アン・ハサウェイが出演しているという理由で観た映画です。
しかし、このシナリオはどうでしょう・・・。
プロットは奇抜なのですが、それをストーリーで上手く活かしているわけではないので、結局のところ、違和感満載の “訳の分からない作品” になってしまったように思います。
いくら何でもありだとしても、最後の最後でのいきなりのネタばらしと無理やりの辻褄合わせというのは、いかにも乱暴ですね。
アン・ハサウェイが出演しているという理由で観た映画です。
しかし、このシナリオはどうでしょう・・・。
プロットは奇抜なのですが、それをストーリーで上手く活かしているわけではないので、結局のところ、違和感満載の “訳の分からない作品” になってしまったように思います。
いくら何でもありだとしても、最後の最後でのいきなりのネタばらしと無理やりの辻褄合わせというのは、いかにも乱暴ですね。
日本監査役協会のオンライン講義で著者の岡本浩一氏(東洋英和女学院大学教授)が「監査役のための組織風土講義」というテーマでお話しをされていました。
語り口も面白く興味深い内容でもあったので、何か1冊岡本氏の著書を読んでみようと手に取ったものです。
2004年出版なので少々古い本ですが、それでも近年の社会・企業等の実態を省みるに、いまだに当時の議論がかなりの程度機能していると再認識しました。
まず、議論の基本的概念の整理として、著者が示す「権威主義的人格」を説明しているところを書き出してみます。
(p124より引用) 権威主義的人格とは、社会的行動にあっては「権威主義」、問題解決行動にあっては、「反応の硬さ」、認知傾向にあっては、「あいまいさへの低耐性」という形で捉えられる複数モードのパーソナリティだと考えられる。
(p126より引用) 権威主義的人格とは、本来の善悪の判断を、教条、因習、ファシズム、反ユダヤ、自民族中心などに関連する判断と独善的に置き換えてしまい、独善的な善悪判断をする可能性のある人格のことである。
著者は、こういった権威主義的人格のリーダーやメンバーによって生起する「権威主義」の様々な特徴を列挙していくのですが、
(p159より引用) 権威主義的風土は、ある一定の段階を超えると加速するようになる。その加速の臨界点は、肯定的意思決定に属人思考を用い、否定的意思決定に形式主義が用いられる段階である。
といった指摘は、大いに首肯できますね。
さて、本書を読み通しての感想です。
著者の立論において、提示された「属人思考」「認知的複雑性」といったコンセプトがうまく読者の理解を助けているように思いました。
(p128より引用) 認知的複雑性の低い人は、複雑な情報を複雑なまま処理することが苦手であるため、教条や権威など単純で明瞭な概念によって自分の認知を割り切る傾向が強く出ることになるだろう。このように考えてくれば、認知的複雑性の低い人が社会に適応していくプロセスで権威主義的になりやすいのだと考えることには理があるように思われる。
といった説明はスッと腹に落ちますね。
本書が取り上げる「権威主義」は今の企業(組織)にも多かれ少なかれ存在しています。最後の「第7章 現代日本の権威主義」の章でも「仮面をかぶった権威主義」の項で列挙されている権威主義的現象として「成果主義」が挙げられていますが、昨今の「JOB型雇用」に係る短絡的な議論の進み方も同類でしょう。
ただ、ちょっと前の著作であるためか、本書で示されている企業実態のいくつかは、いつの時代のものだろうといった昭和感満載の例示も見られました。上司の引っ越しの手伝いをする部下、社員旅行への参加強要などは、今となっては、流石にちょっとノスタルジック過ぎますね。
