日本テレビの24時間テレビの中のドラマ、「小さな運転士 最後の夢」を観ました。
24時間テレビを観る、というと、まあいろんな解釈だの意味だの出てくるのですが、それはまあおいといて、わたしはこのドラマを「観た」ということ。
先天性の心疾患を持つ男の子の短い人生というのが、このドラマの大筋でした。
息子がね、「全部観てから寝る」というので、珍しく11時半近くまで起きていました。
拡張型心筋症。
これがこのドラマの男の子の疾患名です。
「心臓移植」という手段はあるのになぜそうした話が出てこないのだろうと、ドラマを見ながらずっと思っていました。
心臓移植、海外での医療を利用ということが必要、という大変なことになるのですが。
「腎臓の状態が悪く、移植の適応外である」
ドラマの中でそう父親が語り、なんというか、わたしはがっくりと肩を落とす。
心室中核欠損症。動脈管開存症。
これが娘が持って生まれた心疾患でした。
どちらも先天性の心疾患の中で、妙な言い方をすればポピュラーなもので、根治手術が可能な疾患です。
娘の場合は、状態が悪く、最初は「2歳を過ぎたら手術」という説明だったものが、「2歳前に」「1歳になったら」「1歳まで待てない」「生後半年頃にやらなくてはならないかもしれない」「早急に」と変わっていき、すでにたてられている外科病棟の手術スケジュールに「緊急に割り込む」形で生後三ヶ月に手術が行われました。
術前の状態は、重症の肺炎に罹患、常時人工呼吸器を使用、悪化する状態を改善させるための輸血等、手術前に必要な検査中に心停止があるかもしれないというものでした。
術後も経過は悪く、ICUを一ヶ月出ることができませんでした。
大人のサイズのベッドに、小さな小さな3キロに満たない体がオムツだけの状態で横たわり、人工呼吸器に呼吸を手伝われながら、両手両足に管がつながれ、心臓の状態を見るモニターが規則的に音を立てる。
大人のサイズのベッドが必要だったのは、体につなぐ各種の管の位置固定のためだったのです。
それを窓から見守るだけの面会が、1ヶ月近くあったわけです。
窓の中を見るために「立つ」常連や、外科病棟に面会に通う人とは、自然話すようになります。
小児病院でしたから、その全てが「親」です。
わたしはここで、いろいろな人から声をかけられ、会話を重ねながら、それまで知らなかった現実というものを知っていきます。
「手術できるの? いいわね」
「手術は何回必要なの? 一回なの? いいわね」
病院の生活しか知らない子ども、学会で発表される最新の治療にチャレンジしていくという形で命を維持している子ども、根治手術の可能性が無く状態に対処していく治療しか受けられない子ども。
そんな現在進行形の「生きる」と、わたしは出会っていくような気がしました。
この時の入院、そしてその後の検査入院で出会った子どもたちの中で、「現在も生きているはず」という実感を持てない子どもはたくさん存在する。
ファロー四徴症、極型。
これが息子が幼稚園生活の3年弱を共に過ごした友達の疾患名です。
息子の幼稚園の入園式に出席したときに、一目で気づいてしまいました。
(ああ、あの子は心臓が悪い)
幼稚園生活を元気に送れる日々もたくさんありましたが、入院治療や数回の手術を重ね、根治手術が治療スケジュールに入っていました。
根治手術のときに渡そうとわたしはコツコツと小さな鶴を折っていましたが、その鶴は千羽になることを待たずに状態は悪化し、千羽に満たない鶴は葬儀の祭壇を飾りました。
葬儀の棺、飾られる祭壇を見て当時6歳だった息子が言いました。
「○○くん、白雪姫みたいだね」
「そうね、白雪姫みたいだね。
でもね、
白雪姫は王子様がキスをすると目がさめるよね。
○○くんは、もう誰がキスをしても起き上がることはないんだよ」
これが、息子が「死」を言葉というもので知った「説明」でした。
