娘がまだ幼児期の頃のことだったと思う、息子がまだ生まれてなかったので1歳か2歳かそこらの時のことでしょう。抱いていなかった記憶があるので、恐らく2歳は過ぎていたかもしれません。
娘のリハのために定期的に通っていた、自治体の就学前の障害児の通所施設の近くに、大きな郵便局があった。そこの窓口から何かを送ったときのことだったと思う。
わたしの前に高齢の方がいらした。小包を出そうとされていた。手に抱えられるくらいの小さめの箱をきちんと紙でくるんで、麻紐で十字に縛り、マジックで住所が書かれてた。ゆうパックが出始めの頃だったと思う、ゆうパックが無い時代はみんなそうやって、十字に紐でしばってマジックで住所を書いていたなあと何気なく見ていた。
郵便局の局員が、ゆうパックの伝票を出してその方に、視線も合わせず早口で何か言う。この方は身を乗り出して聞き返す。また局員が何か言う。またこの方は聞き返す。そしてこの郵便局の局員は乱暴にその小包を突き返し、ゆうパックの伝票を半ば乱暴に投げて寄越す。困惑したこの方は、また弱々しげに局員に聞く。局員はそれを無視し、「次の方」と言う。この方は突き返された箱を抱えて、呆然と下を向き、立ちつくす。
ふつふつふつふつふつ、どっか~~~ん。と、わたしはキレました。
当惑しながらこの箱を持ち呆然とするこの方ににっこりと笑顔を向け、「ちょっとこれ貸してくださいます?」と聞き、それを奪い、局員に乱暴にそれを示し「何が問題だ!」と声を荒げる。局員は当惑しながら、「ゆうパックの伝票を書いて貼って欲しい」と言う。「あなたはこの方がおわかりになるように説明なさったのかしら。どう見たってそうは見えませんでしたけど」
「この局は、こういう方に門前払いをする郵便局ですか!」
場は騒然としていました。
件の方の腕のあたりをそっと取り、声を届けるような話し方で話しかける。
「箱に住所を書くのではなく、この伝票に書いて貼って欲しいんだそうです」
「ああ、そういうことだったんですか」と言いながら、この方が、やっと納得したように息を吐く。
「ここではなく、あちらでゆっくり書きましょう」、と、わたしたちは、振込やらなんやらを書く台のそばに行く。
この方、何度も何度もわたしに繰り返し繰り返し、言っていました。自分は耳が悪い。年を取ってすっかり耳が聞こえなくなった。
それの何が悪い。
なんであんな、役立たずみたいな扱いを受けなきゃいけない。
小包の箱には、丁寧に、太いマジックで几帳面な字できちんと住所が書かれていました。それは役に立たない、認められない、伝票に書き直さなければいけない。
伝票の小さい枠を慣れない様子で見ながら、「どこに書けばいいのか」と聞く。「ここに郵便番号を、ここに住所を」とゆっくりとお伝えする。
「わたしは耳が遠い」とまた、くり返す。繰り返しながら「あなたの声はよく聞こえるねえ」と少し微笑む。
くすくすっと笑いながらわたしは何も答えず、でも心の中では(伝えようとしているからだ)、と、思う。
2人で窓口に再度向かう。局員は立ち上がり、わたしに頭を下げ「申し訳ありませんでした」と言う。なぜでしょう、当のご本人ではなく、わたしに頭を下げる。
「頭を下げる相手が違う」と答える。
所用を済ませ、郵便局を出て、思った。
あの、「わたしは耳が悪い」とくり返す高齢の方は、きっと若い頃、障害をもつ人間を役立たずと決めつける生活をしていたのだろうな、と。
「耳が悪い」と、堂々と支援を要求できない姿は、それが悪いことだと思っているからだろうな、と。
あの、聞こえない人間に伝えようとする思考を持たず、聞こえない人間にいらつくだけだった局員は、障害をもつ人間を役立たずと決めつける生活をしていくのだろうな、と。
娘を見ながら、この子が育っていく中で、ああいう人たちの言動や視線をたくさん浴びていかなければならないんだろうな、と、そう思った。
あれから、10年ちょっと、ですかねえ。
10年の中で思ったことは、あの視線は「障害」というレベルに達するかどうかのボーダーの方が常に浴びていることなんだろな、と思うこと。
「障害」というものは、「障害」というカテゴリ分けをされることで守られている部分があるのかもしれないなあと思うこと。
そして娘本人、どう思っているか知らんが、かなり堂々と生きているなあ、と思う。
支援を受けることは悪いことではない、恥ずべきことではない。