記憶を無くするというプロットは映画ではよくありますが、この作品は実話に基づいたものとのことです。
殊更に何か感動的なシーンが織り込まれることもなく、結構、現実的な雰囲気で物語は展開されます。
キャスティング面でいえば、チャニング・テイタムは、朴訥で一途な役柄にマッチしていましたし、レイチェル・マクアダムスも記憶を失ったあとの自然な感情の起伏を上手く演じていたと思います。
ラストの二人の会話のシーンは、ほのぼのと心温まるやりとりでとても良かったですね。
レイチェル・マクアダムスは私の好きな女優さんのひとりなのです。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いたので手に取ってみました。
政界スキャンダルや新型コロナ禍対応等に係る国会対応で霞が関官僚の常軌を逸した労働実態が話題になっていますが、本書は、昨今の「中央官僚の実態と官僚機構の構造的課題」をレポートしたものです。
「NHK取材班」とあるので、ちょっと期待して読んでみたのですが、正直なところ、まったく期待外れでした。
対象を捉える「切り口」や取り上げられている「事実」にも何ら目新しいものはなく、記事そのものはといえば、“調査報道”に取り組むぞという気概はあるのかも知れませんが、その内容は到底そのレベルには達していません。
本書の「あとがき」で取材班デスクの大河内さんはこう記しています。
(p188より引用) その異常な働き方を改めて認識する一方、官僚たちを追い詰めているのは単に物理的な時間だけではないことも強く感じた。
それを解き明かそうと、私たちは官僚組織を構造的に理解しようと心がけた。取材も働き方にとどまらず、具体的な業務内容や霞が関独特の文化にまで広げていった。それは各省庁を縦割りにではなく横断的にみることで、そこに内在する普遍的な問題点を抽出したいと思ったからだ。
しかし、この言に反して、正直、本書の取材レベルはとてもプアです。取材対象とのメールでのやりとりや簡単なインタビューで得た表面的な情報を並べているだけです。
プロの記者として、取材者らしく独自で動いて、事実の背景や根本原因をこれでもかと深掘りしようと苦闘した跡が認められません。「前例文化」「紙文化」が問題というのなら、もっと具体的に、どうしてそういう文化が払拭されないのか、とはいえ改革にチャレンジした動き、たとえば「前例を破った」とか「ペーパレス化した」とかの実例はなかったのか、それは今どうなっているのか、頓挫したのならその原因は何か等々、いくらでも深掘りする材料はあるはずです。
霞が関の人事制度を取り上げた項の「締め」はこういったものでした。
(p131より引用) この職員が最後につぶやいたことばが印象的でした。
「一職員がこんなことを考えていても、霞が関の組織はなかなか変えられないのです。今のシステムで偉くなった幹部に改革の必要性を理解してもらうのが難しいし、私自身も2年で異動していきますから・・・。」
こうした人事制度の問題、いつまでも放置できないと思います。皆さんの身の回りではどうですか。人事の仕組みに疑問はありませんか?
素人が失礼な物言いで申し訳ないのですが、いくら何でもこれではダメでしょう。
人事制度に問題があるのなら、何がその本質的な原因なのですか? 役所は具体的にどうすべきなのでしょう? そのためにはどんな課題があって、それに対して、国民や政治家といったステークホルダーたちはどうすべきなのですか? さらに、あなた自身はマスコミの立場としてどうしようと思っているのですか?