王子様は来ない、王子様はいない。
息子は棺が乗った霊柩車を追いかけようとして、葬儀場の職員に止められました。
ドラマを見ながら、息子が心疾患について聞く。
状態の対処の治療や、状態の説明をしてやる。
「手術」という治療法の存在を知っている息子が「手術はできないのか」と聞く。
「できないのだ」と答える。
いつまで生きられるのか、死というものが近い将来に「ある」ということがわかっている「命」がある。
そのことを、娘が心疾患の治療を受けるまで、わたしは全く知らなかったというに等しいと思う。
友人の死を知っているこの子は、このドラマを見ながらどんな風にそのことを理解するのだろうかとふと思う。
何らかの先天性の心疾患を持って生まれる子の割合は、100人から150人に1人程度と言われています。
経過観察だけで健康を手に入れていく子どももいる。
根治手術を受ける子どももいる。
命を永らえる治療に支えられながら、その限界まで生きていく子どももいる。
全ての子どもにしあわせを、と思う。
ドラマの感想としては、「読み聞かせのボランティア」という人物に重要な役割を与えていたことに好評価。
入院治療が長い子どもに必要な存在だと思うけれど、そうした活動をする人支える人は、「病棟で生きる子どもたち」の数に比べてあまりにも少ない。
不満としては、主人公が進学した「高校」の説明がもう少し欲しかったこと。
入学式に出席する映像で「養護学校」という文字が映る。
「病弱養護学校」というものの存在を、もう少し語って欲しかったかな、とちょっと思う。
*参考リンク*
都立病弱養護学校の高等部をつくる会
同サイトコンテンツ:もっと病弱養護を知ってもらいたい運動
24時間テレビを観る、というと、まあいろんな解釈だの意味だの出てくるのですが、それはまあおいといて、わたしはこのドラマを「観た」ということ。
先天性の心疾患を持つ男の子の短い人生というのが、このドラマの大筋でした。
息子がね、「全部観てから寝る」というので、珍しく11時半近くまで起きていました。
拡張型心筋症。
これがこのドラマの男の子の疾患名です。
「心臓移植」という手段はあるのになぜそうした話が出てこないのだろうと、ドラマを見ながらずっと思っていました。
心臓移植、海外での医療を利用ということが必要、という大変なことになるのですが。
「腎臓の状態が悪く、移植の適応外である」
ドラマの中でそう父親が語り、なんというか、わたしはがっくりと肩を落とす。
心室中核欠損症。動脈管開存症。
これが娘が持って生まれた心疾患でした。
どちらも先天性の心疾患の中で、妙な言い方をすればポピュラーなもので、根治手術が可能な疾患です。
娘の場合は、状態が悪く、最初は「2歳を過ぎたら手術」という説明だったものが、「2歳前に」「1歳になったら」「1歳まで待てない」「生後半年頃にやらなくてはならないかもしれない」「早急に」と変わっていき、すでにたてられている外科病棟の手術スケジュールに「緊急に割り込む」形で生後三ヶ月に手術が行われました。
術前の状態は、重症の肺炎に罹患、常時人工呼吸器を使用、悪化する状態を改善させるための輸血等、手術前に必要な検査中に心停止があるかもしれないというものでした。
術後も経過は悪く、ICUを一ヶ月出ることができませんでした。
大人のサイズのベッドに、小さな小さな3キロに満たない体がオムツだけの状態で横たわり、人工呼吸器に呼吸を手伝われながら、両手両足に管がつながれ、心臓の状態を見るモニターが規則的に音を立てる。
大人のサイズのベッドが必要だったのは、体につなぐ各種の管の位置固定のためだったのです。
それを窓から見守るだけの面会が、1ヶ月近くあったわけです。
窓の中を見るために「立つ」常連や、外科病棟に面会に通う人とは、自然話すようになります。
小児病院でしたから、その全てが「親」です。
