OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

相対化の時代 (坂本 義和)

2006-03-30 00:20:47 | 本と雑誌

 本当に久しぶりに坂本先生の著作を読みました。ひょっとすると学生時代以来かもしれません。

 私の学生時代は、まだ冷戦時代、ちょうど第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)が開催されていたころで、「軍備管理(Arms Control)」や「軍縮(Disarmament)」が大きなテーマでした。
 その後、当時からは予想だにしなかった冷戦が終結し、それまでの議論の前提が大きく変化したのです。

 坂本義和氏は、国際政治学者で日本における平和研究の第一人者と言われています。一貫して核兵器の否定と平和主義を訴えて来られました。

 この本の前半は、1997年(平成9年)1月、雑誌「世界」に発表した「相対化の時代」と題する論文に加筆したものです。この論文で坂本氏は、冷戦後の新たな平和主義の再構築に踏み出した時期、そこにおける民主化の担い手としての市民社会に注目して従来からの理想主義的姿勢を堅持する一方で、国連やNATOによる限定的武力介入を(究極の選択として)肯定する一歩踏み込んだ議論を展開しています。

 坂本氏は冷戦後の世界状況を理解するキーワードとして「相対化」という言葉を選びました。

(p52より引用) 私が「相対化」という言葉を「絶対化」との対比で使う場合、その対象や問題について、(a) 不変性・不動性ではなく可変性、また(b) 比較秤量不能性・置換不能性ではなく比較・置換・選択可能性の枠組みで意味づけをすることを指している・・・

 この相対化という視点で考えた場合、私が重要だと感じた坂本氏の指摘を以下にご紹介します。

 まずは、冷戦後の「戦争・平和」の状況認識についてです。

(p34より引用) こうした戦争・紛争の相対化による局地化の帰結として、平和と局地戦争との共存が、むしろ世界の常態にさえなってきた。戦争と平和との共存の日常化である。これは軽視できない事態である。

(p36より引用) このように、戦争・紛争を局地化するということは、裏返せば、平和を局地化することでもある。・・・現在の多くの国が見せている内政優先主義は、こうした戦争と平和の分割に密接に関連している。

 次に、冷戦後の民主化の基盤としての「市民社会」についてです。

 ここで坂本氏は、「市民社会」の核心は、相対化された価値ではなく絶対化された目的価値であるとし、そのことが市民社会の正統性の根拠となると論じています。

(p50より引用) 市民社会を原点にすえることの根底にあるのは、次のような現実である。つまり、市場、経済自由化、規制緩和などの正統性の根拠は、最終的には効率であり、競争が生産性を高めるということであるから、これは本来的に「手段の合理性」の域を脱しないものであり、相対性の世界でしかない。
 それに対して、市民社会の正統性の根拠は、目的としての人間の主体の自立であって、これはウェーバーのいう「価値合理性」、つまり目的価値の領域に属する。したがって、そこには手段化できない終局価値という意味での絶対性の世界がある。つまり、人間の尊厳と平等な人権は、すべての人間に開かれた普遍的な目的価値という意味で絶対性をもった価値であり、だから多くの人がそのために命をかけてきたのだ。それが市民社会の核心なのである。

(p56より引用) どのように再定義するにせよ、この「人間の尊厳と平等な権利」という原点そのものは相対化できないのであり、その原点に立って国家や市場を相対化することはあっても、その相対化の原点自体は相対化できない-これが市民社会の立地点だと、私は考える。

 冒頭にも書きましたが、私が学生のころは冷戦の終結(ベルリンの壁の崩壊・ソ連の解体等)など夢にも思いませんでした。さすがの坂本先生も冷戦終結を踏まえた議論まではされなかったと思います。

(p219より引用) 世界の変動は、時とともに驚くほど加速されている。十年前に「冷戦終結は可能だ」と言えば、多くの人は「非現実的」と一笑に付したものである。冷戦の終結が遺した教訓の一つは、何がほんとうに現実的なのかを考える時に、私たちは、いきいきとした想像力をもたなければならない、ということではないだろうか。

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危機管理のつぼ (ウィニング勝利の経営(ジャック・ウェルチ))