わたしにとっては、これはずっと変わらんでしょうね。
娘のリハのために定期的に通っていた、自治体の就学前の障害児の通所施設の近くに、大きな郵便局があった。そこの窓口から何かを送ったときのことだったと思う。
わたしの前に高齢の方がいらした。小包を出そうとされていた。手に抱えられるくらいの小さめの箱をきちんと紙でくるんで、麻紐で十字に縛り、マジックで住所が書かれてた。ゆうパックが出始めの頃だったと思う、ゆうパックが無い時代はみんなそうやって、十字に紐でしばってマジックで住所を書いていたなあと何気なく見ていた。
郵便局の局員が、ゆうパックの伝票を出してその方に、視線も合わせず早口で何か言う。この方は身を乗り出して聞き返す。また局員が何か言う。またこの方は聞き返す。そしてこの郵便局の局員は乱暴にその小包を突き返し、ゆうパックの伝票を半ば乱暴に投げて寄越す。困惑したこの方は、また弱々しげに局員に聞く。局員はそれを無視し、「次の方」と言う。この方は突き返された箱を抱えて、呆然と下を向き、立ちつくす。
ふつふつふつふつふつ、どっか~~~ん。と、わたしはキレました。
当惑しながらこの箱を持ち呆然とするこの方ににっこりと笑顔を向け、「ちょっとこれ貸してくださいます?」と聞き、それを奪い、局員に乱暴にそれを示し「何が問題だ!」と声を荒げる。局員は当惑しながら、「ゆうパックの伝票を書いて貼って欲しい」と言う。「あなたはこの方がおわかりになるように説明なさったのかしら。どう見たってそうは見えませんでしたけど」
「この局は、こういう方に門前払いをする郵便局ですか!」
場は騒然としていました。
件の方の腕のあたりをそっと取り、声を届けるような話し方で話しかける。
「箱に住所を書くのではなく、この伝票に書いて貼って欲しいんだそうです」
「ああ、そういうことだったんですか」と言いながら、この方が、やっと納得したように息を吐く。
「ここではなく、あちらでゆっくり書きましょう」、と、わたしたちは、振込やらなんやらを書く台のそばに行く。
この方、何度も何度もわたしに繰り返し繰り返し、言っていました。自分は耳が悪い。年を取ってすっかり耳が聞こえなくなった。
それの何が悪い。
なんであんな、役立たずみたいな扱いを受けなきゃいけない。
小包の箱には、丁寧に、太いマジックで几帳面な字できちんと住所が書かれていました。それは役に立たない、認められない、伝票に書き直さなければいけない。
伝票の小さい枠を慣れない様子で見ながら、「どこに書けばいいのか」と聞く。「ここに郵便番号を、ここに住所を」とゆっくりとお伝えする。
「わたしは耳が遠い」とまた、くり返す。繰り返しながら「あなたの声はよく聞こえるねえ」と少し微笑む。
くすくすっと笑いながらわたしは何も答えず、でも心の中では(伝えようとしているからだ)、と、思う。
2人で窓口に再度向かう。局員は立ち上がり、わたしに頭を下げ「申し訳ありませんでした」と言う。なぜでしょう、当のご本人ではなく、わたしに頭を下げる。
「頭を下げる相手が違う」と答える。
所用を済ませ、郵便局を出て、思った。
あの、「わたしは耳が悪い」とくり返す高齢の方は、きっと若い頃、障害をもつ人間を役立たずと決めつける生活をしていたのだろうな、と。
「耳が悪い」と、堂々と支援を要求できない姿は、それが悪いことだと思っているからだろうな、と。
あの、聞こえない人間に伝えようとする思考を持たず、聞こえない人間にいらつくだけだった局員は、障害をもつ人間を役立たずと決めつける生活をしていくのだろうな、と。
娘を見ながら、この子が育っていく中で、ああいう人たちの言動や視線をたくさん浴びていかなければならないんだろうな、と、そう思った。
あれから、10年ちょっと、ですかねえ。
10年の中で思ったことは、あの視線は「障害」というレベルに達するかどうかのボーダーの方が常に浴びていることなんだろな、と思うこと。
「障害」というものは、「障害」というカテゴリ分けをされることで守られている部分があるのかもしれないなあと思うこと。
そして娘本人、どう思っているか知らんが、かなり堂々と生きているなあ、と思う。
支援を受けることは悪いことではない、恥ずべきことではない。
わたしにとっては、これはずっと変わらんでしょうね。