わたしはここで、いろいろな人から声をかけられ、会話を重ねながら、それまで知らなかった現実というものを知っていきます。
「手術できるの? いいわね」
「手術は何回必要なの? 一回なの? いいわね」
病院の生活しか知らない子ども、学会で発表される最新の治療にチャレンジしていくという形で命を維持している子ども、根治手術の可能性が無く状態に対処していく治療しか受けられない子ども。
そんな現在進行形の「生きる」と、わたしは出会っていくような気がしました。
この時の入院、そしてその後の検査入院で出会った子どもたちの中で、「現在も生きているはず」という実感を持てない子どもはたくさん存在する。
ファロー四徴症、極型。
これが息子が幼稚園生活の3年弱を共に過ごした友達の疾患名です。
息子の幼稚園の入園式に出席したときに、一目で気づいてしまいました。
(ああ、あの子は心臓が悪い)
幼稚園生活を元気に送れる日々もたくさんありましたが、入院治療や数回の手術を重ね、根治手術が治療スケジュールに入っていました。
根治手術のときに渡そうとわたしはコツコツと小さな鶴を折っていましたが、その鶴は千羽になることを待たずに状態は悪化し、千羽に満たない鶴は葬儀の祭壇を飾りました。
葬儀の棺、飾られる祭壇を見て当時6歳だった息子が言いました。
「○○くん、白雪姫みたいだね」
「そうね、白雪姫みたいだね。
でもね、
白雪姫は王子様がキスをすると目がさめるよね。
○○くんは、もう誰がキスをしても起き上がることはないんだよ」
これが、息子が「死」を言葉というもので知った「説明」でした。
王子様は来ない、王子様はいない。
息子は棺が乗った霊柩車を追いかけようとして、葬儀場の職員に止められました。
ドラマを見ながら、息子が心疾患について聞く。
状態の対処の治療や、状態の説明をしてやる。
「手術」という治療法の存在を知っている息子が「手術はできないのか」と聞く。
「できないのだ」と答える。
いつまで生きられるのか、死というものが近い将来に「ある」ということがわかっている「命」がある。
そのことを、娘が心疾患の治療を受けるまで、わたしは全く知らなかったというに等しいと思う。
友人の死を知っているこの子は、このドラマを見ながらどんな風にそのことを理解するのだろうかとふと思う。
何らかの先天性の心疾患を持って生まれる子の割合は、100人から150人に1人程度と言われています。
経過観察だけで健康を手に入れていく子どももいる。
根治手術を受ける子どももいる。
命を永らえる治療に支えられながら、その限界まで生きていく子どももいる。
全ての子どもにしあわせを、と思う。
ドラマの感想としては、「読み聞かせのボランティア」という人物に重要な役割を与えていたことに好評価。
入院治療が長い子どもに必要な存在だと思うけれど、そうした活動をする人支える人は、「病棟で生きる子どもたち」の数に比べてあまりにも少ない。
不満としては、主人公が進学した「高校」の説明がもう少し欲しかったこと。
入学式に出席する映像で「養護学校」という文字が映る。
「病弱養護学校」というものの存在を、もう少し語って欲しかったかな、とちょっと思う。
*参考リンク*
都立病弱養護学校の高等部をつくる会
同サイトコンテンツ:もっと病弱養護を知ってもらいたい運動
ここの一文は繰り返し繰り返し読んでしまいます。
病院で出会った人に
「これだけ医学が発達しているのに、どうして助からない命があるんだろう。
それがどうしてうちの子なんだろう。」
と言われて何も答えられず、思わず抱きしめたことがあるんですね。
答えられるワケがない。
人のために奔走することを厭わなくなったのは、この経験も大きかったと思います。
念願の江ノ電の運転士になれた彼の気持ちってどうだったんだろうって考えてしまった。
