1995年11月15日第一版発行
わたしの所持する「障害者」という本の後ろには、そう書いてあります。
この本は、発売後すぐに買った覚えがあります。
上の日付を見ながら、娘が4歳のころだったのだなあ、などと思ったりしました。
脳性麻痺による身体障害者である著者が、「障害者のことを全く知らない人が読んでもわかるような本」を目的に書かれた本です。
ものすごく読みやすく、日本の障害者がどんな立場におかれてきたか、どんなことを思って生きてきたか、どんなことを考えようとしているかが、一冊でほぼ網羅されているような本です。
ふれられている障害種別も、多種多様です。
この本の表紙のイラストの中心には、著者を模して書かれた人物がいます。
車椅子に乗った男性が、大きく両手を広げています。
後方には鳥の絵があり、その脇に、手書きの文字で「白鳥でもアヒルでもない オラァ 翔ぶ鳥だ」と書かれています。
内容に、こんな記述があります。
アンデルセンの数ある童話の中でとりわけ名作のひとつである「みにくアヒルの子」は、福川弓彦氏の少年時代には、「障害者のあるべき姿の目標」とされていたぐらいだったが、現在の障害者たちのあいだでは必ずしも評判はよくない。
姿形が異なるためにアヒルの仲間では疎外され、兄弟からも疎まれていた主人公の水鳥が、最後には白鳥の子どもだったことがわかり、白い大きな翼を広げて飛び立っていく。
なぜ白鳥にならなければならないのか。
醜いなら醜いままで幸せになれないのか。
そもそも「醜い」というのは、自分たちが「醜くない」と思っている側の偏見に過ぎないのではないか。
この物語に対する障害者やその周辺の人たちの反発のおもな理由はだいたいそんなところにある。
わたしはこの本に、大きく影響を受けたなあと思います。
特に、この「みにくアヒルの子論」は、機会があるごとにふり返って考えることは多かったなあと思います。
「障害者」と呼ばれる人たちは、どこか「頑張り」や、「マイナス部分の巻き返し」ばかり要求されているのではないかと、そんなことも思ったりもしました。
結局のところ、わたしの感覚はこの記事の記述のように落ち着いていきました。
あなたが飛びたければ、飛べばいい。
わたしに与えられた仕事は、飛べるようになるために無理に腕を引っぱることではない。
飛びたければ、飛べばいい。
飛びたくなければ、それでいい。
娘の人生は娘のものと、そこに主眼を堂々と持ちながら、
普通の子どもを育てるのと同じように、誰のためでもなく自分自身のために「飛びたい気持ち」を育てるような育て方をすることなんではないかと。
そのためには、そのままの本人を受け入れていくことが一番必要なのではないかと。
この本を読んだ時に、娘は4歳だった。
そして今は13歳。
人に賞賛されるような大仰なことができるわけでもないし、人を感動させるような健気な頑張りがあるわけではないけれど。
でも、充分に、「自分の人生を謳歌する」子に育っています。
とても、満足。
とても、しあわせ。
わたしの所持する「障害者」という本の後ろには、そう書いてあります。
この本は、発売後すぐに買った覚えがあります。
上の日付を見ながら、娘が4歳のころだったのだなあ、などと思ったりしました。
脳性麻痺による身体障害者である著者が、「障害者のことを全く知らない人が読んでもわかるような本」を目的に書かれた本です。
ものすごく読みやすく、日本の障害者がどんな立場におかれてきたか、どんなことを思って生きてきたか、どんなことを考えようとしているかが、一冊でほぼ網羅されているような本です。
ふれられている障害種別も、多種多様です。
この本の表紙のイラストの中心には、著者を模して書かれた人物がいます。
車椅子に乗った男性が、大きく両手を広げています。
後方には鳥の絵があり、その脇に、手書きの文字で「白鳥でもアヒルでもない オラァ 翔ぶ鳥だ」と書かれています。
内容に、こんな記述があります。
アンデルセンの数ある童話の中でとりわけ名作のひとつである「みにくアヒルの子」は、福川弓彦氏の少年時代には、「障害者のあるべき姿の目標」とされていたぐらいだったが、現在の障害者たちのあいだでは必ずしも評判はよくない。
姿形が異なるためにアヒルの仲間では疎外され、兄弟からも疎まれていた主人公の水鳥が、最後には白鳥の子どもだったことがわかり、白い大きな翼を広げて飛び立っていく。
なぜ白鳥にならなければならないのか。
醜いなら醜いままで幸せになれないのか。
そもそも「醜い」というのは、自分たちが「醜くない」と思っている側の偏見に過ぎないのではないか。
