2025年11月18日をもってgoo blogがサービス終了するとのこと。
2014年9月13日に「OCNブログ人」の終了により引っ越してきて、10年以上お世話になりました。
今後このBlogは、4月18日より、「はてなブログ」( https://norio0923.hatenablog.com/ )に移行して続けていきます。
引き続きよろしくお願いいたします。
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日本経済新聞の書籍紹介の欄で書評家の東えりかさんが取り上げていました。
前野ウルド浩太郎さんの著作は初めてです。本書は、7年前に出版し新書大賞を受賞した「バッタを倒しにアフリカへ」の続編とのこと、エネルギッシュなタイトルも刺激的です。
期待どおりインパクトのあるエピソードが数多く紹介されていましたが、その中でも特に印象に残ったところをいくつか書き留めておきます。
まずは、「論文作成の現実」についてです。
学術論文では当然なのでしょうが、記述内容はどんなに些細なことであってもすべて実際に確認されていなくてはならないという “探求への真摯さの程度” には改めて驚かされました。「卵母細胞は毎日、徐々に大きくなる」「メスは自力でオスを蹴っ飛ばすのに苦労する」といった一行にも満たない記述の裏には、解剖や実験にもとづく測定数値があり、それを得るために多大な時間と労力を費やしているのです。
このあたり前野さんはユーモアたっぷりに紹介していますが、現実の作業は、相手が「生き物」だけに想像以上に厳しいものだったでしょう。
こういった前野さんの研究に向かう真摯な姿勢は、念願の論文掲載後、研究者たちからの反応を期待する姿にも表れていました。
(p537より引用) また、学会やセミナーなどで研究を紹介すると、色んな質問を頂戴できるようになった。論文を発表するだけではいけないのだ。もっと自分から話しかけていかなければ孤独感は拭い去れない。自分が行動しなければ、自分を満足させることはできない。私は甘えていただけだった。
自分の研究を多くの人たちからの声を受けて磨き上げ、さらに高みにある次なる未知を解明していこうという前向きな情熱は素晴らしいものです。
しかし、本書を読んで最も感じ入ったところですが、前野さんの読者を楽しませるテクニックはかなりのものですね。
話のテンポの絶妙さやユーモアの挟みどころも見事ですし、さらには、特定年齢層のマニア(オタク?)向けに「特級呪物」「ガンダムRX78-2」といったアニメやコミックの小ネタをあちこちに埋め込む遊び心もなんとも心憎い演出だと思います。
まったく研究者にしておくには何とも惜しい逸材ですね。
かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始めました。
この作品は「第42作目」です。今回の舞台は “奈良”。
奈良は、仕事関係で出張に行ったことはなかったと思いますが、遥か昔の修学旅行やプライベートでの旅行では、大仏、興福寺、春日大社、唐招提寺や斑鳩あたりにも訪れています。またゆっくり散策してみたい町ですね。
ミステリー小説ですからネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品、いつもの浅見光彦シリーズの展開や幕引きとは一味違っているように感じました。ひとつの事件を取り巻く絡まった糸がかなり後半に至るまで引っ張られ、その後、急転直下で謎解きに向かうのですが、エンディングは今ひとつすっきりしない・・・。
もちろん、好みの問題でもありますし、そういった作り自体を否定するものではありません。これだけの作品を重ねているシリーズなので、いろいろなパターンがあるのは当然ですし、マンネリよりはむしろ多様な姿は望ましいことなのでしょう。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら” です。
次は、43作目の「「紅藍の女」殺人事件」ですね。
いつも聴いている大竹まことさんのpodcast番組に著者の東畑開人さんがゲスト出演していて紹介していた本です。
臨床心理士として、メンタルの悩みを抱える本人はもとより、突然にそういった身近な人のケアをし始めた人たちのカウンセリングに携わっている東畑さんの話はとても興味深い内容なのですが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきます。
まずは、東畑さんが語る「こころのケア」の話に登場する基本概念、「ケア」と「セラピー」についてです。
ケアとは何か?
・ケアとは傷つけないことである
・ケアとはニーズを満たすことである
・ケアとは依存を引き受けることである
では、セラピーとは何か?
・傷つきと向き合うのがセラピー
・セラピーとはニーズを変更することである
・セラピーとは自立を促すことである
そして、ケアとセラピーとの関係は?
