おなか ほっぺ おしり伊藤比呂美
集英社
先日古本屋のワゴンで、100円で売られているこの本を見つけた。
ああ、懐かしいと、思わず購入。
この本から始まった「おなかほっぺおしりシリーズ」の一連の「伊藤比呂美の育児エッセイ」は、わたしの二人の子どもが幼児の時代に、わたしにとって重要なアイテムだった。
わたしの子育ての教科書であり、友達だった。
乳児と幼児とでぐちゃぐちゃな生活を(いいのか?おい)というほど赤裸々に語り、おおらかに愚痴り、吐き出し、考察していて、その考察の感性はなんともすばらしく、いろんな思考を与えてくれた。
繰り返し繰り返し読んだ伊藤比呂美の育児エッセイの数々は、転居の時に全て地域の児童館の図書コーナーに寄付してきた。
所持していたのは全て文庫版ではなく単行本だったので、家の本棚の場所を取るよりも、その方がふさわしいと思ったから。
今もどこかの迷える母親を笑わせながら助けているのだろうか。
伊藤比呂美の「育児本」との出会いのスタートは、やはりコレ。
良いおっぱい悪いおっぱい伊藤比呂美集英社
映画にもなったこの本は妊娠中に図書館で借り、ものすごいインパクトでわたしの中におさまった。
わたしの母は、わたしにこの本を読まされて「自分の時代にこんな本があったなら、どんなに気持ちが楽だったかもしれない」とつぶやいた。
この本は、著者の第一子の妊娠中のことが語られていて、その中に、妊娠した子どもに異常があったらと、そんな文章があった。
具体的なフレーズは忘れたけれど「うりこ姫も鉢かぶり姫も一寸法師も桃太郎も、みんなみんな奇形だった。わたしは自分の生む子が奇形だったとしても、おおらかに受けとめたい」というようなことが書いてあった。
このフレーズだけで表現するのは難しいのだけれど、わたしはなんと言うか、言葉に言えないどーんと「おおらかさ」の影響なようなものを受け、腹の中で育っている子に対して、「わたしもおおらかに受けとめる」と、思っていた。
その章を、なんともにっこりと読んでいた覚えがある。
このときに腹の中にいた子がダウン症だったとわかり、少したって、母がわたしをうかがうようにこう聞いた。
「あの本のあの文章を読んでいたときに、本当は知っていたの? お腹の中の子に異常があるって。」
「知っていて、言わなかったの?」
いやいや、それ、偶然。
一応、それなりに、衝撃。
でも、やっぱり年数たってみれば、あのときそんな風に思っていたことに、助けられたかもね。
集英社
先日古本屋のワゴンで、100円で売られているこの本を見つけた。
ああ、懐かしいと、思わず購入。
この本から始まった「おなかほっぺおしりシリーズ」の一連の「伊藤比呂美の育児エッセイ」は、わたしの二人の子どもが幼児の時代に、わたしにとって重要なアイテムだった。
わたしの子育ての教科書であり、友達だった。
乳児と幼児とでぐちゃぐちゃな生活を(いいのか?おい)というほど赤裸々に語り、おおらかに愚痴り、吐き出し、考察していて、その考察の感性はなんともすばらしく、いろんな思考を与えてくれた。
繰り返し繰り返し読んだ伊藤比呂美の育児エッセイの数々は、転居の時に全て地域の児童館の図書コーナーに寄付してきた。
所持していたのは全て文庫版ではなく単行本だったので、家の本棚の場所を取るよりも、その方がふさわしいと思ったから。
今もどこかの迷える母親を笑わせながら助けているのだろうか。
伊藤比呂美の「育児本」との出会いのスタートは、やはりコレ。
良いおっぱい悪いおっぱい伊藤比呂美集英社
映画にもなったこの本は妊娠中に図書館で借り、ものすごいインパクトでわたしの中におさまった。
わたしの母は、わたしにこの本を読まされて「自分の時代にこんな本があったなら、どんなに気持ちが楽だったかもしれない」とつぶやいた。
この本は、著者の第一子の妊娠中のことが語られていて、その中に、妊娠した子どもに異常があったらと、そんな文章があった。
具体的なフレーズは忘れたけれど「うりこ姫も鉢かぶり姫も一寸法師も桃太郎も、みんなみんな奇形だった。わたしは自分の生む子が奇形だったとしても、おおらかに受けとめたい」というようなことが書いてあった。
このフレーズだけで表現するのは難しいのだけれど、わたしはなんと言うか、言葉に言えないどーんと「おおらかさ」の影響なようなものを受け、腹の中で育っている子に対して、「わたしもおおらかに受けとめる」と、思っていた。
その章を、なんともにっこりと読んでいた覚えがある。
このときに腹の中にいた子がダウン症だったとわかり、少したって、母がわたしをうかがうようにこう聞いた。
