佐藤直曉の「リーダーの人間行動学」 blog

リーダー育成のための人間行動と人間心理の解説、組織行動に関するトピック

リーダーの暗示学615――鰯(いわし)の頭も信心から

2006-10-10 07:56:01 | リーダーの暗示スキル
イワシの頭のようなつまらないものでも、信心する人には尊く思われる。物事をかたくなに信じる人を揶揄(やゆ)するときなどにもいう。しかし、これって結構潜在意識の観点からすると大事なんです。今日は長い文章になってしまった。二日分あるから、明日はお休み。ゆっくり読んでね。

 
 「イワシの頭を刺す」
 つまらない信仰の代表として鰯(いわし)が使われたのだそうですが、これは節分に鰯の頭を柊(ひいらぎ)の小枝に刺して、戸口に挿す風習からきているそうです。

 どんなふうに鰯をさすのか知らない人のために、図を示しておきましょう。


引用: TITLE:鰯の頭と柊
DATE:2006/10/09 11:48
URL:http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/rakugaki/iwashi-to-hiragi.htm

 そもそもなぜ鰯の頭なのか。それについては、こちらの私のブログ「佐藤直曉のつれづれなるままに」を参照してください。
 http://blog.satonaoaki.main.jp/(すみません。まだ書いていません。今日は忙しいので、夕方書きます)
(追記:今準備できました)


 
 
 「潜在意識の理論」
 どんなことでも思い込んでしまったら、それは力をもちます。拙著『リーダーの暗示学』では以下の例を取り上げています。
 
  昔々、おおぜいの病人を治す不思議な能力をもつお婆さんがいた。このお婆さんは「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」という言葉を呪文として唱えていた。
  
 あるとき、これを聞いた坊さんが、「それは金剛経の中の〝応無所住而生其心〟(おうむしょじゅうにしょうごうしん)という句を誤って用いているのだ」と教えた。
 
 お婆さんはなるほどと思ったのだろう。舌を噛みそうな難しい文を一生懸命覚え「応無所住而生其心」と唱えるようにした。
 
 ところが、それ以来、さっぱり病気を治せなくなったのである。世の中には、〝知らぬが仏〟ということがあるのだ。
 
 このお婆さんのように、観念を消滅させたければ、本人を理性的な状態にすればよいのである。そうすると、観念は思い入れとともに消滅してしまう。


「ふと思い込むと確信が生まれる」
 暗示を解くのはともかく、まずは暗示にかける。それには、なんといっても、ふと思い込まなければならない。そうなると、確信が生まれるのです。
 
 思い込みさえすれば、別段理論的である必要もありません。真実でなくてもいい。なまじ理屈でない方がかえっていい。本人が心の底で納得してしまえばいいのです。

 鰯の頭なんてほんとにくだらない。しかし、もっとくだらないのはイデオロギーです。最悪の「観念、思い込み」です。どれだけ真実から遠ざかることか。

 このブログで以前何度も取り上げた韓国政権なんかそう。彼らには北朝鮮は鰯の頭だったんですね。はたから見ればバカみたいだけれど、韓国政権は、北朝鮮は絶対核などもたず脅威にならない、と言い続けてきました。北がミサイルを打ち上げるときも、直前まであれは平和利用の人工衛星打ち上げだと言って、世界の失笑をかっていました。
 
 人のことは言えません。私も鰯にとりつかれている。私は、自分は晴れ男だと思い込んでいます。思い込んでいるどころか、ここいちばんで晴れて欲しいとき、遠足とかなにかに行事があるときですが、こういうときは雨が降っていても、雨雲が数時間だけよけてくれると思いこんでいます。
 
 その確信はどこで得られたかというと、ちょっとした遊びの結果なのです。雲に向かって指を向け、そこに気を放射する。そうすると、雲が消えてしまうんだと、ある人が言っていました。
 
 それで、それを真に受けて、子供のとき自分もやってみた。そしたら、本当に雲がとけちゃうように消えるのです。(ホントは、風で吹っ飛んだだけかもしれませんが)。
 
 しかし、自分はもう雲をコントロールできると思い込んじゃった。それ以来、雨雲を数時間くらいなら退避させられると思っているわけです。
 
 もっとも、やみくもにこれを使うと、効かないときがあるでしょう。そうなったら、その途端、観念は壊れてしまい、晴れ男でなくなる。そこで、ここいちばんのときにしか、これは使いません。ここいちばんのとき使うと、どういうわけかよく効くのです。
 