2006-03-29 00:13:32 | 本と雑誌

 今まで読んだウェルチの本ではあまり登場しませんでしたが、この本では、「危機管理」をテーマにした一章が設けられています。

 まず、ウェルチ氏は、「危機は起こるものなのだ」と言います。
 全くそのとおりで、この前提をどのくらい真面目にリアルなものとして認識するかが「危機管理の成否の分水嶺」だと思います。当たり前ですが、「危機は必ず起こる」と信じて?準備をしなくてはなりません。

 「危機」が起こったときのリーダーとしての重要なポイントです。

(p174より引用) 危機時には、勇敢にバランスをとる必要がある。一方では、すべてを投げ打って、危機を理解し解決することに全力を尽くさなくてはならない。・・・同時に、それを引き出しに隠して、何も不都合なことがないかのような顔をして、仕事をこなさなくてはならない。これはリーダーが時としておろそかにし、後悔することだ。危機にばかり集中すれば、危機は組織全体に襲いかかり、非難、恐怖、停滞の渦に巻き込んでしまう。

 ウェルチ氏は、「何かがおかしいと感じたら、それを否定するステップはすっ飛ばす」と言います。
 これもまた全くそのとおりです。危機が現実に起こっているのに「起こっていない」と信じようとしても無駄骨です。(そう思いたい気持ちはわかりますが・・・)

 さて、実際に危機が起こったときに覚悟すべき具体的想定事項としては、以下の5つのポイントが挙げられています。

(p177より引用)

  • 第一に、問題は見かけよりもひどいと想定すること。
  • 第二に、この世に秘密にしておけることは何もなく、やがてすべてが白日のもとにさらされると想定すること。
  • 第三に、あなたやあなたの組織が危機に対処する姿は、最悪の形で描かれると想定すること。
  • 第四に、業務手順と人に変化が生じると想定すること。血を見ることなく収拾できる危機はないと思っていい。
  • 第五に、あなたの組織は生き残り、危機的事件のおかげでさらに強くなると想定すること。

 そして、ウェルチ氏は、危機管理におけるもう一つの大事な肝について、こう言います。

(p187より引用) 危機のときに常に必要となるものは、信用なのだ。

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研修=報酬 (ウィニング勝利の経営(ジャック・ウェルチ))

2006-03-28 00:03:21 | 本と雑誌

 今回は、この本を読んでいてちょっと気にとまった「研修」についてのウェルチ氏の考え方をご紹介します。

 私たちは、「研修」というと、「まだ十分な業務遂行レベルに達していない人に対して、業務上必要なスキルを習得させることを目的としたもの」をイメージしがちです。もちろん、更なるステップアップのための研修もありますが、ウェルチ氏が言う研修は少々ニュアンスが異なるようです。

 ウェルチの考えでは、研修は「報酬の一形態」です。

(p132より引用) 研修は業績を上げた報酬として与えられるもので、勤続年数に応じて与えられるご褒美であってはならない。

 これは、
「よい人材はさらに上のレベルに上りたいという意思をもっている、(研修は)そういった彼らの夢の実現に手を貸すものだから」
という考えに基づいたものです。

 ステップアップのための努力は本来はひとりひとりが取り組むものだというのが前提なのです。その(本来本人が負担すべき)取り組みに対して(直接金銭面ではない形で)会社が援助することは、「報酬」と同じく社員の士気を高める性質のものと考えられるのでしょう。

 ともかく、研修は、「能力を発揮した」人のさらなるステップアップのためであって、成果のあがらない人の底上げ施策ではないということです。

 ウェルチ氏のいう「研修」とは、(通常行われる業務上の)「教育」とか「訓練」とかとは異なるレイヤのもののようです。もしそうだとすると、日本の多くの会社では、そういう意味での「研修」はまだほとんどないのかもしれません。

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リーダーシップ (ウィニング勝利の経営(ジャック・ウェルチ))

2006-03-26 09:13:01 | 本と雑誌

 リーダーシップに関する話は、ウェルチ氏の得意とするところです。
 この本の中でウェルチ氏が語るリーダー像をいくつかご紹介します。

 まず、ウェルチ氏は、何でも一番といったスーパーマン的リーダーは否定しています。

(p109より引用) 優れたリーダーとは、自分が一番バカな人間に見えてしまうような優秀な人たちをチームメンバーとして集める勇気を持つ人だ。

 この点について言えば、ウェルチ氏の言う「集める勇気」ももちろん大事ですが、「(人材がその人のもとに)集まってくる」ような「求心力」 これには、いろいろな要素があると思いますが)を持つこともそれに劣らず大事だと思います。

