書こうかどうしようかな~、と迷ってたけど、とりあえず自分のために忘れないうちに感想を書き留めておこうかな、と思う。
「僕の歩く道」最終回、始まってすぐに(ああ…)と思った。なんというか、もう流れが読めちゃった、って感じで。
主人公が動物園の中で鳥を見る、飛ばない鳥飛べる鳥、なんぞのことをちらっと言う。高く飛べる鳥として鳶のことが出てくる。要するにコレ、障害者自身の自己決定を語るための伏線だな、と。で、ロードレース中に見かけた鳶の姿を自分の目で確認に行くためにコースをはずれる主人公。鳶を見つける、飛ぶ鳶を眺める。そしてコースに戻ってゴールし、ゴール後に「グループホームに行く」と自分の口で告げる主人公。高く飛ぶ鳶がキーってことで。
コースをはずれた主人公に対して「待ちましょう」という決断をした母親は、「グループホームに行く」という主人公に、「はい」と一言で応える。自己決定の重要性をわかっていながら…、って気持ちの母親とその決意というものをよく表した「はい」だと思った。これを一発で表現って感じの「はい」には、さすが長山藍子と思った。
グループホームに関しては、最近数がどんどん増えていると思う。少なくともわたしの身近には増えている。入居したい人の数に見合うかどうかはわからないけれど。長野オリンピックのときに、パラリンピックに知的障害者が出場した。そのインタビューなんぞで「グループホームに住んでいる」という20代の若者ってのもいた、あの時点でね。ただ一般的にはまだまだ認知度は低いのではないかと思う。抵抗をもつ親も多いとも思う。わたし自身は、障害の程度に関しての支援度というものが関係してくることは前提の上で、障害があっても「親から離れたいと思う」という心の成長をもつことが「大人になる」ということであり、自分自身のこととしては、「親から離れたい」気持ちを元にする自己決定の芽をもつことが、いわゆる娘を育てる目標になっているところはあるなあとも思う。そのときが来たら淋しくてたまらないとは思うだろうけれど。
で、最終回ですが。まあ、つまり、落ち着くとこに落ち着かせるために、って線が早くに見えてしまった感じがした。ってことで、どこかお話のまとめです的流れがどうしても見えてしまった。11回全ての中で、わたしは一番コレというのは、やはり第10回の特にきょうだい児の心理が中心になるシーンだと思う。それはそこに至るまでにこつこつと積み重ねたきょうだい児の心理のシーンがなくてはもちろん語れない。
主人公の兄の妻。夫の弟が障害者であるという事実からどこか目を避けるような他人事を決め込みたいような、まあ、ドラマ前半中盤部では悪役的存在。な~るほど、と思うこと。つまりそういう彼女だからこそ、この兄は好きになったのかも、とドラマを観ながらふと思った。
兄だから否定できる立場に無い、兄だから手を貸さなきゃいけない、兄だから我慢しなきゃいけない。そういう、どこか見えない「べき」に縛られたような気持ちをたくさん経験した背景を感じさせた第10回放映分の兄と母親との会話。
その兄は、「配偶者の弟だからって言ったって、そんなに簡単に認められるもんじゃないわ」って気持ちを堂々と持つっていう、そういう女性だからこそ惹かれたんじゃないかと思うこと。自分の中に巣くう「べき」に対しての反乱のようなものも無意識下にちらっとあった、いやあるという設定で構成されたのではないかと思うこと。
障害者を主人公にもってくるドラマ。その主人公の状態や持っているハンディと社会との軋轢なんてものは、現実に存在するものからみれば、やっぱりどうしても希釈したものになるし、そうしなければ表現自体が難しくなるものもあると思う。
ただ、きょうだい児の心理に関しては、どういう設定であったとしてもリアルに描こうとすれば描けるものだ。また、障害の受容に困難を抱えた親の気持ちってのものもそうだと思う。今回の主人公の職場に存在させた「もう一人の自閉症児の父親」の存在は大きかった。この、障害児をとりまく周囲の人間の要素とドラマというものが、今回のドラマではよく出ていたとも思う。
「僕の歩く道」最終回、始まってすぐに(ああ…)と思った。なんというか、もう流れが読めちゃった、って感じで。
