで5月19日まで開催)
              
              
              
             


ハワイアン キュイジーヌレストラン 「Roy’s」

2013-05-05 08:29:46 | Weblog

               六本木ヒルズにはいつも麻布育ちのTeiさんに案内してもらいます。
               この日は美術館の帰り道、余韻を楽しみながらのランチになりました。

 

                

                    ヒルズウエストウオーク5Fのお店
                 
                   日本をはじめ、アジアのテイストを盛り込んだ
                   ハワイアン フュージョン キュイジーヌのお店です。

                

                     バーも人気だそうです

 

                  

                   コース料理はスパークリングワインからはじまり

 

            

                     オードブルが盛られた”カヌーボート”

              中央グラスのは令製ビッツスープ、シュリンプマリネ、ドラゴンロール
              フィンガーポークリブ、セピチェと盛りだくさん。

            

              メインは国産地鶏のレモンマリネ、小さなグラタンとフレンチフライポテト

              さっぱり味のローストチキンと少々カロリーを気にしながらのポテトとの
              相性はOです。

            

                  Teiさんはマヒマヒのソテー・ハワイアンレッドカレーソース
                  ココナッツの香りのジャスミンライス。(マヒマヒはシイラという魚)

                  私も迷ったメインだったので、少しお味見させてもらいました。
                  アジアのカレーとはちょっと違うような味でした。

 

                 

                   ビニャカラーズ  ココナツとパイナップルはTeiさん
                   ラヴァフロウ   パッションフルーツとストロベリーは私。

                   グラスの底にマカロンクッキィーがころころ入っていました、
                   そしてコーヒー。 
                     (パフェに生クリームでなく、もう少しアイスクリームの
                                      量が欲しかったような・・)
                リニューアルしたそうで、ゆっくり楽しめる感じの良いお店でした。

                 

                    窓際の席からはタワーが目の前に見えます。
                    毎日眺めて生活していましたから、どうしても
                    私はスカイツリーより親しみを感じます。

 

                    六本木の変わりように、メトロの隣駅神谷町に
                    長く住んでいてよく六本木には出かけたのに、
                    ヒルズの中では相変わらず迷子になりそうで
                    Teiさんに案内してもらっています。

                    この日楽しんだミュシャ展は次回紹介します。
                    


古賀絵里子さんの写真展 「一山」

2013-05-02 15:59:33 | Weblog

                   4月30日、写真展の最終日に伺いました。

                   旅行会社をやっている息子が5月18日に計画した
                   「鉄道とお酒を楽しむ旅」に同行してくださるそうで、
                   BSーTBSでお馴染みの人気番組「女酒場放浪記」に
                   出演されているのは知っていますが、ご本人にお会い
                   できました。

    

                 

                   高野山全体が寺であるという概念から使われている
                   「一山」をタイトルにしたそうです。

                   肝心のいっさんの一が写ってなかったのが残念、
                   正面に写っている写真に気をとられていました。

 

            

                 数年をかけて高野山に通い撮りためた最新作の展示です。

                 聖域高野山の1200年の時に奥へとカメラを向けた女性写真家、
                 女性の感性が感じられる作品が素敵でした。

 

                  

                 若いお坊さん達を撮られた作品の何点かはその自然な姿に
                 高野山に滞在し、通われたからこそと分かります。

 

            

              前回の写真集「浅草善哉」にサインを貰いました。
                                   写真集はまたの機会に紹介しましょう。
   
              古賀絵里子さんはテレビの画面で見るよりずっと美しい素敵な方でした。
              重い機材を持ち、高野山を巡る姿はとても想像できません。

              本展は、作品を写真集にまとめる前段階という位置づけだそうです。
              「一山」の写真集も楽しみです。