 また、ウェルチ氏は、リーダーに対して「Energize」を求めます。自分がエネルギー(Energy)に溢れるだけではなく、周りの人にエネルギーを吹き込むことが大事だと言います。

(p74より引用) リーダーになる前は、成功とはあなた自身が成長することだった。
 ところが、リーダーになった途端、成功とは他人を成長させることになる。

(p97より引用) それまでは、自分のことだけ考えて仕事をしていればよかった。
 リーダーになった途端、部下のことを考えるのが仕事になる。

 その具体的な姿勢としては、たとえば以下のような姿です。

(p86より引用) 逆境のときにはリーダーはうまくいかない責任をとり、うまくいったときには他人に手柄を回す。

 さらに、リーダーが気にとめておくポイントとして、トップ層に対しては、

(p135より引用) スターは、気をつけないとモンスターになる。

 と警告を発し、また、ミドル層については、

(p139より引用) ポイントは、ミドル70%は重要だということ。どの会社でも、この層がもっとも中核をなす。

と、この層へのケアの重要性を指摘しています。

 ただ、ウェルチ氏のリーダーシップに対する根本的な想いは、この本の最後の章に記された以下の言葉が言い尽くしています。

(p418より引用) 後世の人が私を思い出すとき、あの人は、リーダーシップとは他の人が成長し成功することを手助けすることだ、と理解させようとした人だ、と言ってもらえればいいなと思う。

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難しいところは・・・(ウィニング勝利の経営(ジャック・ウェルチ))

2006-03-25 14:11:33 | 本と雑誌

 ちょっと旬は過ぎているのですが、久しぶりのウェルチ本です。
 以前Blogで知り合ったtakekuraさんは、留学時代、本著出版直後のウェルチ氏に会ったそうです。

 さて、この本ですが、ウェルチ氏がGEを辞めた後、世界各地での講演等で多く質問されたことを材料に、氏の経営の勘所を分かりやすく披瀝しているものです。

 数々のおなじみのウェルチ氏の打ち手が登場しています。
 まずは(あまり耳障りのいい単語ではありませんが、)「選別」です。

(p51より引用) 私の提唱するバリューで実際すごい効果を上げたものといえば、なんといっても選別だ。

 よく知られているように、ウェルチ流の人事政策は、トップ20%、ミドル70%、ボトム10%を選別し、ボトム10%の社員を退職させるというものです。
 ある時、この施策に対して、「この施策が有効なのはアメリカだけだ、他の国ではカルチャーが違うので機能しない」といった意見が出されました。それに対してウェルチ氏は、以下のようにコメントします。

(p64より引用) 選別のシステムを説明し、率直に評価する人事考課制度とリンクさせると、日本だって、オハイオ州と同じようにうまくいったのだ。

 ウェルチ氏はサラッと言いますが、この前提がなかなか機能しないのです。
 難しいところは、「選別そのもの」ではないのです。「選別」の前工程である「評価」が難しいのです。

 ウェルチ自身も、各々の会社における人事評価制度の充実度について機会ごとに尋ねています。そして彼自身も、「(きちんとできていると思っているのは)よくて聴衆の20%、平均で10%くらいしかいなくて、有意義な評価システムができあがっている会社はごくごくわずかしかない」ということは認識しているのです。

 さて、「選別」が有効に機能するための肝となる「評価システム」ですが、ウェルチは、よい評価システムのポイントとして、以下の点を挙げています。

  • 明確ですっきりしていること
  • 個人の成果に直接関連する、事前に合意を得た基準で評価すること
  • マネージャーが部下に対して、インフォーマルな評価に加え、正式な人事考課面談を定期的に行うこと

 さらに、この3点に加えて、最も重要なこととして、「それらのポイントが誠実に行われているかどうかを常にモニターしなくてはならない」と指摘しています。

 誰もが納得する評価システムの構築は難しいものです。
 システムそのものに加え、納得のプロセスとしてのコミュニケーションの深さ・真摯さが不可欠です。

 さらに、何よりも大切なことは、一人一人のマネージャが「人事・育成」が自らの最重要業務だと認識して取り組むことだと思います。

(p142より引用) 会社は建物でも、機械でも、技術でもない。会社は人だ。
 人を管理する以上に重要な仕事はあるだろうか?