「あの本のあの文章を読んでいたときに、本当は知っていたの? お腹の中の子に異常があるって。」
「知っていて、言わなかったの?」
いやいや、それ、偶然。
一応、それなりに、衝撃。
でも、やっぱり年数たってみれば、あのときそんな風に思っていたことに、助けられたかもね。
たしか、『おなか、ほっぺ…』だったと思うんですが、ダンナさんがおむつをトイレで予洗いしてた挿絵が記憶にあります。
当時布オムツで長男を育てていて、『こうすりゃらくだ!』と真似しましたので。
全部読んではなかったはず。育児の中で忘れていったんだろうね。
子どもの障害の有無に関しては、助産婦時代に出会った親子を思い出し、どんな事があってもきちんと育てていこうって夫と話し合ってました。妊娠するたびに考える事でした。
「おっぱい」のとき、つまり伊藤氏の第一子の話は「布オムツ」の話になっていますが、第二子が登場する「おなか…」から紙オムツになってます。
挿絵はわたしも記憶があります。
歯ブラシ型のトイレブラシを使って、トイレで予洗いするというもの。
わたしもこれは、マネしました。
マネ、というか、「おっぱい」の方は文章や思考のおもしろさだけではなく、実用的な情報がたくさんあった。
布オムツの扱いもそうですが、書籍紹介も充実していたと思います。
松田道雄、毛利子来の両氏を「母親の味方として書籍を書く小児科医」と紹介していました。
わたしは、伊藤比呂美の薦めに従って知った「良書」多かったです。
「家族計画」の項で、楽しい挿絵付きの避妊法がいくつか出ていましたが。
最初に読んだときのものは、避妊法のひとつとして「マイルーラ」が紹介されていた。
再版本は、その部分に黒い縦線がずらずらと引かれ、「安全性に問題があります」と記載されました。
なんというか、この辺、時代の変化を感じるなあと思う。
わたしはかなり伊藤比呂美は、感性びったんこだったので、記憶は「あのあたりのページに、あんな挿絵付きで」とけっこう鮮明。
「おなかほっぺおしりふともも」に、親戚のおばあちゃんの話があって。
この方がとにかく子どもをほめるのがうまい。
子どもたちはこのおばあちゃんの回りでみなニコニコし、そしてこのおばあちゃんといっしょにいると自分もほめてもらえてとてもしあわせになる、と。
最後の一行に、この方は養護学校の教師歴があるとあって、なんというかなるほどと思ったなあとかね。
この後、こういった視点の本、どんどんいろんな人の書籍によって出てくるけど、でも、なんというか、「ただべらべらとホンネを言う」というのと、わたしにとっては位置づけがちょっと違う。
ホンネのその先の思考、ってとこかな。
絵本の紹介も、「子どものための」ではなく、「自分の感性のための」というところが好感だった。
この伊藤比呂美という方、育児エッセイの傍らの本職の著述の中で「セックスレス」や「家庭内離婚」だの、「自分たちの結婚生活」なんぞを語り、結局、離婚されるんですよね。
そして、別の方とまた再婚されて、第三子が生まれることになる。
これが「おなかおしりほっぺトメ」で、これは、この三番目のお子さんのお話で。
まさか、また生むとは思っていなかったので、というか、彼女の第一子とだいぶ年の離れた第三子になるので、わたしの育児期とはもうズレてしまっていて、読んでいません。
読みたいな、とは思っているんですけどね。
育児本は全て寄付してきましたが、残したのはこの最初のご主人と伊藤比呂美氏の共著「家庭の医学」。
これは育児エッセイというより、個人の思考から生まれる哲学書のようなもので。
伊藤比呂美氏のエッセイには、くりかえしくりかえし、「鉢かぶり姫やうりこ姫の話」が出てくる。
子ども時代にこうした本を「なめるように読んだ」という著者が言う「うりこ姫も鉢かぶり姫も一寸法師も桃太郎も、みんなみんな奇形だった」というフレーズは、そこに出しているのが単なる例示ではなく、自分の愛していたものとしてあげられているわけで。
そのことが「受けとめる」ということの、倫理とは違う意志を感じて、わたしはおもしろかった。
そして、わたしもそうした「子ども時代の友達」となっている児童書の登場人物をイメージし、「そうか」と、思ったんですよね。
倫理で「受けとめる」というのとはちょっと違う視点。
こういうところが、多分、わたしが伊藤比呂美氏に傾倒した要素なんでしょう、きっと。
『鳩よ!』と言う雑誌に載っていた『きっと便器なんだろう』と言う詩でした。
男とセックスする自分は、この男にとってなんなのだろう、きっと便器なんだろうと詠ったものです。