この物語に対する障害者やその周辺の人たちの反発のおもな理由はだいたいそんなところにある。
わたしはこの本に、大きく影響を受けたなあと思います。
特に、この「みにくアヒルの子論」は、機会があるごとにふり返って考えることは多かったなあと思います。
「障害者」と呼ばれる人たちは、どこか「頑張り」や、「マイナス部分の巻き返し」ばかり要求されているのではないかと、そんなことも思ったりもしました。
結局のところ、わたしの感覚はこの記事の記述のように落ち着いていきました。
あなたが飛びたければ、飛べばいい。
わたしに与えられた仕事は、飛べるようになるために無理に腕を引っぱることではない。
飛びたければ、飛べばいい。
飛びたくなければ、それでいい。
娘の人生は娘のものと、そこに主眼を堂々と持ちながら、
普通の子どもを育てるのと同じように、誰のためでもなく自分自身のために「飛びたい気持ち」を育てるような育て方をすることなんではないかと。
そのためには、そのままの本人を受け入れていくことが一番必要なのではないかと。
この本を読んだ時に、娘は4歳だった。
そして今は13歳。
人に賞賛されるような大仰なことができるわけでもないし、人を感動させるような健気な頑張りがあるわけではないけれど。
でも、充分に、「自分の人生を謳歌する」子に育っています。
とても、満足。
とても、しあわせ。
うち80過ぎの祖父がいまして。
ボケもせず元気なのですが、
この先どんな事が起こるか不安があります。
老人と障害、似て非なるものかもしれないですが
S嬢さんにきっかけを頂た気がしたので
勉強してみようと。
色弱ってつまんないんですよ(笑
例えば映画。
闇の中で、黒の濃淡での表現とか。
ぜ~んぶ黒で動きすらわからん・・・
シルバーだと思って買った小物のプレゼント
実はパールピンクで相手の嫌いな色だった。
とか、たいした事じゃ無いんですけどね。
あと免許。
高校の頃身分証明書が欲しくて、
原付免許取ったんですが、
そこで色盲?判定があって、ばっちり見えませんでした(笑
なので前の人が言ったのと同じ事言って
パスしました(良いのか・・・
信号機単体での信号判別は問題ないんですが
オレンジ?の街灯のそばの信号機の黄色。
判別不能でしたわ(汗
ってこれは、たいした事ですね・・・
気をつけよう・・・
行動に肉体的ハンディが年々、増えていきますから。
あと、妊婦ってのも「一時的障害者」になると思う。
乳幼児期に「ベビーカーを使う」という経験で、車椅子使用者の立場の人の道路利用の不便さを垣間見たという話をする人も多いです。
「読んでみます」言われて、ちょっと慌てた自分。
いや、「ものすごく読みやすい」と言ってしまったが、それって自分の基準か?とか思って、思わず本再度ぱらぱらとめくってみたり。
高い本じゃなくてよかったと、ちょっとホッとしたり。
えっと、追加説明でいけば、内容、ちょっと古くなってる部分も一部あります。
でも、もっと「気軽に」おもしろい本として、先にこっちの方がおすすめかも。
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/50937323f196e5080310844e2072a134
文庫版、千円でおつりくるしね。
さて、「色弱」。
「黒の濃淡」は、疑似体験アリです。
あのね、モニター。
最近変えたんですけど、以前のモニターで「バトルロワイヤル」観たとき、そんな感じのシーンがいくつかあった。
ちなみに、このテンプレートの上部ですが。
http://blog.goo.ne.jp/template_snapshot/12157666e3e399323e7137632523ca7a.gif
上のタイトル部分、「真っ黒」だった。
実際は、濃い緑系数種を使った「コットン」模様なんだけど。
これが「真っ黒」に見えるモニターだと、この「模様」に関しては、「人が話してる会話の内容がわからない」。
そういうことかな、と、ちょっと推測。
あと、「信号」ですが。
色弱じゃなくても西日がまともに当たった信号は、判別不能。
特に「黄色」。
家のすぐ近くでこの時間帯に運転しながらこの「信号」を見るケース、わたし、高いんですよね。
緊張する。
T字路のTの横棒の部分を走行している場合なんだけど、Tの縦棒部分からどんどん右折車左折車が来る交差点で、おまけに歩行者の信号が縦横計3つ。
さらにおまけに、この交差点、ある小学校の「通学路」で、この西日がまともに差す時間に小学生の歩行者の横断がある。
緊張するよ~~。
「黄色」は、状況判断も難しいんですよね。
周囲の状況を読みながらの運転です。