それを記者自身で明らかにしようとせず、こんな感想と問いかけを読者につぶやかれても・・・、まるで“他人事”ですね。
ベストセラー新書です。
いつも聞いているピーター・バラカンさんのpodcast番組にも著者の斎藤幸平さんが登場して、本書での主張のポイントをお話ししていました。経済と環境問題とを関連付けた議論の視点は、宇沢弘文さんを想起させます。(本文中でも宇沢さんの主張に言及していました)
さて、本書で力説されている斎藤さんの主張ですが、まず基本的な課題認識はこういうものです。
(p31より引用) 資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる掠奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす。
そして、そのような社会システムが、無限の経済成長を目指せば、地球環境が危機的状況に陥るのは、いわば当然の帰結なのである。
そして、この“地球環境の危機”への対応としては、「技術革新」がその解決策を提示するという「加速主義」「エコ近代主義」に代表されるような楽観的な考え方があります。こういった考えを“閉鎖的技術”であると否定したうえで、さらに斎藤さんは「技術の意味づけ」をこう指摘しています。
(p228より引用) さらに、技術の問題は根深い。世間を見渡せば、新技術の発明が、想像もしなかった素晴らしい未来を作り出すかのように、まことしやかに囁かれている。・・・
だが、エコ近代主義のジオエンジニアリングやNETといった一見すると華々しく見える技術が約束するのは、私たちが今までどおり化石燃料を燃やす生活を続ける未来である。こうした夢の技術の華々しさは、まさにその今までどおり (status quo) の継続こそが不合理だという真の問題を隠蔽してしまう。ここでは、技術自体が現存システムの不合理さを隠すイデオロギーになっているのである。
別の言い方をすれば、この危機を前にして、まったく別のライフスタイルを生み出し、脱炭素社会を作り出す可能性を、技術は抑圧し、排除してしまうのだ。
“技術が想像力を奪う”というのです。
さて、現下の世界において最大の課題である「脱炭素社会」を作り出す動きは、地方自治体レベルで芽生えつつあります。
2020年1月にバルセロナで発表された「気候非常事態宣言」は、具体的な行動計画も列挙されたマニュフェストです。そこには「経済モデルの変革」と題して、こう記されています。
(p330より引用) 既存の経済モデルは、恒常的な成長と利潤獲得のための終わりなき競争に基づくもので、自然資源の消費は増え続けていく。こうして、地球の生態学的バランスを危機に陥れているこの経済システムは、同時に、経済格差も著しく拡大させている。豊かな国の、とりわけ最富裕層による過剰な消費に、グローバルな環境危機、特に気候危機のほとんどの原因があるのは、間違いない。
そこで、書き留めておくべき本書での大切な気づき。政治経済学者ケイト・ラワースの指摘です。
(p106より引用) ラワースによれば、仮に資源やエネルギー消費がより多く必要になるとしても、公正を実現するための追加的な負荷は、一般に想定されるよりもずっと低いという。
例えば、食料についていえば、今の総供給カロリーを1%増やすだけで、8億5000万人の飢餓を救うことができる。現在、電力が利用できないでいる人口は13億人いるといわれているが、彼らに電力を供給しても、二酸化炭素排出量は1%増加するだけだ。そして、一日1.25ドル以下で暮らす14億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%を再分配すれば足りるというのである。・・・
こうした議論が示唆するように、南北のあいだの激しい格差という不公正は、経済成長にしがみついて、これ以上の環境破壊をしなくとも、ある程度は是正できるのである。
いわゆる裕福な先進国(の富裕層)がちょっと我慢すれば、多くの発展途上国の貧困層の人々の生活水準を大きく改善させることができるということです。これはとても重要な事実だと思います。
そして、最後にもう一点。
(p107より引用) もうひとつ重要なラワースの指摘は、あるレベルを超えると、経済成長と人々の生活の向上に明確な相関関係が見られなくなるという点だ。経済成長だけが社会の繁栄をもたらすという前提は、一定の経済水準を超えると、それほどはっきりとはしないのである。・・・
要するに、生産や分配をどのように組織し、社会的リソースをどのように配置するかで、社会の繁栄は大きく変わる。いくら経済成長しても、その成果を一部の人々が独占し、再分配を行わないなら、大勢の人々は潜在能力を実現できず、不幸になっていく。