何度かカキコしようかと思ったんですが、私がぼぉ~っとしてる間に埋もれちゃいました。のびのび太ですね。そのうち化石みたいなコメントつけちゃうかもしれませんが、ゴメンなさい。
ええと記事を読み、Sさんは相変わらずかっこいいなあーと思いました。
障害者に対する視線については、私も強烈な思い出があります。
数メートル前を弟が歩いていたとき、後ろから歩いてきた中学生ぐらいの女の子が、弟の障害に気づいたとたんに思いっきり弟を迂回したたことがあるんです・・・。もう、弟を中心に弧を描くように、ぐにゃりとね。
後ろからその光景を目の当たりにした私は、「ああ、弟は障害者なんだなあー」とあらためて実感しました。たとえ弟がおとなしく歩いていたとしても、弟はよけられる存在なんだなーと。何をしても、してなくても障害者なんだなーと。
悲しくもあり、現実でもあり、です。まあ慣れっこですけどね、こんなのは。
ちなみに当の弟はそんな視線なんてお構いなし。楽しそうにるんるん♪と歩いてました。
この記事上げ、発端はかるとーしゅかさんとこに入った「天竺堂さんのコメント」だから。
えっと、コレだな。
http://blog.goo.ne.jp/kartoshka/e/9421793d2f797448e9fd2106ecfb15a4
さて、「ぐるっと迂回」。
要するに、怖いんでしょうね。
「偏見は、無知から始まる恐怖」ってヤツ。
かるとーしゅかさんが前に記事中に書いていたように、「親」ってのは、障害をもつ子どもを生むまでは、そう、軽く20年くらいは、そっちの立場をやってる人が大半なんですよね。
「親になった立場」としての痛みを持っても、痛みを持たせる側だった記憶ってのを持っている場合もある。
逆に言えば、そうした感覚を持った経験が皆無なら、受容の苦しみなんてものは起きないはずだ。
きょうだい、は、ねえ。
「障害関係なく、生活のそばにいる人間」として出会った後に、「障害」と出会う。
これは大きい、「親」とは違う。
このことはやっぱり、きちんと心に置いておくべきポイントだと思いますね、わたしは。
しかも、こうした経験を、(ちょっと親に話せないよな)って要素も持たされちまいますしね。
要するに、口もふさがれるって可能性を持つ傾向が強い。
世に「障害」関連書籍は数々あれど、「障害児のきょうだい児の発達心理学」のような本が無い。
きょうだい児に関連する書籍ってのも、わたしはぶどう社の「きょうだいは親にはなれない…けれど」とその前身くらいしか知らないんだけど、他に知っていたら教えて欲しい。
「障害」というものは、「障害」というカテゴリ分けをされることで守られている部分があるのかもしれないなあと思うこと。
あくまで私の経験則ですが(こう断っておかないと、何を言われるか分かりませんので)中学校の特殊学級に入ってくる子のうち、小学校で特殊学級にいた子よりも通常学級にいた子の方が(悪い意味で)“世渡りがうまい”子の割合が多いというのは、このあたりに根っこがあるのかなぁ…
あー、びっくりした。
あー、びっくりした。
…、なんだ霞先生か。
>(こう断っておかないと、何を言われるか分かりませんので)
コレに、危うく、精神的に過剰反応しちゃうとこでしたわ。
過剰反応を隠して切り抜けるには、って、頭が回転を始めてましたでございますよ、っと。
霞先生んとこに出てくる「過剰反応」ってのは、なんだろうって、思うよね。
ああいうのを見ると、教師ってのも、損な商売、ってとこ、あるなあと思う。
通常学級の小学校教員の友人がね、以前一年生を担任したときに、クラスに自閉症児がいた。
事前に情報が全然無かったんですよね、受診歴も無かった。
ただ、入学式のときに、式に来賓で来ていたこの子の出身幼稚園の園長に何度も何度も「○○くんをよろしくお願いします」と頭を下げられて変だなあと思っていたと。
なんとか彼を含めた学級運営を考えるのだけれど、それでもこの子に対して専門性の無い自分が不安だ、と。
どう進めていくか、トラブルにどんな解決策があるか、専門家を交えて話したくて、親に受診を勧めるのだけれど、ちょっとでもその話をしようものなら「追い出すのか」のノリで、親がエキセントリックになってしまう、と。
「敵ではなく、味方になるために、なんだよおおおおお」と、一時叫びまくってました。