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立体で表わす意識 (「いき」の構造(九鬼 周造))

2006-03-24 01:42:01 | 本と雑誌

Kuki  「『いき』の構造 他二篇」に見られる論じ方で最も興味深く思ったのは、意識・心情・情緒といった類のものを「幾何学的もしくはパターン認識的な図形」の中で意味づけるという手法でした。

 「『いき』の構造」では、上品-下品、派手-地味、意気-野暮、甘味-渋味、それぞれの趣味を各頂点に配した直六面体をもって、その関連する趣味の位置づけを説明しています。

(p43より引用) 正方形をなす上下の両面は、ここに取扱う趣味様態の成立規定たる両公共圏を示す。底面は人性的一般性、上面は異性的特殊性を表わす。八個の趣味を八つの頂点に置く。上面および底面上にて対角線によって結び付けられた頂点に位置を占むる趣味は相対立する一対を示す。・・・上面と底面において、正方形の各辺によって結び付けられた頂点(例えば意気と渋味)、側面の矩形において、対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と派手)、直六面体の側稜によって結び付けられた頂点(例えば意気と上品)、直六面体の対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と下品)、これらのものは常に何らかの対立を示している。すなわち、すべての頂点は互いに対立関係に立つことができる。上面と底面において、正方形の対角線によって対立する頂点はそのうちで対立性の最も顕著なものである。

 そして、その立体の中に、「さび」「雅」等の同系統の趣味を位置づけるのです。このあたりは、かなりの強引さを感じつつも、そうかもなぁという気になってきます。

(p45より引用) なおこの直六面体は、他の同系統の種々の趣味をその表面または内部の一定点に含有すると考えても差支ないであろう。いま、すこし例を挙げてみよう。
 「さび」とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角壔の名称である。わが大和民族の趣味上の特色は、この三角壔が三角壔の形で現勢的に存在する点にある。
 「雅」は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。・・・
 要するに、この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置され得る可能性と函数的関係をもっている。

 「風流に関する一考察」では、同じように「風流」の分析で「正八面体」が登場します。

(p117より引用)多面体「厳」「華」「太」「寂」「細」「笑」が風流正八面体である。風流の産むすべての価値は、この正八面体の表面または内部に一定の位置を占めている。

 さらに、「情緒の系図」では、立体ではありませんが、ER図(EntityRelationDiagram)のような系図で、代表的な「感情」の相関を描き出しています。

 この本には3篇の論文が収録されています。
 そのいずれもが、誰でも持っている感情・情緒を対象としています。
 日頃、それこそ感覚的に捉えているこれらのものを、九鬼流の哲学的方法により分析的に意味づけや位置づけを明らかにしていくのですが、その過程を辿るのは、時に不可解、時に納得という変化が味わえ結構楽しめました。

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横縞は野暮?(「いき」の構造(九鬼 周造))

2006-03-21 01:31:31 | 本と雑誌

 本書は、扱っている対象が「いき」というちょっと色気がかった美意識なのですが、その構造解明の論旨は緻密です。というか、今までこういった詰め方にはあまりお目にかかったことがなかったというのが、正直な感想です。

 「いき」を国語辞典で引くと、「気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられること(さま)。粋(すい)。」とあり、それなりに、そんなもんだよなぁと思ってしまうのですが、九鬼氏にかかると、

  • 「いき」の内包的構造
  • 「いき」の外延的構造
  • 「いき」の自然的表現
  • 「いき」の芸術的表現

と諄々と論を進めていきます。

(p27より引用) 「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。

といった感じです。

 九鬼氏によると、「いき」は「二元性」を要し、図形のうちでもっとも直接的に「二元性」を表わした「平行線」すなわち「縞模様」を「いき」だと感じるのはそれゆえだと言います。

(p63より引用)  しからば、模様としての「いき」の客観化はいかなる形を取っているか。まず何らか「媚態」の二元性が表わされていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦め」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做されるのは決して偶然ではない。

