@茨城を中心に関東一円、更に全国に勢力(分散)を伸ばした「佐竹一族」は1055(平安時代)年から1871年(明治初期・廃藩置県)まで800年続く大規模で長い家系一族(佐竹宗家:36代)である。因みに1086年に白河上皇の院政が始まり1159年には平治の乱(平清盛vs源頼朝)、1189年には奥州合戦(藤原氏滅亡)、1192年源頼朝の鎌倉幕府、1221年承久の乱(後鳥羽上皇公家と北條幕府)などが続くが、佐竹一族は同族の戦いが100年毎に繰り返され、特に南北朝内乱では後醍醐天皇公家側と足利尊氏の幕府側に兄弟が相見える争い、足利幕府内での観応の乱では尊氏と義栓との間での争いも佐竹一族は互いに戦った。佐竹義宣の時代には上杉家からの後継者(竹に杉は継なげない)でも一族での内乱を起こした。佐竹一族では仏僧系になるもの絵師になるもの現れ、その後北条家、伊達家、豊臣家、徳川家などに仕えた。佐竹一族は上杉、伊達に次いで金山の運上が多く、製塩なども構築、1590年本拠を太田から水戸(豊臣時代:54万石)へと移る。1600年には秋田藩主20万石(12代と続く)となり明治を迎える。また、佐竹一族は日本各地に多くの支流・分家一族で京都・美濃・和泉・土佐に拠点を構えた一大家系である。一族を支えたものは互いに争いしたが、主張を尊重したことなのか。