運転席に入った彼の満面の笑み。心からうれしかったろうと思う。よかったねって思った。でも夢がかなったことでより『近い死』を意識したのでは…。そう考えるとつらくなって。
ドラマみてないので勝手な思い込みなんですが。
知り合いのお子さんも心臓病で亡くなってます。小学校入学目前で、棺の横に置いてあったランドセルが痛ましかった。元気なら今は5年生でした。
ここにトラバされてる方の記事も拝見しました。
小さな子どもの生と死。いろんな病気で闘ってる子がいて、子を支える親の葛藤。病気に向き合ってる人でしか伝えられない現実ある。
>いつまで生きられるのか、死というものが近い将来に「ある」ということがわかっている「命」がある。
うちの子の病気は『死』を意識するものではないけれど、訪れるかもしれない『障害』に対してはできるだけ先延ばししたい気持ちでいっぱいです。
関係ないことなんですが、今子ども二人が比較されている事を知り葛藤中。
素直でスポーツができる兄と自分を表現する事が苦手で運動が苦手な弟。どちらにも関わっているコーチ(教師じゃない)から昨夜酒の席で言われて…。
年子で同じ中学に通うことで予想できてたことではあるんだけど、兄の方は褒めちぎり、弟は見たまんまの印象で決め付ける。場の雰囲気を損なわない程度の反論はしたけど時間が経つにつれてモヤモヤ…。
子どもは兄弟でもそれぞれ違うしって同席の母たちが言ってくれて助かったんだけどね。
この悔しさをブログにぶつけていけば良いが…あ、草稿中ならクローズで残せるかも?
姐御肌のSさんに思いを吐いてしまいました。残りは自分のところにぶちまけ気持ちを整理します。失礼しました。
私がいた看護学校は病院付属だったのですが、その病院には養護学校が併設されてました。
小学生から高校生まで、腎臓病・心臓病・喘息・整形疾患…長期に治療が必要な子どもがたくさん入院してました。病気に対しては安心でしょうが、親と一緒にいられない寂しさは見て取れました。
通路でつながってる学校にさえ行けない状態の子には教師が病室まで来て勉強をみたり。アットホームな病棟と学校でした。
巨人時代の王選手が遠征時は必ず訪問してくれてました。誰かが来てくれることで大喜びのみんなでした。
コレね、叔父もそうだったんですよ。
癌でね。
告知きちんと受けていたので、本人も知ってた。
いい医師と、告知を認められると判断された叔父と。
そんな感じだった。
遅い結婚で、子どもができたのも遅くて、わたしとイトコの年齢差は「15年と20年」だった。
いわゆる一部上場一流企業の役員だったんだけど、叔母は「仕事やめて田舎帰って、わたしたち家族でゆっくり暮らしましょう」って言ったら、叔父激怒で。
なんというか、最後の入院まで、「普通に」日常生活を苦しみながらも突っ走ってたなあと。
わたしは結婚していて子どもがいない時期だったので、最後の入院ではなく、何度目かの入院時に、母と叔母と交替で付き添ってたんだけどね。
叔母は子どもが小さかったから。
叔父、ものすごく不機嫌だったり、態度強烈だったりすることがあって、死や病状に対しての恐怖感や緊張感を持ってるのが傍目でもよくわかった。
でも、入院してないときは、とにかく「日常を暮らす」ということに情熱燃やしていたなあと。
だから、「大人」では、知ってた。
叔父の姿から、いろいろなことを教えられもした。
もともと、すごく好きな叔父だったんだけどね。
子どもができない時期に、わたしを養女にって話があったって、後で聞いた。
でもさ、「子ども」では、知らなかったんだよね。
「大人」は、自己形成で自分が積み重ねてきたことを材料に、自分の「死生観」を、苦しみながらも見つけようとしていくことができる。
でも、人生のスタートが、「死生観を持つこと」という課題を持つことに向かう始まりでもあるってのは、なんというか、こう、「愕然とするもの」があったなあと思う。
知的障害の無いタイプ、
心臓疾患やら、内部障害やら、筋ジスやらねえ。