 さらに、縞といっても「横縞」でなく「縦縞」の方が「いき」である。それは、目が左右水平についているから、重力の影響があるからと論は進みます。

(p64より引用) まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。・・・その理由の一つとしては、横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるということがあるであろう。両眼の位置は左右に、水平に並んでいるから、やはり左右に、水平に平行関係の基礎の存するもの、すなわち左右に並んで垂直に走る縦縞の方が容易に平行線として知覚される。平行関係の基礎が上下に、垂直に存して水平に走る横縞を、平行線として知覚するには両眼は多少の努力を要する。・・・なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。・・・

 どこまで本気で思っているのか?、読み進めるうちに九鬼ワールドに引き込まれていく奇妙な快感を感じる本です。

(p68より引用) 「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ。・・・模様が平行線としての縞から遠ざかるに従って、次第に「いき」からも遠ざかる。

と書かれても、なるほどそうだとその気になっていきます。

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「いき」の構造 (九鬼 周造)

2006-03-19 14:37:25 | 本と雑誌

 いままで何冊か哲学系の本を読んで、専門的な言葉づかいで分かりにくいところがかなりありました。翻訳のせいかとも考え、もとから日本語のものなら、少しは分かるかと思ったのですが・・・。

 この本でも、たとえば以下のような感じで、やはり厳しかったです。

(p22より引用) 媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。

 ???、「要するに」といわれても???

(p29より引用) 要するに「いき」とは、わが国の文化に特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。

  「形相因」とは、国語辞典によると「アリストテレスの説いた、事物が生成するための四原因の一。例えば、家に対しては、設計図にあたる、『家』の定義にかなった機能・構造・形姿。」ということで、「質料因」とは「アリストテレスによる四原因の一。例えば、家に対しては土や木や石などの材料。」ということらしいのです。
 だからといって、上記の「いき」の定義が理解できたかといえば残念ながら無理で、さらに、それでもってどうして、

(p29より引用) したがって「いき」は無上の権威を恣にし、至大の魅力を振うのである。

 と論理が続くのか? だめです、哲学的素養のない私の頭では理解できません。

 そもそも日本の哲学書であっても、その基本的概念は「ギリシア哲学」であったり「ドイツ哲学」であったりするので、そこに「翻訳」という媒体は介在せざるを得ないわけです。

 この本の著者九鬼周造氏(1888~1941)は、大正・昭和期の日本を代表する哲学者です。1921年(大正10)より8年間にわたってヨーロッパに留学し、リッケルト・ハイデッガー・ベルグソンに学んだ俊才で、特にハイデッガー哲学のおもな訳語の大半は彼の発案によるものとされています。
 九鬼哲学の用語が分かりにくいのも「已んぬる哉」です。

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ヨーロッパ文化と日本文化 (ルイス・フロイス)

2006-03-18 00:12:46 | 本と雑誌

 著者のフロイス(Luis Frois:1532~97)は、ポルトガル(リスボン)出身のイエズス会の宣教師です。

 1563年(永禄6)に来日し、織田信長と面会、その絶大な保護を得ました。その後、3年間日本をはなれた以外は、30余年間を日本での布教にささげ長崎で没しました。
 大の日本通で文筆の才に富み、本書以外でも大作「日本史」の著者として有名です。

 この本は、ヨーロッパと安土桃山時代の日本の風俗を、サクサクとした「対比」で明らかにしています。「われわれは・・・、日本では・・・」という短文の集合で「相違」を列挙していきます。(中には、相違を際立たせようとするあまり例外的なものを誇張していると思われるものもありますが・・・)

 ものごとを理解するうえでは、何かと比較するというのは非常に有効な方法です。比較して「相似」と「相違」を抽出するのです。特に、その比較も相違が際立つとさらに効果的です。

 この場合、「相違」に「気づく」ことが肝になります。そこで「気づく」ための工夫ですが、私は以前このBlogで、「視点」「視野」「視座」を変えることをお勧めしました。

 この本は、「ヨーロッパ人の宣教師の『視座』」から見た日本の風俗を、「相違」という表現で炙り出しています。その対象物の広がりは、衣食住関係はもとより、家畜(馬)・武器・船・書物・演劇・歌謡等極めて多方面に及びます。
 中でも僧侶と宣教師の対比や子どものしつけ・教育に係る部分は、いろいろな意味で興味深いものでした。

