浅学菲才の身にかかわらず、先日釈迦直伝の教えについてエントリーを書きました。でも考えてみると浅学であれ、未熟であれ、日々の暮らしの中で色々な意思決定をしていかなければならないのが人生というものです。
意思決定をするという意味では、私のブログを読んでいる多くの人の関心事は資産運用にあるのではないでしょうか?
資産運用については、それを飯のタネと考えている証券会社や銀行などが、「今のままでは老後資金が枯渇します」的な煽り方をするものですから、一部の人は必要以上に不安を覚えているかもしれません。お金というものは不思議なものでないと不安ですが、あればあるで不安のタネになることがあるようです。私自身は不安のタネになるほどお金はありませんので、その心配はいりませんが(笑)、実際に経験した話を紹介します。それは今から20年ほど前私がある銀行の支店長として名古屋にいた頃の話です。その頃は巷で銀行の信用不安がささやかれた時代で、銀行に多額の預金をされている方は銀行の倒産を恐れ、色々な銀行に分散して預金するために窓口をはしごしたり、更には銀行から預金を下ろして、貸金庫に現金を詰めている人もいました。幸い大事は起こらず笑い話で済みましたが。
その時私はお金を持っている人はそのことによって不安つまり悩みあるいは苦しみを抱えるのだなぁ、と思いました。つまりお金を持っていても、それを賢く管理する知恵がないとお金だけでは救いは得られないと思いました。
もしこの問題をお釈迦様に聞くことができるとすれば、お釈迦様は何と教えてくれるでしょうか?
「お金の問題に関する正しい知識を身に着け、先入観を捨てて、現実を直視しなさい。貪欲や慢心を捨て、ほどほどのリターンを求めて中道を歩きなさい」とお釈迦様をおっしゃるでしょう。
お釈迦様はこの世の悩みや苦しみの根源には、人間の無知と貪欲があり、無知や貪欲を取り去ることができるなら、悩みや苦しみから抜け出すことができると教えられたので、その言葉を投資の世界に自分なりに書き換えてみたのです。
この文脈で無知というと、金融知識や経済全般に関する知識と解釈される人が多いと思いますが、本当に大切なことは自分を知り、自分の尺度にあったファイナンス方法を考えるということだと私は思います。個人にとってファイナンスとは、長期的に金融面での収支をバランスさせる技術ですから、貯蓄や資産運用に加えて、長く働いてお金を稼ぐことや倹約あるいは心身の健康を維持して医療費の支払いを抑えることも広い意味ではファイナンスの一種だと私は考えています。
人は家族構成、職業経歴、趣味、健康状態等が総て異なります。ですから平均でモノゴトを考えてもあまり意味はありません。自分のライフプランの中で自分にとって必要なファイナンスとは何か?ということを自分で考え実践していくしかないと思います。
つまりそこがスタート点なのです。次は先入観を捨てて世の中の現象をありのままに見るということです。ありのままに見ようとすると先入観や自分の欲得で曇った判断から離れることができると思います。
そして「世の中にリスクを取らずにリターンを得られることはない」という資産運用の大原則が腹落ちするようになります。
その中から「自分が取って良いリスクはなにか?」「自分が取ってはいけないリスクはなにか?」が選択できるようになれば、資産運用の基本プランは固まります。
しかし世の中にはこれとは反対のアプローチをする人が多いと思います。
反対のアプローチをする人はまず「儲けるチャンスがあるかどうか」から入ります。そして儲けるチャンスがあるという噂を耳にするとそれに飛びつく傾向があります。だがそのチャンスは往々にして後講釈の場合が多く、最初に乗った人は儲かったにしろ、後から乗った人は貧乏くじを引いて終わりということがしばしばあります。
つまり貪欲は不幸を招くことが多いということです。
自分のライフプランを考え、記述することで自分に対する理解を深め、欲をほどほどに抑えることに成功すれば、資産運用で大きな間違いを犯すことはないと思います。しかし欲をスタート点にタクティカルなレベルの金融知識を積み上げても、資産運用で成功するとは限りません。むしろ大怪我をする危険性が高いかもしれませんね。