このことは、逆にいえば、経済成長しなくても、既存のリソースをうまく分配さえできれば、社会は今以上に繁栄できる可能性があるということでもある。
この指摘にも希望が見えますね。
さて、本書を読み通しての感想ですが、流石に大いに話題になった著作だけあって、斎藤さんが発した“脱成長コミュニズムを目指す”というメッセージはとても刺激的なものでした。あとは、「おわりに」での訴え、“3.5%”ですね。
大いに話題になった長編小説が原作です。
ピアノコンサートを舞台にしたシンプルなプロットの作品で、穏やかトーンの物語がいいテンポで進んでいきます。
キャスティングもよかったですね。主役の松岡茉優さんの自然体の演技をはじめとして、共演の森崎ウィンさん、新人の鈴鹿央士さんもそれぞれの役柄にとてもよくマッチしていました。
あとは、ベテランの脇役陣。斉藤由貴さんはもちろん、鹿賀丈史さんの大御所としての存在感と時折見せる優しさ、そして主人公の過去と現在をつなぐ平田満さんの立ち位置もホッとさせてくれますね。
映画ではかなりのウェイトをピアノ演奏のシーンが占めていたのですが、このあたり原作の小説ではどう表現していたのでしょう。機会があれば原作も読んでみたいと思います。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけました。
著者の田中優子さんは元法政大学学長で江戸文化の専門家です。田中さん関係では、以前、松岡正剛氏との対談集「日本問答」という本を読んだことがあるのですが、その博識さとキレのある語り口が強く印象に残っています。
本書のテーマは「遊郭」。
落語ではよく登場する場所ですが、その実際については全く知りません。私にとっては、本書で初めて聞き知ったことばかりだったのですが、その中から特に印象に残ったところをいくつか書き留めておきます。
まずは、「遊郭」の位置づけ。もちろん「廓」として女性(遊女)の人権や健康を害する場ではありましたが、その他、別の面も有していました。
(p7より引用) 遊廓は日本文化の集積地でした。書、和歌、俳諧、三味線、唄、踊り、琴、茶の湯、生け花、漢詩、着物、日本髪、櫛かんざし、香、草履や駒下駄、年中行事の実施、日本料理、日本酒、日本語の文章による巻紙の手紙の文化、そして遊廓言葉の創出など、平安時代以来続いてきた日本文化を新たに、いくぶんか極端に様式化した空間だ、と言えるでしょう。
さて、江戸期に作られた遊郭ですが、明治以降も幕府に替わり政府公認の遊郭は引き続き存在し続けました。そこでの遊女の人権問題は、当時の「不平等条約撤廃交渉」においても関係していたそうです。
(p139より引用) マリア・ルス号事件を契機にして、明治政府は、現在の私たちの政府とは比べ物にならないくらい速度ある対応をとります。同事件が決着するや否や政府は、一八七二(明治五)年、遊女および同様の労務契約によって拘束されている者の「一切解放と身代金即時解消」を命じたのです。これを芸娼妓解放令と言います。
むろん、これは外交手段です。不平等条約を回避するために明治政府がおこなっているさまざまな、西欧諸国へのポーズのひとつでした。なぜなら、実態はその後もほとんど変わらなかったからです。
その後、「貸座敷渡世規則等の制定」「近代公娼制度の成立」等、仕組みは変化しながらも遊郭類似社会は存続しました。
さて、本書ですが、「遊郭」をテーマに、その歴史や遊女たちの暮らしぶり等、さまざまな事実・実態・エピソードが盛りだくさん。そのほとんどが知らないことだったので、大いに刺激になりました。興味を抱いた事柄に関する知識をサクッと概観できる本はとてもありがたいですね。
とはいえ、本書が目指したものは、そういった“文化としての遊郭社会”の啓蒙だけではありません。
遊郭社会の背後に通底する「ジェンダー差別」や「家族制度」に関する問題。それらは、コロナ禍の今なお現代的課題として残存している。その状況を何とかして解決したい、著者が本書をもって訴えているメッセージです。
タイムトラベルものですが、かなりファンタジー色の強い作品ですね。
「やりたいことをやりなさい」、場違いとも思えるようなプロットから、この作品が伝えるメッセージです。
主人公を演じた綾瀬はるかさんは、地のままのキャラクタを活かして素直ないい雰囲気を醸し出していました。
あと、印象に残ったのは、近藤正臣さん。最初に登場したときには、まったく誰か分からなかったのですが、よく見るとそうでしたね。こういった老け役を演じるようになったのかとちょっとびっくりしました。
観終わって、なんだか不思議な満足感を感じる変わったテイストの作品でした。