主人公が動物園の中で鳥を見る、飛ばない鳥飛べる鳥、なんぞのことをちらっと言う。高く飛べる鳥として鳶のことが出てくる。要するにコレ、障害者自身の自己決定を語るための伏線だな、と。で、ロードレース中に見かけた鳶の姿を自分の目で確認に行くためにコースをはずれる主人公。鳶を見つける、飛ぶ鳶を眺める。そしてコースに戻ってゴールし、ゴール後に「グループホームに行く」と自分の口で告げる主人公。高く飛ぶ鳶がキーってことで。
コースをはずれた主人公に対して「待ちましょう」という決断をした母親は、「グループホームに行く」という主人公に、「はい」と一言で応える。自己決定の重要性をわかっていながら…、って気持ちの母親とその決意というものをよく表した「はい」だと思った。これを一発で表現って感じの「はい」には、さすが長山藍子と思った。
グループホームに関しては、最近数がどんどん増えていると思う。少なくともわたしの身近には増えている。入居したい人の数に見合うかどうかはわからないけれど。長野オリンピックのときに、パラリンピックに知的障害者が出場した。そのインタビューなんぞで「グループホームに住んでいる」という20代の若者ってのもいた、あの時点でね。ただ一般的にはまだまだ認知度は低いのではないかと思う。抵抗をもつ親も多いとも思う。わたし自身は、障害の程度に関しての支援度というものが関係してくることは前提の上で、障害があっても「親から離れたいと思う」という心の成長をもつことが「大人になる」ということであり、自分自身のこととしては、「親から離れたい」気持ちを元にする自己決定の芽をもつことが、いわゆる娘を育てる目標になっているところはあるなあとも思う。そのときが来たら淋しくてたまらないとは思うだろうけれど。
で、最終回ですが。まあ、つまり、落ち着くとこに落ち着かせるために、って線が早くに見えてしまった感じがした。ってことで、どこかお話のまとめです的流れがどうしても見えてしまった。11回全ての中で、わたしは一番コレというのは、やはり第10回の特にきょうだい児の心理が中心になるシーンだと思う。それはそこに至るまでにこつこつと積み重ねたきょうだい児の心理のシーンがなくてはもちろん語れない。
主人公の兄の妻。夫の弟が障害者であるという事実からどこか目を避けるような他人事を決め込みたいような、まあ、ドラマ前半中盤部では悪役的存在。な~るほど、と思うこと。つまりそういう彼女だからこそ、この兄は好きになったのかも、とドラマを観ながらふと思った。
兄だから否定できる立場に無い、兄だから手を貸さなきゃいけない、兄だから我慢しなきゃいけない。そういう、どこか見えない「べき」に縛られたような気持ちをたくさん経験した背景を感じさせた第10回放映分の兄と母親との会話。
その兄は、「配偶者の弟だからって言ったって、そんなに簡単に認められるもんじゃないわ」って気持ちを堂々と持つっていう、そういう女性だからこそ惹かれたんじゃないかと思うこと。自分の中に巣くう「べき」に対しての反乱のようなものも無意識下にちらっとあった、いやあるという設定で構成されたのではないかと思うこと。
障害者を主人公にもってくるドラマ。その主人公の状態や持っているハンディと社会との軋轢なんてものは、現実に存在するものからみれば、やっぱりどうしても希釈したものになるし、そうしなければ表現自体が難しくなるものもあると思う。
ただ、きょうだい児の心理に関しては、どういう設定であったとしてもリアルに描こうとすれば描けるものだ。また、障害の受容に困難を抱えた親の気持ちってのものもそうだと思う。今回の主人公の職場に存在させた「もう一人の自閉症児の父親」の存在は大きかった。この、障害児をとりまく周囲の人間の要素とドラマというものが、今回のドラマではよく出ていたとも思う。
プライドというものは、能力うんぬんに関わるものではなく、「持つ」もの。
その辺を感じ取る、ってことも、大事なことなんだなあと教えられるようなこと、多いよな、とも思います。
「家族なのにつめたい」
こういう、表面的なことで出てくるフレーズというもの。
そこを払拭させるような、そんな小さな影響ってのも、このドラマはぽんと投げてくれたのかもしれませんね。
最後の「ボクにも予定がある」なんてのも、またそのひとつの、あのドラマが投げた贈り物かもしれません。
一緒に歩くことを嫌がります。でも何か私があると
助けてくれます。
プライドは高いですね。そういえば。
自分で出来ることは自分で。
手を出そうとすると怒られます。
>「家族なのにつめたい」
は、働いている時に私が言われた言葉です。
女性の上司に。
