金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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靖国の夏-靖国神社とは何なのか

2006年06月29日 | 政治

世の中のものの中には、作られた時の意図とその後の運営が異なるものが多い。靖国神社もその一つだろう。靖国神社は明治2年(1869年)に東京招魂社として創建され、10年後の1879年に靖国神社と改称されて別格官幣社となっている。招魂社は明治維新以降国家に殉難した英霊を祀った神社で日本各地にあり、1939年(昭和14年)護国神社と改称されている。例えば京都招魂社は明治元年に明治天皇の御沙汰により建立され、天誅組の主将中山忠光卿他明治維新で殉難した志士を祀っているという具合だ。

靖国神社もこの段階では「国家に殉職した霊を悼む」ということが主な目的であったと考えておかしくない。開国後間もない日本が侵略戦争を考えていたとは思えないからだ。しかし靖国信仰は日本の対外戦争とともに変化していく。それは日露戦争以降特に顕著になる。

高橋哲也氏は「靖国問題」(ちくま書房)の中で「大日本帝国が・・・戦死者を『英霊』として顕彰し続けたのは・・・遺族の不満をなだめ、その不満の矛先が国家へと向かうことがないようにすると同時に、・・・戦死者に最高の栄誉を付与することによって・・・彼等に続く兵士たちを調達するためであった」と述べている。これは靖国神社が「戦死者慰霊の神社」から「顕彰と兵士調達のための神社」になったことを意味している。

ところでこの「靖国問題」の中で高橋哲也氏は古代ギリシアの葬送演説の例を引く。「戦いの野に生命を埋めた強者らには、賛辞こそふさわしい・・・かれらは公の理想のためにおのが生命をささげて・・・衆目にしるき墓地に骨をうずめた。・・・この特典は、かくのごとき試練に耐えた勇士らとその子らに、国がささげる栄冠である」(ペリクレスの葬送演説)

ただ私はこれに続く高橋氏の一文には非常に違和感と疑問を感じる。その一文とはこうだ。「ペリクレス演説のレトリックは、戦死者が身を捧げた『公の理想』が都市国家アテーナイの「自由」と「民主政治」とされたという点を別にすれば、靖国思想のレトリックと本質的にそう違わない」この一文に何故違和感を感じるかというと戦死者が捧げる対象こそもっとも大切なものではないか?と私は考えるからである。

つまり戦士が命を賭けて守るものが「自由」と「民主主義」なのか、あるいは「君国」または「民族」または「共産主義」といった全体主義的イデオロギーなのかということこそ、戦争と国防の根幹をなす問題だと私は考えている。私は「自分を殺したまで守らなければならない程のものが、世の中にどれ程あるのだろうか?」と考えるのである。ふとここで寺山修司の短歌を思い出した。

マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや 

本来「国」とはそこに住む人々を少しでも幸福にする器でなくてはならない。もし「国」あるいは「国を通じて唱えられる主義」といったものが、国民を不幸にするものであれば「国」とは何ほどの意味を持つものなのか?ということを考えてみる必要がある。

靖国信仰の転換点として大きくいって私は日露戦争と1941年(昭和16年)1月に当時の陸軍大臣東条英機の名前で示達された戦陣訓を節目に考えてみたい。日露戦争で靖国神社に祀られた者の戦死者数は88,429柱。大東亜戦争の213万柱を別格とすれば支那事変の19万柱に次ぐ数だ。これは日露戦争の頃から火器の殺傷能力が飛躍的に高まったことと、日本が世界の列強を相手に戦争を始めたことによる。日本は最初重厚な陣地を構築するロシアに対して肉弾攻撃を仕掛けたのだが、旅順攻撃に見る様に肉弾攻撃は奏功せず、最終的には重火器で勝利の道を開いた。ところが日本陸海軍はこの火力の差が戦争を左右するという自明の理を軽視して、日露戦争後いたずらな精神論に走ってしまった。その最たるものが、戦陣訓である。

「生きて虜囚の辱め受けず」というのは戦陣訓の中でも批判の対象になる一節だ。これは国際法に定める交戦ルールと異なる。欧米の戦争の積み重ねの中で確立されてきたルールは「負け」が確定したならば降伏しても恥ずべきことではないというものだ。

本来国難に倒れた死者に哀悼の意を捧げる場であった靖国神社は、やがて顕彰と兵士調達のシンボルとなり、最後は戦略的・戦術的無能・無策の結果を将兵の死につなげる軍部の言い訳の装置になってしまったのである。

私は前のブログで「首相の靖国参拝を可とする」という意見を述べているが、それは当然首相や国政を担う人々が靖国信仰の歴史的変遷を十分理解していることを前提にしている。

靖国神社に参拝するということは、戦争に尊い命を捧げた一般将兵の霊を悼むということであり、靖国の歴史を総てを肯定するものではないということを参拝者は明示する必要があるだろう。

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