 また、比較という意味では、「ヨーロッパと日本」(空間的比較)と「安土桃山時代と現代の日本」(時間的比較)が楽しめます。
 特に、時間的比較という点では、「相違」というよりも「相似」(昔からそうだった)の点が気になりました。そのいくつかを紹介します。

 日本人的「笑い」

(p186より引用) われわれの間では偽りの笑いは不真面目だと考えられている。日本では品格のある高尚なこととされている。

(p191より引用) われわれの間では礼節はおちついた、厳粛な顔でおこなわれる。日本人はいつも間違いなく偽りの微笑でおこなう。

 日本人的「表現」

(p188より引用) ヨーロッパでは言語の明瞭であることを求め、曖昧な言葉を避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている。

(p194より引用) われわれは怒りの感情を大いに表わすし、また短慮をあまり抑制しない。彼らは特異の方法でそれを抑える。そしてきわめて中庸を得、思慮深い。

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難しい本との付き合い方 (読書術(加藤 周一))

2006-03-17 00:08:55 | 本と雑誌

(p175より引用) 世の中にはむずかしい本があります。どうすればたくさんの本を読んで、いつもそれをわかることができるようになるでしょうか。その方法は簡単です。しかし、おそらく読書においてもっとも大切なことの一つです。すなわち、自分のわからない本はいっさい読まないということ、そうすれば、絶えず本を読みながら、どの本もよくわかることができます。少しページをめくってみて、あるいは少し読みかけてみて、考えてもわかりそうもない本は読まないことにするのが賢明でしょう。

 加藤氏の言葉でなければ、ふざけていると思われかねない内容です。いつもわかるためには、わかる本だけ読めと言っているのですから。

 わからないという場合には、大きく2つのケースがあります。
 ひとつは、そこで使われている「単語」がわからない場合。もうひとつは、その説明の「論理構造」が理解できない場合です。

 「単語」がわからない場合も2つのパターンがあります。
 そもそもその単語自体の意味を知らないパターンと、単語自体は知っていてもそれが、自分の思っている「意味」ではないパターンです。前者の場合は仕方ありません。後者の場合は、「自分としてのその単語の意味」をキチンと定義してもっておけば、それとの差を意識して少しでも理解が進むという可能性があります。

(p209より引用) なぜ、一冊の本が私にとってむずかしいかといえば、その理由は、つまるところ、私がその本を求めていない、べつの言葉でいえば、私にとって少なくとも、いまその本は必要でないという点に帰着するでしょう。要するに、私にとってむずかしい本は、その本が悪い本であるか、不必要な本であるか、どちらかです。

 多くの人にとって「むずかしい本」というのは、自分の能力不足のために理解できない場合がほとんどだと思います。
 加藤氏ほどの割り切りは私には無理です。

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新聞の読み方 (読書術(加藤 周一))

2006-03-15 01:01:50 | 本と雑誌

 この本は高校生向けということです。

(p169より引用) 活字を通して事実を求めようという態度で新聞を読むのと、活字であるから事実に違いないという前提で新聞を読むのとでは、読むほうの側の態度に大きな違いがあり、読むことによって得られる影響や、知識の性質や、その結果つくられる意見の質にも違いが出てくるだろうと思います。

 高校生のころに、メディアに接する場合の能動的な姿勢を身につけることはとても大事です。

(p158より引用) 新聞の性格には三つの大事な特徴があります。・・・事実を選び、その事実に「見出し」をつけ、古い事実を記憶しないということ、-こういうほとんどすべての新聞に共通な性格に対して、読者はどういう態度をとったら、世の中を知るために、またできるだけ公正な判断をその世の中に対してくだすために好都合だろうか、ということになります。

 加藤氏が示した新聞の特徴のうち始めの2つは、多くのメディアにも見られる一般的な特徴です。
 この「メディアの恣意性」に対抗する最も簡単な方法は、「同じ対象を扱った複数のメディアを比較する」ことです。A新聞とY新聞、新聞と雑誌、新聞とテレビ・・・、いろいろな比較が可能です。
 特に最近は、Blog等個人の情報発信が盛んになっています。(このBlogもそうですが、)そういうネットで飛び交う情報は「恣意的なもの」との前提で接するべきです。