本人が向かっていかなきゃいけないものがあるから、親もがんばらにゃならんだろうと思うと、せつないなあと思う。
胆道閉鎖症で、父親から生体肝移植を受けたって男の子と知り合ったことがあって。
16で手術受けて、出会ったときは22~23だったかな。
手術を受けて変わったことは「老後」という言葉を考えていいんだと思うようになったこと、だそうだ。
新鮮な感動だったそうだよ。
でも、「心不全の大きな発作」というのは、充分「死ぬんじゃないか」という恐怖感を味わうものだと思うんですよね。
だから、「夢がかなったことで」ってのは、わたし個人は違うかな、と思う。
実現後は、実現後の瞬間から、夢の実現の日に経験した自分の行動の全てのイメージの反芻を、ずっとやっていたんではないかと、そう想像するんですよね。
それは楽しかっただろうなと思う。
ひとつひとつ希望が断たれていきながら深刻になっていく病状の中での生活とは、かなりの様変わりだったと思うんですよね。
行動を制限される生活は、人との関わりが制限される生活でもある。
大多数の人が、「自分が存在すること」とは、無関係に動いている。
そういうこと、ずっと続くと、自分という存在の虚しささえ感じていくだろうなと思う。
その中で、自分のために多くの人が動いてくれたという大きな経験。
その「自分自身の存在感」も、大きな興奮だったと思うな、わたしは。
誰からも忘れられた存在なんかじゃない。
あの人たちは自分のことを覚えていてくれるだろう、って、そんな幸福感ってのもあったんじゃないかなって、わたしは思う。
>うちの子の病気は『死』を意識するものではないけれど、
ご次男、でしたよね。
ご次男が、自分の状態を、自分の生育歴としての「哲学」のようなものにきっと組み込んでいくんでしょう。
いい状態でいけるとしても、万一悪化が現実になっていくとしても、この、本人の「自己形成」にプラスに向かうものになるようなものになること、わたしは信じていたいと思うし、「母」に信じていてやって欲しいと勝手に思う。
あと、他者による「兄弟比較」。
いや~なんというか、
兄弟と同時に関わるってときに、指導者として配慮することってのは必要なことで。
個人の価値観で「思う」ってのは勝手だけど、それをぺらぺらと母親に意気揚々と話すような相手に対して、まともに怒りを持っても難しいなと思う。
しかも酒の席でしょ。
怒りを持つには、なんというか、相手としてもったいないよ。
兄弟は個性が違うもので。
違う個性で同じ場で何かをしようとしたときに、有利になる人間と不利になる人間とに分かれることは往々にして、ある。
対する相手が変わっても、同じようなニュアンスで接する人は出てこないとは言えないし、子どもが大人になっていくときに「関わる人間全て」を「親が調節できる」わけじゃない。
弟の方が今回不遇の方になるならば、そんな酒の席でぺらぺらとしゃべる相手に怒りを持つよりも、本人に対して「自尊」を与えられるネタを生活の中でせっせと与えることの方が大事なんじゃないかと思う。
どんなにその指導者に怒りを持とうがなんだろうが、接していくのは本人なわけだし、それを超えていかなきゃいけないのも本人だと思う。
「母」のできることは、本人が自分に誇りを失わずに進んでいけるための「きびだんご」をせっせと作って持たせることだと、わたしは思うよ。
看護実習も多く、院内学級もあった。
地域では俗に「心臓・腎臓病院」なんて言い方もあって、心臓病の子や、腎移植を受ける子は多かったです。
白血病の子も多かった。
娘の退院後すぐに、逸見政孝がリポーターで取材に来てました。
このときに「追っかけ取材」の対象だったのが、母親からの腎移植を受ける子どもと、その家族。
それと、心室中核欠損症の子で、術前、術中、術後とカメラが入った。