この時も思いましたね、教師ってのは、その言葉がそのままに受けとめられるってことに、時に「障害」があるってね。
霞先生が「経験の中で」書かれた、以前の「通常学級で小学校を過ごした生徒の現状に対しての考察」記事は、わたしは意義が高いものだと思っています。
実は、通常学級で6年間過ごした障害をもつ生徒の教育に悩む中学の障害児学級の教員を助けたんですよ、あの記事。
ウェブ上では見られない経緯ですけれどね。
霞先生、ありがとうね。
あ! そうだったんですかー! 気づかなかったです。。。言われてみれば、確かに(汗)。
>わたしはぶどう社の「きょうだいは親にはなれない…けれど」とその前身くらいしか知らないんだけど
うはは。アレとアレまで!お読みになったんですねー。前身はすでに絶版ですよね。私は図書館で借りて読みました。
そうですねえ、最近のもので素直に共感できたのは、自閉症のきょうだいである島田律子さんの「私はもう逃げない」でしょうか。「恋のからさわぎ」に出ていた頃の彼女はイマイチ好きになれなかったんですが、この本で語られていることは素直に共感できましたよ。
その後もそこそこに出ていますが、今度まとめて書きますね。やっぱり色んな障害の種類の“きょうだい”の書いたアンソロジーがいいですよね?
というのも、Sさんは鋭いのですでにお気づきかと思いますが、同じきょうだい同志でも障害の種類によって考え方が微妙に違ってくるんです。かくいう私も以前、ダウン症のきょうだいとモメたことがありますし。古傷もってます。
私の受けた印象では、ダウン症のきょうだいは平和主義者がとても多いです。多分、ダウン症は社会性のある人が多いからかなあ? なんかそんな気がします。一方、自閉症のきょうだいは、私を含めて辛口派のきょうだいが多いようです。あくまで私のレーダーですけどね。
ふっふっふ。
だろ?
いや、あのコメント読んで、すぐに思い出した、この10年ちょっと前のことね。
とにかくこの方、何度も何度も「わたしは耳が悪い」と言う。
「耳が悪いのは、そんなに悪いか」って、逆に思った。
そんなこと言っても仕方ないし、実際目の前では歴然と「弱者」だったから、何も言わなかったし、言う必要も無いよね。
でも、わかってしまうんだよね。
はっきりわかってしまうというか、それはこの方が、今までどうやって生きてきたかってこと。
要するに、「耳が悪い」のは、この人にとっては「駄目」なんだよね。
自分が「駄目」と決めつける人種に、自分がなってしまった、っていう、そういう事実から抜けられない。
どんな風に生きてきたかってことが、はっきりと自分に返ってしまう。
それは、とても残酷なくらいだ、と思った。
だから、あの天竺堂さんのコメントは「真理」だと、わたしは思う。
「きょうだい」に関しては、全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会の資料は、存在価値が大きいと思う。
日本ダウン症協会代表の玉井氏が関係している「芝草の会」ってとこで、以前、小学校の高学年以上のダウン症のきょうだい児にアンケート調査をやっているんだけど、その報告書類ってあるのかな、と、ふと。
横浜市自閉症児・者親の会の「きょうだい会」は、この前の夏に「自閉症のきょうだい児のキャンプ」をやっているから、何らかの指針になる分析があるかもしれないね。
それとも「きょうだい」の自身の経験を持ち寄っているだけなのかな。
わたしは、きょうだい児の「発達心理学」ってのの専門書が希望、なんだよね、基本は。
親の障害受容に関して、ドローターの図式ってのがある。
なんで同様の研究がきょうだい児には無いんだろ、と。
いや無いのではなく、目立つところに出てこないだけなのかな、って思ったり。
学生さんの取材ってヤツを受けると、その研究の主体者であるインタビュアーに「きょうだい児」はちらほらと存在する。
「わたしは『きょうだい』の立場です」と言われても、もうちっとも驚きゃしない。
そのテーマは常に障害児・者のことで、自分のことではない。
自分のことではない、というか「親寄り」の「専門家」の卵、なんだよね。
きょうだい児に、本来の自分の筋である「障害児のきょうだい児の発達心理学研究」をする人が出てくることをおおいに期待していますね、わたしは。
>やっぱり色んな障害の種類の“きょうだい”の書いたアンソロジーがいいですよね?