 まあ、雨なんか止めるのは非科学的ですから、まともな人はできませんね。「できるはずがない」と思っている限りできない。さっきのおばあさんのように、あまり考えない人の方が暗示は効くし、それを人に使うこともできます。
 
 もちろん、たまたま偶然の結果かもしれません。私もあまり真面目に考えているわけではない。半分はお遊びですよ。雨になったら仕方ないなと思いながらも、なんかやれそうな気がしてやっている、というのが本当のところです。
 
 しかし、人間の心というのは不思議なところがあって、理屈がよくつかないものの方が、心には力をもつんですね。漠としたものの方が、明らかなものより心が魅かれるようにできています。
 
 ですから、占いがはやるわけ。あんなのは、理屈で考えたら信じられませんよね。でも、不安なときには、なんか頼ってしまったりするでしょう。コンサルタントも占い師のようにやったほうが、儲かるかもしれないな。
 
 理屈がわからんほうが怖いものです。今は雷が鳴れば、あれは電気現象だなんて言って、いちおう納得していますが、昔の人はさぞや怖かったでしょうね。そういえば、菅原道真は雷神様でもありますね。
 
 
「天神様のたたり」 
 宇多天皇は藤原家に強力な人材がいないため、天皇親政を行って、その片腕として博識の藤原道真を用いた。

 宇多天皇は寛平9年(897)、醍醐天皇に譲位する。院政を行い、さらに権力を確固たるものにしようとしたのだが、これが完全に裏目に出る。

 醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜し、昌泰4年(901)正月25日、道真を九州の太宰府へ左遷する。

 知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけるが、門の所で待機していた蔵人頭・藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたという。

 道真が都を去る時自宅の梅の木を眺め読んだ歌は有名。
  東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ

道真は年に悲憤のうちに延喜(えんぎ)3年(903)に死ぬ。

道真の死んだ延喜3年(903)以降、京都では雷雨が相次ぐ。道真の死んだこの年の12月も北野で雷公を慰撫した事が伝えられている。

道真の死後わずか二ヵ月後の四月、左遷の宣命を焼却処分したうえで、火雷天神と号したと『扶桑略記』に記録がある。いささか早すぎる対応であり、真偽の程はわかりかねるが、実際に道真の怨霊と天変地異は結び付けられ噂されはじめていたのかもしれない。

延喜4年(904)春、疫病が流行し諸社奉幣が行われた。

延喜8年(908)、渤海使が訪れ、四月十四日に饗宴を催す予定だったが、雷電風雨射るがごとき有様だったため翌日に延期となる。この時、道真の信頼厚かった紀長谷雄が召され「事」を問われたという。(『扶桑略記』)

この「事」という遠まわしな表現から推測すると、雷雨に対する恐怖から何らかの対策を時平に諮問されたのではないかと考えられている。今では非常識な話だが、怨霊(であった人物)の心情を図るのには、当事者に近しい者に確認するのが最も効果的な手段だと当時は考えられていた。

この年の夏、うって変わって旱魃となり多くの餓死者を出した。道真を助けようと駆けつけた宇多法皇を遮った藤原菅根はこの時死亡する。藤原菅根は雷火に打たれて死亡しているという。彼はもともと道真に推挙されて役職についた者であった。

 道真が死んで6年後の延喜9年(909)、39歳の働き盛りで時平が死去。これは怨霊の復讐最初のものとされているが、当時の記録には未だ道真公の怨霊のことはない。延喜9年から10年にかけても疫病が流行している。

立て続けに道真左遷に関わる人々が死に、道真の祟りの噂はかなり具体性を帯びてくる。もっとも、延喜13年(913)三月、源光が死亡した時は以前から祟られているとの噂があったが、享年68歳であり、当時の寿命としては普通だったと思われる。にも関わらず、世間はそれを道真の祟りと結びつけた。