だから、色弱でなくても、そんなケースはあると思う。
こんなの、免許の試験じゃ出てこないしね。
「危ないケースは慎重に」ってのが、現実的なトコだろうな、と思う。
「ハンディを超える運転」ってとこで。
わたしは車椅子使用者用改造車で、真っ黒のオープンカーに出会ったことがあります。
すっごいかっこよかった。
ハンドルに足で操作する部分がついてるんだけど、これが「イタリア製」。
近くに住む友人を訪ねてきていて、家を聞かれて答えたという「全くの初対面」だったんだけど、思わずおねだりしてこのハンドル部分の写真、携帯で撮らせていただいてしまいましたよ。
この、近くに住む友人ってのは、「車椅子使用者用三輪バイクでアメリカカナダ横断」っていう、また「有名人」なんですけどね。
あとね、さっきそっち行って、最新記事にコメント入れようと思ったのだけど。
なんか、ものすごく長くなりそうで「荒らす」みたいなので、自分とこに。
以下、そっちで入れようとしたもの。
『就職の面接というのは、「本気のお見合い」のようなものですから、影響を受ける方と出会えるというのは貴重な経験だと思う。
職が続かないというとこで、まあ、つまんなくなっちゃうって程度に「器用」な方ではあるんだろうなと勝手に推測。
「引っかかってるもの」に向かい合わないできたのは、「引っかかってるもの」がつまんなくなっちゃたら、ってとこが「来ない」ための防衛の一つかも、と、ちょっと思いました。
まあ、最後にどうしようかって思った時に、福祉職を、と、勝手に思います。
「モノのやり取り」で終わらない奧の深さや、あとは「人に素直に耳を傾ける素直さ」が向いてると思うかな。
知的障害者のグループホームの管理人なんて、ものすごく向いてると、わたしは勝手に思いますけどね。
時に「謎解きゲーム」のような、知的障害者の行動の心理の推測も興味を持って向かい合いそうだし、成人した知的障害者の性的関心にも理解ありそうだし、料理もできそうだしね。
統合失調症の方の作業所職員も向いてそうだし、肢体不自由者の「自立生活支援者」なんてのも向いてそうだしね。
はは、どれも安月給だけどね。』
全ての車につけて欲しいって思えるようなのもあったり。
器用なのか飽きっぽいだけなのか・・・
謎です(汗
短気で気まぐれ、典型的?なB型だったりします。
自分の精神状態コントロールできれば、福祉職できるかな・・・
ちと不安です(汗
コメントはガンガンして頂いてOKですよ~
荒らしって言ったら、私のがS嬢さんのBlogを荒らしてる気が(汗
ぎゃお~~~~~~、
はいすみません。
新記事の「事件」で、ぶっ飛びハイテンションになっております。
脳味噌整えて記事上げしたものの、
へっ、
びっくりどっきりで、やられちまってるのは事実ですわ。
夕刻から、このぶっ飛びハイテンションのエジキになっております、10歳息子。
ほほ、脳味噌整えて、後ほどレス入れます。
いいわね~~「自分んち」って。
思う存分、「荒らせ」られて。
挫折により退職ってのが感じられない。
「飽きっぽい」というか、「つまんなくなる」ってのは、厳しいことを言えば、「その先の興味の発掘」に関しての力が乏しいのだと思う。
この力の乏しさというのは、単に乏しいのではなく、どこか「臆病」な部分も感じるのは気のせいでしょうか。
やらずにいれば、失望しなくていい。
この手の「臆病さ」も、器用な人が持つ傾向が高いと思うのが個人的感覚です。
不器用な人の方が「一生懸命やる快感」というのを知っていると思うのですよね。
ま、この辺も、人生のきっかけとの「ご縁」が、多分これから訪れることだと思う。
今は「蓄積期」と解釈して、自分なりの「充実」を。
ブログ読む限り、充分「蓄積期」として機能してるとも思いますわ、わたし。
と、「言葉」に失礼あったら、ごめんなさい。
さて、「本」。
興味があるなら、是非読んで欲しい「僕のお姉さん」。
強烈よ、ホントにおもしろい、この本。
「歯形」という短編は、足が不自由な子どもを毎日待ち伏せして、足かけて転ばせて遊ぶ子どもの話。
転ばされた子どもが、逆襲として噛む。
この噛み方が尋常じゃなくて、この子は「加害者」として扱われ、噛んだ理由は噛まれた子の「ウソ」によって、闇に葬られる。
噛まれた子といっしょにこの「遊び」をしていた主人公は、結局本当のことを話せない。
でも、自分の心の中には「消えない歯形」が残ったというお話。
ありがちな起承転結には持っていかない、持っていって「安心させて」くれない、そんな児童書。
そんな短編を連ねた上で、最後の一編がきちっとしめてる感じがする。
ホント、この本、「名作」。