同じ執刀医で、この取材で「手術室でどんな手順でどんな処置が行われたのか」、カメラによって観ることができたのでありがたかったです。
それから何度か取材が入って。
その度に、院内学級に向かう子どもたちの様子が映されていたのが印象的でした。
何度目かの取材で、レポーターがキムタクって時があって。
看護婦が騒ぐとうるさいからということで、看護婦にはレポーターが誰か極秘で、ってことだったそうです。
若い方、多かったからね。
病棟の子どもたちはすごかったらしいですよ、ナマでキムタク見て。
このときは、白血病の子が取材の対象だった。
この子、それから2年くらいの後に亡くなって。
白血病の子たちが病棟の子や、外来で、この子の死にものすごく動揺していたと、そこにかかっている白血病の子の親から伝え聞きました。
もちろんね、子どもにはがんばって隠すそうですが、「キムタクの取材を受けたあの子が」って伝達は早かったようで。
難しいな、と、思ったなあ。
「夢がかなったことで」ってのは、ってヤツ。
娘が検査入院のときに、出会った子の「言葉」ってのが、わたしにかなり影響を与えてます。
心疾患だと思う。
モニターつけて、常に点滴していて、幼児の大きさだった。
周囲の全ての人に、ものすごい憎まれ口をたたく子だった。
この子とね、面会者がわたししかいない状態で、「話した」ことがあるんですよ。
「友達だとか言って、なんだかお手紙とかいうものを集団で送ってくるのが2年生だ」って言ってた。
つまり、自分の学年が「2年生」だとは言わないんですよね。
自分の年齢になんの意味があるんだ、とも言ってた。
いつになっても何も変わらない、よくもならない、大きくもならない。
自分がいくつだかなんてことを聞かれるのも言うのも意味が無い、なんてことを言ってました。
わたしはこの子の「命令」で、童謡をたくさん歌わされました。
娘の退院のときは、同室の誰が退院したときにもやっていたように、体を固くし、全身で「別れの挨拶を拒絶」していました。
あの子に今回の江ノ電級のことがしてやれるんだったら、わたし、何でもやったなあと思うなあ。
落ちついたらまたコメントします。
ネガティブな状態だとあらゆる考えもネガティブ。
でも、息子のことはSさんの言葉で助かりました。
おおらかに息子を信じていかなきゃね。
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/07866be006661cf3842adcbfb9ddc39b
でもゆっくり栄養を取り込むと要らない葉はおとせるんですけどね。
せっかくの江ノ電の少年の実話もマイナス志向であんなこと書いちゃって。今考えれば楽しい思い出に浸って幸せだったんだろうなって考えられる。
息子の事も今度なんか言って来ようモンならしっかり言い返すつもりでいるし。
>「母」のできることは、本人が自分に誇りを失わずに進んでいけるための「きびだんご」をせっせと作って持たせることだと、わたしは思うよ。
甘いものかまずいものかどんなきびだんごが作れるか。でもその時の気持ちを込めて作っていかなきゃね。
ほんとうにありがたい言葉です。
>周囲の全ての人に、ものすごい憎まれ口をたたく子だった。
うちの子も入院でクラスメートから手紙を幾度かもらった。喜んでたけど、それはずっと遊んできた仲間からもらえて、退院したらまたその中に帰れるからなんだろう。
でもその子は違ったのかな。
いつクラスの輪に戻れるかわからない状態じゃ素直に喜べなかったかな。
今1年生の親としてその子を自分の子に重ねると『意味が無い』なんて言葉が口から出るのは辛いです。
年齢の事だけじゃないんでしょうね。
家に帰れない寂しさとか治らないいらだちとか。
親にもどうもしてやる事ができないから彼を見る親御さんはさぞつらかろうと思う。
夢を持たせてあげたい、かなえてあげたいって考えたでしょうね。
Sさんも思ったように。