『扶桑略記』によれば、道真の死亡直後から祟りの話が出ていた源光は天台宗の修法を施してもらうことによって寿命を延ばす事ができた、と伝えている。ただ彼の最期は、狩猟に出かけた際、底無し沼の泥中に、馬ごと突っ込んでの奇怪な死に様であった。死体も見つからなかった。

延喜14年(914)、赤痢疱瘡が流行し天皇も疱瘡にかかる。建礼門前では陰陽道の鬼気祭が修された。

同18年(918)、三善清行が七十三歳で死亡し、道真左遷の立役者がまた一人消える。ただ、彼が祟られたという記録は無い。清行は道真と敵対関係があったと当時は思われていなかったためだと考えられる。
 
 さて、公の怨霊についての記述が文献に初めて現れるのは、『日本紀略』延喜23年(923)三月二十一日条である。道真の死後20年たってのことである。

 延喜23(923)年、京は咳病が流行し、3月に時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が21歳で急逝。皇太子保明親王が21歳の若さで死去したのは「世を挙げて云う、菅帥霊魂宿忿の為す所なり」と記録されている。その年、朝廷は道真を右大臣に復職させ、正二位に昇格させた。
 
 醍醐天皇の道真公の怨霊に対する畏怖の念は、道真公の宿忿を慰撫するための具体的な行動となって現れる程になった。

醍醐天皇の従兄弟にあたる源公忠は延喜23年(923)頓死し、二、三日後に蘇生した。冥府で道真の様子を見たと伝える。その中で30人ばかりの朱や紫の衣を着た者がおり、そのうちの一人が「醍醐帝の処置は承服できない。改元した方が良い」と伝えたという。同年、「延長」と改元した(『北野縁起』『江談抄』)。

2年後の延長3年(925)6月、天皇はマラリアにかかり、参内加持を行った際、鬼が殿上を去っていくのを目撃したという。しばらくして、保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで夭折した。

延長4年(926)10月、道真の霊が夜中に旧宅に現れ、子息兼茂に対し「近く朝廷で大事があろう」と告げたという。

延長6年(928)、疫病がぶり返し、死者が路に溢れるほどで、同7年(929)4月、鬼の足跡が宮中より玄亀門外・中宮庁などに見つかり、大牛の足跡のようだったという。北陣の衛士は大熊13頭が陣に入るのを目撃した。常寧殿では巨大な鬼を見たとの記録が残っている。

とにかく、奇怪な話が立て続けに語られ、京の治安の悪さもうかがい知れる。

 醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりするが、怪異は収まる気配がない。そしてとうとう延長8年(930)6月26日大事件が勃発する。『日本紀略』はこう語る。

「諸卿、殿上に侍し、各請雨のことを議す。午三刻、愛宕山上より黒雲起つ。急に陰沢あり。俄に雷声大鳴し、清涼殿の坤の第一柱の上に堕つ。霹靂神火あり。
殿上に侍るの者、
大納言藤原清貫、衣焼け胸裂け夭亡す。年64。
また右中弁平希世、顔焼けて臥す。
また紫宸殿に登る者、美努忠包、髪焼け死亡す。
紀蔭連、腹燔けて悶乱す。
安曇宗仁、膝焼けて臥す。
(中略)哭泣の声、禁止するも休まず。これより天皇不予。」

太宰府で道真の調書をとり復命した大納言藤原清貫は落雷で胸が裂かれ、右中弁平希世は顔を焼かれて死に、近衛二名が感電死した。同時に紫宸殿でも落雷し、多くの人が焼け死んだ。

醍醐天皇は恐怖のあまり体調を崩し、天台僧尊意が祈祷を続けたが、そのかい無く、3ヶ月後、46歳の若さで崩御する。後をつぐ朱雀天皇もわずか30歳でこの世を去る。

あまりに大きな災害となり宮中以外でもこの事は広く知れ渡った。人は道真公は雷神になられたのであろうと口々に言った 。

災いは更に続く。承平6年(936)、時平の長男藤原保忠が病に倒れる。僧侶が祈祷のため薬師如来の読経を始め、眷族の神将の名「宮毘羅(くびら)大将」を読み上げたとき、「私を縊り殺す(くびりころす)というのか?!」と叫び、そのまま絶命する。かなり精神的に追い込まれていたようである。