・ケアが先で、セラピーが後
・ケアがないところでのセラピーは暴力になる
(p58より引用) ひたすら自分と向き合え、あなたが頑張れと言われると、死んじゃうよね。
セラピーは、ケアが十分に足りているときにのみ可能になります。
傷だらけのときに、傷つきと向き合えと言われたならば、身動き取れなくなります。
この順序性と塩梅が重要で、このプロセスを経ることで “信頼” や “安心感” が醸成されるのです。
そして、ケアのあとセラピーで一歩進んだら、またケアが登場します。このスパイラルでこころが回復していくのだと言い、昨今のセラピー偏重を生む “自己責任論” に対し「ケア」の重要性を東畑さんは強調するのです。
ふたつめ、東畑さんは、こころのケアの方法として「きく」と「おせっかい」を挙げています。
そのうちの「おせっかい」についての勘所です。
(p214より引用) ①ニーズを満たすのが助かるおせっかい、ニーズ以外のものを押し付けるのは余計なお世話。
② 環境を変えるのが助かるおせっかい、本人を変えようとするのは余計なお世話。
おせっかいにはこの二つの軸がある。
こころのケアに入る前に「即物的なおせっかい(環境整備)」が必要だということです。それなしでは “心のケアを受け入れる状態” に至らず、むしろ “きこう(聞こう・聴こう)とすることが、かえって相手を傷つける” ことになってしまうのです。
さらにもうひとつ、「ケアしている自分をケアする技術」について。
「贅沢」「勉強」「休養」「友達」と続いて、最後に東畑さんが挙げたのが「ふりかえり」です。自分がやっているケアをふりかえること、その結果 “よくなっていることを認識できればいい” のですが、その感覚の実際について東畑さんはこうコメントしています。
(p306より引用) よくなっているところ「も」ある。
この「も」が本当に本当に貴重だと思うんですよ。・・・
もちろん、無理にポジティブになる必要はありません。
ケアとはネガティブなものと向き合うことなのだから、変にポジティブに解釈することは相手を否定することだし、自分に嘘をつくことになってしまう。これは有害です。
でも、晴れ間が覗いた時間があったこと「も」事実なんですね。そういう現実は現実として、きちんと評価し、受け取るべきだと思うんです。
「完璧」は目指しません。この「・・・も」という僅かな晴れ間がとても大切な励ましになるんですね。
さて、とても多くの気づきが得られた本書ですが、読み通して、最も心に残ったくだりを最後に記しておきましょう。
(p310より引用) こころのケアとは、ケアする人が傷ついてしまう営みでもあり、同時に癒される営みでもある。
傷ついているこころにかかわる。そのとき、ケアする人はときに傷つけられます。
傷は傷を呼ぶ。
なぜなら、傷つけることを通じてしか、自分の痛みを伝えることができないときがあるからです。
こういった「傷つけあい」を経て、“わからない” から “わかる” 関係に至り、結果、生まれた信頼や安心感が「ケア」の本質のように思いました。
このところ気分転換に読んでいるミステリー小説は、読破にチャレンジしている内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”に偏っているのですが、時折、以前よく読んでいた大沢在昌さんの作品の中から未読作にもトライしています。
先日、“狩人シリーズ” の現時点での最新作「冬の狩人」を読んでみて結構面白かったので、今度はこのシリーズにも手を伸ばしてみようと思いました。
というわけで、まずはシリーズ第1作目 “北の狩人” 、第2作目 “砂の狩人” を読み終わり、今度は第3作目の本作という次第です。
エンターテインメント作品なのでネタバレになるとまずいでしょうから内容には触れませんが、この作品も十分楽しめました。
物語の展開という点では、かなりの部分まで多くの登場人物が次々と起こるエピソードに絡んできて、正直 “ごちゃごちゃ”し過ぎている感じがしましたが、それらを一気に収束させた最後の見せ場の作り方は流石ですね。それも主人公のキャラクタ設定の秀逸さの賜物です。
あとは、大沢さんお得意の物語のカギを握る “特別ゲスト” 。この作品でも面白い役柄設定が冴えていましたし、主人公との人間関係のあやも読みどころでしたね。まあ、ラストシーンについては、いろいろと評価がわかれるところかもしれませんが・・・。
さて、本作で3作目、シリーズ化されているとそろそろマンネリ感が出t来てもおかしくないのですが、この調子なら、次の “雨の狩人” にも突入ですね。
いつも利用している図書館の書架をつらつらと眺めていて目につきました。
私も世の中的にいえば “老人” と呼ばれる年代に突入してしまったので、タイトルにも親近感を抱きますね。
著者の下重暁子さんは、NHKのアナウンサーとして活躍後フリーとなり、現在では文筆家として多彩なジャンルの作品を世に送り出しています。
本書は、そんな下重さんの得意なテーマのひとつである “高齢化社会” を扱ったエッセイで、“明日は我が身” だからというノリもあって読んでみました。
で、結果ですが、正直なところ、かなり期待外れでしたね。
“私は、他の人たちとは考え方が違うんだという思い込み” が、強烈な自己主張という形でちょっと表に立ち過ぎていたようです。
エッセイなら、著者ならではの “感性” が、とりあげたモチーフの捉え方のオリジナリティとともに伝わってくるのですが、そういったテイストの小文でもなく、時事評論なら、しっかりと事実把握を行ったうえで、自分だけの脊髄反射的な感覚ではなくもう少し多面的な観点から掘り下げた論考を展開するべきでしょうが、そういった深みも感じられません。
(p193より引用) 家庭内のことだから、詳しい事情はわからない。あくまで一般論だが、私は親を殺す子供も、子供を殺す親も、基本は同じだと思う。どちらも社会性が極端に欠如している。
といったコメントは、個別かつ複雑な人間関係が背景にあるセンシティヴな要因を「あくまで一般論」と断りつつも乱暴に捨象していますし、「身勝手な殺人者には生涯強制労働を」とか「親は引きこもりの子供を放り出せ」といった見出しは、下重さんが付けたものではなく編集者による勇み足なのかもしれませんが、あまりにも短絡的な書きぶりです。
これでは、歳を重ねた下重さんの日頃の愚痴を単に語り放っただけの本だと評さざるを得ませんね。とても残念です。