当時私は純で多感な女子高の高校生でして、かなり衝撃的な印象を残しました。
そんな彼女が、結婚して育児エッセーを書くようになり、
ご主人が便器で子供のオムツを予洗いしているなんて、
なんと言うか、しみじみ時代の流れを感じたものですが、
その後離婚され、再婚され、今なお突き進んで居られるなぁと拝見しております。
(って、ババ臭いけど)
「なんであのとき買わなかったんだ~~~~」
と、「ほぞをかむ」という表現の、わたしにとっては代表的なモンになっちゃった例がありまして。
なんだったか、中学生くらいを対象にした哲学書だったんですよね。
いろんな人が著者になっている本で。
その中の伊藤比呂美の分だけ、書店で立ち読み。
思春期のことだとか、摂食障害の経験だとかを書かれていましてね。
ああ、もう一度、出会いたい。
伊藤比呂美は現代詩人としての詩作、インパクトありますよね。
実はわたしもこの「便器」は既知です。
その伊藤比呂美の「良いおっぱい悪いおっぱい」を妊娠中に図書館で見つけたときは、なんというか、感激の「げげっ」って感じだった。
この本が出た当時、「妊娠中に、陣痛が起きたときの自分を想像し、ボレロの音楽をイメージしながらオナニーした」なんて書かれる妊娠育児エッセイ本なんて、なんというか「驚愕の一冊」という一言。
妊娠・出産・育児を経験し、楽しみ、騒ぎ、発見し。
その中で終始、なんというか「『伊藤比呂美』が退化しない」みたいな魅力もあったと思う。
妊娠・出産・育児というものは、なんというか、それまでの自分が崩壊してしまうんではないか、
どこぞの平和なオバハンになっていってしまうんではないか、
そんななんというか、淡い恐怖のようなものってありませんでした?
わたしはあったんですよね。
「平和」はいいんだけれど、なんというか12色の色鉛筆を持っていたはずだったのに、それはいつの間にか5色程度になってしまい、当の本人は気づかない「平和」というか。
自分の見える「目」が、いつの間にか狭まってしまって、そのことにさえ自分が気づかなくなるというか。
わたしはそういう「淡い恐怖」があった。
伊藤比呂美は衰退しない、増殖している。
これ、なんというか、1人の女として、安心感ってのも与えてくれたとこ、あるなあと思います。
まさか、相手替えて、さらに増殖するとは思わなかったけどね。
コメントを書く前に、一日さまざまな事を考えさせて頂きました。
まとまりませんが、少しだけ。
>「『伊藤比呂美』が退化しない」
>「淡い恐怖」
そうそう、それなんです。
彼女は相変わらず退化せず、守りに入らず、結婚して子を成し増殖している。
着々と伊藤比呂美を増産している。
わが子を見て、その中に自分自身を見つけてハッとする事がありますが、増殖しているはずのに自分は退化している気がします。
ジャンプする前のしゃがむ時期なのかなと思いつつ、随分しゃがんでるな、今更ジャンプできるのかなと思ったりね。
すでに「淡い恐怖」から「直面する現実」になっているかもしれないです。
公園デビューというものをテーマに書かれた育児本というのがありましてね。
仕事を持つ女性が育休中に体験した「公園デビューにまつわる経験」と、そこでの思考なんだけれど。
個をおさえつけるような「集団」を嫌悪していた著者が、「密室の育児」から「公園」へと出ていくときに、個をおさえつける集団でもなんでもいいから「集団への憧れと、集団に属さない孤独感」を知っていくことを自ら考察していくというのがおもしろかった。
子どもを育てるということは、そこで集団に入っていく必要性があるんですよね。
これは「子を育て守る」ということに、動物として必要とされる感覚なのかもしれない。
そのときに、自分を「おさえる」のか、自分を「気づかずに殺していく」のか、その辺の差というものが大きいのではないかと思う。
そして「引くときは引くが殺さない」ということが、「淡い恐怖」からの脱却なのか、と、今は理解しているような気がします。
生んではいるが、ヤツらはヤツらで、生を始めて経験の中で、ヤツらの個性の増殖が始まっている。
わたしにとっては、これはこれで別物なんですよね。
遺伝子を部分的には渡しているが、受精ということを通して他の遺伝子を備えて、それは彼らの「新しい開始」なわけで。
(うちにはこの遺伝子すら変則形に勝手にしてしまったヤツもいるし)
その上で、「母」という立場の人間は、経験というものを通して言えば、妊娠・出産・育児という経験が、自分の中の個性の増殖ということにとって、大きな要素として動かすことができるものなんだ、と。