 恣意的な情報はそれだけで「悪い」訳ではありません。
 ただ、人が発信する以上、「『その人』というフィルタ」を通るのですから、なんらかのバイアスがかかるっているのが当り前です。
 情報を扱う世界には「絶対的な中立性・客観性」は有り得ません。

 先の引用部分でいえば、「見出し」については、人は結構敏感で、それに踊らされるまいとの意識も持ちやすいと思います。が、「事実の選択」の方は厄介です。取り上げた記事(事実)以外に、日の目を見なかった事実としてどんなものがあったのかは知りようがないからです。

 「出来るだけ広範囲にわたる情報収集」と「ひとつの情報源のみを鵜呑みにしないクロスチェック(比較・対比)」とが、メディアに接する場合の基本動作です。

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おそ読み&はや読み (読書術(加藤 周一))

2006-03-14 00:24:47 | 本と雑誌

 現代の代表的知識人と言われている加藤周一氏が40歳台のころ高校生を対象にして書いた「読書」の入門書です。

(p62より引用) 「本をおそく読む法」は「本をはやく読む法」と切り離すことはできません。ある種類の本をおそく読むことが、ほかの種類の本をはやく読むための条件になります。また場合によっては、たくさんの本をはやく読むことが、おそく読まなければならない本を見つけだすために役立つこともあるでしょう。

 「おそく読む」のか「はやく読む」のかは、その本に書かれている内容の理解の程度が異なることではありません。

 本を読む場合、「おそく読む」ということが基本になります。「おそく読む」ことにより書かれている内容、即ち新しい単語や言葉づかい・論理展開等をキチンと理解することができるようになります。
 そうやって、多くの語彙・概念・論理等が身についていれば、新たな本を読んだときにも理解が早まる、したがって、結果的に「はやく読む」ことになるというわけです。
 加藤氏のいう「はやく読む法」というのは、テクニカルな速読術とは別のものです。

 そして、「はやく読む」ことにより多くの本に接すれば接するほど、新たな興味・次なる疑問が湧いてきます。その興味に惹かれて、その疑問を解くために、じっくり腰をすえて読まねばならないような本(おそく読む本)に向かうことになるのです。

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猪瀬さんと太田さん

2006-03-12 19:32:24 | 日記・エッセイ・コラム

 先週の週末、お付き合いのあるお客様向けの会社主催セミナーがあり、私もアテンド役で行ってきました。
 社外からは昼間の講演会で作家の猪瀬直樹さん、夜のアトラクションで歌手の太田裕美さんをお招きしました。

Inose  猪瀬さんの講演は、数ページの資料をもとに、いくつかの最近の民営化議論をテーマにしたものでした。マスコミ等への登場が非常に多い方ではありますが、軽薄な暴露話・裏話的な話はほとんどなく、分かりやすいきちんとしたお話をしていただきました。

 話は(やはり猪瀬さんですから)日本道路公団民営化議論を中心に、地方行政経費の問題・国有地解放の問題・空洞化する日本農業の問題等に関する内容でしたが、どれも具体的な数字をベースに、行政官庁の常識が一般常識からどれほど遊離した実態になっているのかを明瞭に絵解きしていただいた感じです。

 「何かをしようとしたときに、邪魔しているものが何かを考えると(問題点が)見えてくる」―― 民営化議論の視点としての猪瀬さんのメッセージでした。
(参加者に対して、3月9日に発売になったばかりの猪瀬さんの著書「この国のゆくえ」(猪瀬さんの直筆サイン入り)が配られたので、またおいおい読んで見ようを思います。)

Ota_hiromi  さて、夜は太田裕美さんです。
 今回参加のお客様の年齢層はもう少し高かったので、太田裕美さん全盛期とはちょっとずれていたようですが、それでも結構盛り上がっていました。
 私はといえば、彼女のデビューが1974年ですから、彼女の活躍時期が私の中学・高校・大学時代とばっちり重なっていて、かなり得した気分でした。

  • 赤いハイヒール
  • 九月の雨
  • ドール
  • 雨だれ
  • 君と歩いた青春 (作詞・作曲:伊勢正三)
  • さらばシベリア鉄道 (作曲:大瀧詠一)
  • 木綿のハンカチーフ 等々