そういう考え方の人もいる
と思って先ほど書きいました。
私はすぐに人の意見に左右されるので
このときは世間にそういう目で見られるのか
と言う不安がありましたが
今はありません。
自分が姉だ、という自覚は大きいようです。
交差点の横断等、「姉が弟をかばう」仕草というのも、よく見せます。
福祉的支援の場で、他者に支援を受ける方が素直です。
本人自身のプライドというものも、わたしは大事に考えなければならないことだと思っています。
>「家族なのにつめたい」
そうかあ、そう思うのかあ、とか思った。
うちは息子に聞かれたこと、ありますよ。「おとうさんとおかあさんが死んだら、ちぃちゃんはどうするんだ?」って。
けっこう早めに聞かれたなあ。
「ちぃちゃんが大人になるってことで、おとうさんとおかあさんは、自分たちがいなくなったときにちぃちゃんが生きていく場所ってのゆっくり考えるから。
アンタがどうするってことでは、ちぃちゃんがこういうときどうしましょうか、って、ちぃちゃんが住んでるところの人がなんか聞きたいときってのが出てきたときに答えてくれたり、アンタが大人になったときに住んでる場所にちぃちゃんがときどきは行けるようにしておいてくれたらまあうれしいかな、と思ってるってとこかな」と。
うん、わかった~、とか言ってましたね。付け加えるならば、ちょっとほっとした顔で言ってた。
この回答は「きょうだいの会」の方や、自分の人間関係のきょうだいの立場から教えられたもの、ってのの影響は大きいです。
それと、宿泊練習ってので、今まで思ってなかったようなプラスの一面が見られた、という、親の驚き、ってをよく聞くのも、関係してるかな。
で、その線にどんどん、自分にとってはひどく当たり前に思考が進んでいってるので、「家族なのに冷たい」ってのは、聞いても言葉として自分には響かない。
あんまりよく知らないんだな、って思う、かな。
それと、障害をもつ本人ってのが、ずっときょうだい児に「面倒をみられる」ってのは不本意、という場合もありますから。
育てる過程の時点で、「支援に慣れる」育ち方をするかどうか、ってことも大きくキーになると、わたしは思っています。
>ねぎヲさま
小日向さんの演技は絶妙でしたね、ホント。
セリフでは多くを語らず、ってとこ、多分にあったと思うし。
「都古ちゃん」ってのは、幼なじみというポジションや、ストレートな理解をもつ立場、ってこともあったと思うけれど。
でも、ドラマをドラマとして成立させるためのエンターティメント性の役割、ってのも高かったとは思いますね。
そこに複雑な感想をもった関係諸氏ってのも、いらっしゃるのではないか、とはわたしは思います。
ただ、エンターティメント性をもたせるからこそ、テーマが生きるってとこはあると思うし、実際都古って存在がいたからこそ、描ける部分も多かったとは思うので、わたしは肯定的感覚かな、と思います。
動物園というシチュエーション、園長さんの立場や幼なじみの都古ちゃんのポジションもねらいがある程度あたったのではないかと思います。
「親がもし死んでしまったら」と考える時期が
ありますよね?その時に
「親が死ぬのはさみしい」という
気持ちもあるのですがそれとは別に
「お母さん達になにかあったら
長女の私が兄と一緒に住むんだ!」
と考えていました。
「妹には自分の生活を大事にしてほしいから」と。
自分が結婚しても兄と住むのは当たり前と。
中学や高校の時から
母に
「お兄ちゃんはそういう施設に入れる」
と聞き、悲しくなりましたが
「私がいるのになぜ?」と。
今はそれもありだと思います。
どちらにしても兄の環境が変わるのであれば
中途半端なことをして、
兄がストレスが溜めるのであれば
グループホームに向けて
準備をしてほしいと思っています。
・・・でもそういう選択肢も
あるけどやはりみていてつらい、ので
最終回の最初の場面で涙が出てしまいました。
こういうことを言うと
「家族なのにつめたい」という方もいますが
これが私の今の気持ちです。
これ、実は、この上のレスで入れようと思って、それでやめた話なんですよね。
きょうだいの立場の方をドキドキさせる話だよなあ、と。
で、ケースをご存じなら、この話を改めて。
家を出る、という経験、練習経験すら無く、その状態で30代以降を過ぎてしまって、そして親急逝のケースというのは、難しい話が多いです。