そんなことを伊藤比呂美は教えてくれる。
伊藤比呂美という人間の中の伊藤比呂美という個性が、伊藤比呂美の中で増殖している気がするんですよね。
平和というものは、鈍感という副産物を生みやすい。
これが「淡い恐怖」だった。
そしてこの鈍感がセットになった方が、子どもはしあわせなんではないかと思っていた。
子どもに対しての苛立ちを抑えることを「正解」とするのは、寛容を備えさせるけれど、他のものを見る「目」さえも奪っていくんではないか、なんてのも、ちょっと思うわけで。
それでも、子どもを生んで育てるということは、それをそのことを受け入れていかなきゃいけないもんなんだと、そう思っていた。
でも、「正解」なんかいらない。
自分の中のマイナスの部分に関して、自省や自制を努めつつも、マイナスの感情を持つということ自体をわたしはやめたくないんです。
コトの本質がわからなくなる、見えなくなることの方が、わたしは惜しい。
マイナスを捨て去ったプラスよりも、マイナスを認知してプラスを目指して結果的なプラスに持っていこうとする「欲」の方が、強いんですわ。
そして、今は、そうやって人間の持つマイナスもプラスも見せて教えて、そしてプラスに向かっていく姿勢というものを子どもに見せていく方が、単純な純質の「プラス」だの「正解」だのよりも、「育てる」に近いんじゃないか、なんぞと思っております、わたし。
思っているというか、それがわかったというか。
そしてそれしか自分にはできない、そういう個性なんだとわかったというか。
伊藤比呂美の育児本の「育児ドタバタ光景」のおかげで、わたしは「正解以外の自分に生まれる感情」にちっともあせらずにすんだ。
ヤツらの未熟さに対して、こう感じるものなんだ、こう思うものなんだ、と。
そしてその対応を考えるというのは、そこから出発するもんなんだとね。
やっぱり、「教科書」で「友達」だったんだなあ、などとあらためて思っております、伊藤比呂美の育児本。
『おおきい、ちいさい、つよい、よわい』という本。
仕事と育児で悩んでたとき、保育園に預ける事の罪悪感とか、一緒にいて上げられない申し訳なさとか。
罪悪感はいらない事や幼稚園児と保育園児はなんら変わらないこととか、はっきり言葉を覚えてるわけじゃないけど、どれが正しいと言うのはないというようなメッセージうれしかった。この本を通じて伊藤氏のメッセージも感じられてたのかな。
いや、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。
あのね、
「ちいさいおおきいよわいつよい」ですよ、くみこさま。
この順番が、すなわちメッセージ性なのですよ、くみこさま。
いや~、この「広告無し」の雑誌、その存在価値はとても大きいですよね。
新記事で「本を捨てる」と入れましたが、捨てずに書棚の位置を勝ち得た本の中に、この「ちお」の第一巻からとびとびで計12巻が並んでおります。
>どれが正しいと言うのはないというようなメッセージうれしかった。
ここ、なんですよね、「母」というものを「育てる」のは。
わたしはなんというか、本当にそう思う。
それだけ、「母」という立場は見えないプレッシャーにもみくちゃになっているものかもしれない。
わたしは「伊藤」→「毛利」→「山田」といきましてね。
「ちお」で毛利氏とペア組んでる山田真医師ですが。
この方が、知的障害児の父親だった。
そして、それにまつわる著作もあった。
これは大きかったですね。
山田氏とは、教育に関しては、ちょっと意見が合わない結果にはなりましたが。
ところで「ちお」。
その後、「おそいはやいひくいたかい」という雑誌が同じ会社から出まして。
ここからの取材が話題になっているのがここの記事でありまして。
http://blog.goo.ne.jp/yu-kunchi/e/78a9d1560c16cc01b321aec34ef661d2
「ちお」にも執筆されていた岡崎勝氏がコメント欄に投稿なんぞ、入れてらっしゃいます、よかったのぞきにいらしてみてください。
この順番が、すなわちメッセージ性なのですよ、くみこさま。
『ち・お』ですもんね。
お世話になったのに。恩知らずなわたしだ~!
幼稚園・保育園編と母乳・ミルク編を持ってました。
ご紹介のところには後ほどいてみます。
上に2回誤作動でコメントが投稿されてしまいました。みんなSさんの言葉なんですが。消えただけと思ったらちゃんと出てました。ごめんなさい、削除願います。