とくると・・・(当時、特にファンというわけではなかったのですが、)最高ですね。
 太田裕美さん自身、おしゃべりの中で、ご自身のことを「パートタイムシンガー」とおっしゃっていましたが、素直な詩ときれいなメロディ、それに合ったアコースティックな歌声はやっぱりいいですね。

 彼女の曲のうちメジャーなものは、作詞:松本隆、作曲:筒美京平のコンビによるものが多かったと思います。が、それでも、あの当時から、吉田拓郎・伊勢正三・大瀧詠一・宇崎竜童等々、それなりのミュージシャンとコラボしていました。
(しかし、改めて思うに、私も「年」です・・・冷静に考えてみると、彼女はデビューしてもう30年以上・・・ですから)

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今、響く言葉 (自省録(マルクス・アウレリウス))

2006-03-11 19:01:15 | 本と雑誌

Marcus_aurelius_kiba_1  「自省録」は様々な思索を体系だった形で記したものではありません。宮廷であるいは従軍先で、いろいろな時・場所での彼の想い、彼自身との対話の集積です。
 その中には、深い瞑想の言葉もあれば、直情的な憤りの言葉もあります。

 私の感じたところでは、「自省録」には、「今」を大事にする言葉が多く見られます。たとえば、

(p129より引用) 目前の事柄、行動、信念、または意味されるところのものに注意を向けよ。
 君がそんな目に遭うのは当り前さ。君は今日善い人間になるよりも明日なろうというんだ。

 アウレリウス自身、過去の英雄・英傑が今どれだけその名をとどめているか、ほとんど忘れ去られているではないかと言い、また、今の名声がどれだけ将来に残るか、今称えている人もいなくなるではないかと言っています。
(ただ、彼自身の名声は2000年近くたった今でも称え続けられているのですが・・・)

 他方、「今」を大事に思うがゆえの辛辣な言葉もあります。

(p170より引用) 善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ。

 この本には、たくさんの「響く言葉」がありましたが、私が最も共鳴した言葉は次のフレーズでした。

(p102より引用) 人間各々の価値は、その人が熱心に追い求める対象の価値に等しい。

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割り切りの効用 (自省録(マルクス・アウレリウス))

2006-03-10 01:40:09 | 本と雑誌

 ストア哲学の特徴のひとつは、その実践倫理にあると言います。「我々の自由になることとならないこととの区別を強調する」のです。

 ちょっと長いのですが、この点を「自省録」巻末の解説から引用します。

(p223より引用) 人間の力はかぎられており、その道には越え難い障碍物があらわれる。したがって賢い人間は何事を志すにあたっても、かならず「ある制約の下に」のみこれを考慮する。すなわち、そのことが到達されうるものであるかぎりにおいてこれを目的とするのであって、到達されえぬものであった場合には、さっぱりとこれを諦め、そのためになんの幻滅も苦痛も覚えず、なんの障害も蒙らない。それのみかかえってこの障碍物を利用して徳を発揮する機会となし、またほかの目的に達するための足場になしうる場合も少なくないのである。

 実際の「自省録」の中にも、この考え方は多くの箇所に登場します。たとえば次のような言い様です。

(p204より引用) 悪人が悪いことをするのを承認しない者は、無花果の樹がその実に酸っぱい汁を賦与することや、赤坊が泣きわめくことや、馬がいななくことや、その他すべての必然的な事柄を承認せぬ者に似ている。こういう心の持ち方をしている以上こうなるほか仕方がないではないか。だからもしいらいらするなら、この態度を直せ。

 この実践倫理にその他のストア哲学の特徴である「コスモポリタニズム」が加わると以下のような箴言になります。

(p142より引用) 人類はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。

(p163より引用) もし彼がつまずいたら、親切に教えてやり、見誤った点を示してやれ。それができないなら、自分を責めよ、あるいは自分さえ責めるな。

 自己の力で動かしうるものと動かしえないものをきっぱりと峻別し、動かしえないものへの働きかけをやめるに全く躊躇しない態度は、時に安易な諦めや極端な割り切りにも思えます。

 自己の力(叡智・指導理念(ト・ヘーゲモニコン))の及ぶ範囲をどこまで広げられるか、どこまで高められるかで、その思想の真価が定まるのでしょう。

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