精神状態の不安定、ということで、支援の中でなんとか努力を続けられる場合はまだいいのですが、極端なケースでは、風邪のようなちょっとした体調の不安定から、なぜ?という感じで亡くなる場合もあります。
これは読む、そして講演で聞く、という経験に加えて、実際の人間関係上でも一件、わたしは体験しました。
また、親は存命でも、準備期間の無い入所で一件。
この場合、きょうだいにもたらされる衝撃はきついです。
親が「親亡き後」を考えていかなければならないのは、きょうだい児のためでもあります。
きょうだいが面倒をみる、ということがあるかどうかという以上に、親亡き後の障害をもつきょうだいのメンタル面の問題の存在自体が、きょうだい児にとって少なからぬ影響を及ぼすものだと思うからです。
障害をもつ子どもを「大人にする」ことは、きょうだい児のためにという意味も、大きく意味をもつものだと、わたしは思っています。
入れさせていただきました。
グループホーム、入れるタイミングというのは
本当に難しいと思います。
兄が行っている作業所の方で
お母様が急に亡くなられて
ショートスティなどの練習もなく
グループホームに入り
毎日泣きながら過ごしているようです。
うちの兄ももうすぐしたら
練習期間に入る予定なんだそうです。
でも、今回のドラマはやっぱり第10話が
私としては一番よかったです。
1話から見れなかったのが残念です。
っつ~か、わたしはweb上に出したものは、どういう扱いをしようと、それは公開する場に出したものだ、っていう見解です。
で、家を出る、家を出す、という選択。
これは、宿泊研修のようなものや、ショートスティで、本人が生き生きしていて、親がそれに動かされる、って話は「家を出した」人からはよく聞く話です。
学校卒業、就労、その後の生活、ってことを考えていく上で、前に進んでいく線がとぎれないタイミング、なんてことも必要なんじゃないか、とはわたしは思う方かな、とも思います。
これは、個々のケースで様々な事情が介入してくるので、一概にこうとは言えないところが、まあ難しいとは思うのですけれどね。
で、その就労後のその後の生活、ってのを考えていくときに、これを本人側からの主張、ってとこにもっていきたくて、それでまあ、それがわかりやすいように、鳶を出したんではないか、とは思います、今回の「物語」はね。
コメントでわかりました。
いきなり、グループホームが
ひっかっかっていたんだなぁ。と
もう最初から
涙があふれてしまい
判断ができなかったです・・・。
>ショートスティ等
こういうものは必要ですよね。
いきなり入るとなるのはちょっと。
家族としてもいきなり入るのは
ちょっと不安です。
でもドラマとしては
「グループホームは悪い事じゃない」
と言う事を言いたかったからあれでもいいのかな?と
「あんな所に入れるのかわいそう」
という方もいますし。
(老人ホームなども)
その割に口しか出さないんですがね。そういう方は
あの・・・
やっと自分のブログの
ブックマークの意味がわかりまして
もしよろしければブックマークの中に
S嬢さんのこのブログを入れたいと思っているのですが
受け付けていませんか?
私はこちらのブログでいろいろ、
心の中に隠していた気付かなかった
自分の気持ちを
出させていただき、とてもためになったので
どうしても入れたいのですが。
もしよろしかったらお返事ください。
鳶の意味が見えにくいのか、という意味で、わたしは参考になりました。
この最終回に関しては、はてなダイアリーでも書いています。
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20061222/p1
就労を描き、次に出てくる課題は、親亡き後を想定した支援のある自立生活に対しての早めの移行。
ここに到達する最終回ということになったと思います。
この線が見えるからこそ、どうやってそこにもっていくか、ということにやはり注目する。
だからこそ、(ああそうくるか)という感を冒頭でもった、というところはあると思います。
通常は、いきなり鳥がどうのってことではなく、ショートスティ等で宿泊体験をこなし、本人がその経験の中で見せる意志等から、本人に自立の思考が育っていくものだとは思います。
この辺が「見せる物語」との違いだと思います。
大変読み応えのある内容で参考になりました
これからもいろいろと教えていただきたいと思います