もちろん、そう。
ただね、どれか一つしか無いのだとしたら、また、どれか一つしかチョイスできないのだとしたら、
わたしは「自閉症児のきょうだい児」のものをチョイス、しますね。
勝手な分析だけれど。
ダウン症児のきょうだい児は「『陽』の陰になる要素」がある。
ダウン症児は「常に注目の中にいる」ような存在ってとこ、あるからね。
重度重複障害児のきょうだい児は親からの「放任、依存」の傾向は出てくるけれど、きょうだい児が運動機能をもつということ自体に、親が喜びを持つという要素もある。
「運動機能」、要するに「存在して動く」だけで喜ばれる。
自閉症児のきょうだい児は「放任、依存」に加えて、「存在が認められていない寂寞感」のようなものを持たされてしまう要素があると思う。
「動く親子」の陰になる、これはダウン症のきょうだい児の「『陽」の陰」とは違う。
「親と自閉症の子、そしてきょうだい児」という構図が生まれる、最も「親の無い子」になりやすい要素があると、わたしは勝手に「分析」するのですよね。
どう、なんだろうね。
そこでどんな思考の発達過程を経ていくか。
ってことで「発達心理学」の領域だと思うんですよね。
>かくいう私も以前、ダウン症のきょうだいとモメたことがありますし。古傷もってます。
はっはっは。
自閉症とダウン症はね、もめる要素という「地雷」があるんだよ、もともとね。
「ダウン症は病気じゃない」っていう、ダウン症の関係者として「とてもわかりやすい良書」があるんだけど、このアマゾンのレビュー見に行ってごらん、ここでももめてるから。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4272403087/qid=1131593503/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-1271952-8685832
ダウン症の関係者には、自閉症に対して「畏怖や偏見」を持っている人が存在していると、わたしは思う。
だからさ、「障害」は、障害種別を超えて見通さなきゃダメなんだって、
っていつも思うよ、真面目にね。
その視点が欠ける人が、ダウン症の関係者には多い、というのはわたしの偏見、かな。
えっと、ご足労申し訳ないが、ちょっとここ、見に行っといてください。
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20051109
日本できょうだいの発達心理学をやっていないのかといえば、否ではないと思いますよ。本人という立場で地道にデータをとりつつ発表している研究者もいます。ただ、この場でそれを伝えることは残念ながら出来なくて・・・申し訳ないです。
まあ、福祉の研究分野では「きょうだい」なんて一蹴されるのが普通のようです。やっぱり研究対象は障害者になりますから。それに、きょうだいは生きるために良くも悪くもウソをつくから(笑)、実証が難しい。ホントの心はつかみづらく、本人も自分探しの旅に出ていることが多いですしね。
文献についてですが、これもどうお伝えしていいのか迷ったんですが、某きょうだい関係のサイトではかなり色々な文献を紹介しています。ぐんじょう色が背景になってるサイトです。あと、最新では田中弘美著『障がい児のきょうだいたちのホントの気持ち』ってのが出てますね。すでにご存知でしたらすみません。私は読んでないので何とも言えませんが。
アマゾンれびゅー見てみました。なるほど確かに。重複障害になるとこれまた複雑で感じ方も違ってくるし、自閉症のみの親が読むと「なンだ?コリャ?!」になりますね。地雷踏みまくりですな。
今日の一言ブログも見てきました。すごいですね、そのパワー。もう1コブログをお持ちだったとは!
何か会を立ち上げようとなると本当に大変ですよね。私も似たような経験をしたのでよく分かります。
これ以上書くと長くなるのでここらで退散!
群青色も、多分、理解。
サンキュ。
そのうち、一緒に飯でも食いましょう。