このように道真の死後数十年たっているにも関わらず、彼の怨霊は常に京都の異変につきまとって噂された。

正暦4年(993年)一条天皇の頃、朝廷は道真に正一位、左大臣を与えた。同年、太政大臣を与えた。道真の死後100年に及ぶ怨霊騒動は、ここにようやく終結を見る。
 

参考文献:
TITLE:ゆうこさんのビックリホームページ
URL:http://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/ddk/sm5.htm

TITLE:菅原道真
URL:http://www.ffortune.net/symbol/rei/mitizane.htm



「推理小説の王道:得をした者が犯人だ」
 なぜ、道真が死去して二十年を経過した頃から、怨霊の噂が広まったのでしょうか。
 
 延喜九年に時平の死んだ後、延喜十四年、弟忠平が右大臣になっていました。忠平は道真公と親しかったし、二人の後ろ盾の宇多法皇は仁和寺において健在でした。

 一方醍醐天皇の下に結束していた反道真派は、時平の死により、自ずと解体することになりました。道真左遷の決断が拙速に過ぎたのではとの反省が、醍醐天皇の周囲に醸成されたのも不思議ではありません。
 
 道真の怨霊が時平の係累に祟り、天皇も責任を免れないとの説は、こうした雰囲気の中に現れました。道真公の復官と贈位、左遷の詔の廃棄は、それの公認を意味しています。

 延長3年(925)は春から天然痘が流行し、皇太孫の慶頼王が僅か五歳で亡くなりました。保明親王の御息所ミヤスンドコロは時平の娘の仁善子で,慶頼王はその所生の皇子でしたから、道真公の怨霊は時平の子孫や縁故者、更には醍醐天皇にも祟るだろうとの噂は一段と真実味を持ち始めたようでした。

 この怨霊の噂によって時平の一派が追われ、代わって実権を握ったのは時平の弟の忠平でした。つまり、伝説は忠平によってわざと広められた可能性があるかもしれません。こうして、藤原家の本流は忠平の子孫に受け継がれていきます。

 それにしても、道真の怨霊は当事者にとっては本当に怖かったでしょうね。しかし、現代人だってたいして変わらんかもしれませんよ。ピラミッドを開けた人が次々怪死したなんて、恐れていますものね。漠たるものに対する恐れというのはいつの世でもあるものです。
 
 今日は長すぎた。二日分です。明日は休みますから、二日ががりでゆっくり読んでね。


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4 コメント

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読みごたえありました (5年目社長)
2006-10-11 00:13:30
いやぁ~本日のブログは読みごたえがありました、

でも楽しく読ませて頂きました。

私は宇多天皇と道真公の話が出ると、

小泉さんと竹中さんを思い出してしまいます。

竹中さんは左遷される前に辞めてしまいましたが。

あのまま自民党に居たら、左遷されていたでしょうね。
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5年目社長さま (佐藤直曉)
2006-10-11 09:29:29
長々とおつきあい頂き有難うございます。

連休で時間があったため、つい興味の赴くままに長くなってしまいました。



>あのまま自民党に居たら、左遷されていたでしょうね。



小泉宇多天皇さんが思うように院政をしけずに、竹中道真は大宰府に流されるということですね。

きっとそうなっていたでしょうね。

辞めたのは、竹中氏個人にとっては正解でしょう。

国民から選ばれた国会議員の立場はどうなるんだ、という声も正論ですが。
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思ったこと以外には起こらない (11493/いい仕組みブログ よしの大吉)
2006-10-12 10:11:34
佐藤さんこんにちは! 大吉です。熱は下がりまして、元気になりました。



>ふと思い込むと確信が生まれる

本当にそうですよね。

今ある自分の姿は、前に思っていたり、考えていたりした結果だと思います。



だから「こうしたい!」とか「こんなふうになりたい!」と、不可能なことでも思い込んでいると、本当にそうなる可能性がある。



だから、祈ることって最近大事だなあと思いました。





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大吉様 (佐藤直曉)
2006-10-12 12:53:47
コメントありがとうございます。



体調が戻られてよかったですね。



>今ある自分の姿は、前に思っていたり、考えていたりした結果



耳が痛い!
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