OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

失敗と学習 (ビジョナリー・ピープル(ジェリー・ポラス他))

2007-06-30 14:42:20 | 本と雑誌

U2  この種の多くの本で共通して説かれていて、やはり本書でも指摘されている点をいくつかご紹介します。

 まずは、「失敗」について。

 本書では、「敗者はそれを失敗だと言い、勝者はそれを学習だと言う」という項で、何人かのインタビューをもとに「失敗の効用」に触れています。

 たとえば、グラミー賞受賞者クインシー・ジョーンズ氏の台詞です。

(p209より引用) 「困ったもんだ。もちろん、いまさらという話だ。自分のおかしたどんな失敗からでも何かを学びとれるはずだ。でも、君が最後に、その忠告を実際の行動に移したのはいつのことだ

 この言葉は、「失敗が学習であること」を当然の前提として、実際それを「実行」したかを鋭く突いたものです。

 もうひとり、アメリカ・インターネット界のオピニオンリーダー、エスター・ダイソン女史の言葉です。

(p211より引用) 「取り込む価値のあることならどんなことでも、それによって人は試行錯誤の連鎖の中に巻き込まれてしまうものだ。だからもがきながらさまざまなことを学ぼう。ミスをおかすときは、経験したことのないミスをすることを心がけようではないか

 本書で紹介されている人々は、失敗したときの再起動にも前向きの姿勢を示します。
 その際にもやはり大切なのは「意義」を意識することです。

(p200より引用) ビジョナリーな人が凡人と違うのは、後ろ向きの感情から建設的な行動へとすばやく方向を変える思考スタイルを確立しているからだ。つまり、自分の再起をどのように考えるかではなく、最終的に何をすべきかを決断しようとする、そんな思考スタイルのことだ。

 「失敗の意義」に加えて、最近の本でよく登場するのが、「セレンディピティ(思いがけない幸運)」という言葉です。

 ちなみに、この単語は、1754年、「セレンディップ(Serendip)の三人の王子」という物語に出てくる逸話をもとにイギリスの作家ウォルポール(イギリス首相R.ウォルポールの息子)が作り出した「造語」だそうです。

 「セレンディピティ」については、このBlogでも芳沢光雄氏の「数学的思考法」や池谷裕二氏の「進化しすぎた脳」で紹介しました。
 本書でも、やはり同じような趣旨のフレーズがありました。

(p282より引用) 思いがけない幸運というものは、次のような人のところにやってくる。つまり、自分に与えられた課題に打ち込みながら、同時に、自分の目標にとって本当に大切なことを達成する針路を維持しているかどうかを判断するための、現実的な検証に踏み出す勇気がある、そんな人だ。・・・
自分の価値観に生き、神経を鋭敏にすることによって、彼らは、日常の生活、仕事の場面で経験する、避けられない、予見できない、しかも困難な出来事の絶え間なく続く流れを、幸運のほうへと転換できるのだ。

 偶然は必然だということです。

 今やるべきことに一生懸命に取り組むこと。やはり、それが成功への「王道」のようです。

(p188より引用) ある仕事をこなす優秀な存在になれば、幸運の扉は目の前で開いてくれる。人はあなたと一緒に働きたいと思う。だから彼らがあなたのためにチャンスを用意してくれる。あなたのほうから彼らを探す必要はない。というのも、たいていは彼らのほうからあなたを見つけにやってくるから

 ゴードン&ベティ・ムーア財団のエド・ペンフォートの言です。

ビジョナリー・ピープル ビジョナリー・ピープル
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2007-04-07

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何をするか (ビジョナリー・ピープル(ジェリー・ポラス他))

2007-06-29 00:32:42 | 本と雑誌

Mandela  「ビジョナリー・カンパニー」の著者が書いた「ビジョナリー・人物版」です。

 10年間200人以上の「継続的に成功をおさめている人」に対するインタビューをもとに、それらの人々の共通項を明らかにした著作です。
(超有名人もいれば、日本ではあまり馴染みのない人もいます)

 著者によると、その継続的な成功の鍵の「共通項」は、「意義」「思考」「行動」の3つの要素でまとめられると言います。

(p42より引用) ビジョナリー・ピープルの本質を探求する過程で、言い換えれば永続するだけの価値を持つ成功を探求する過程で、筆者は次のようなことを発見した。三つの要素、すなわち自分なりに定義した意義、創造力のある思考スタイル、そして効果的な行動スタイル、これらの三つの要素は、三者相互の調和がとれたときに、自分の足元を固める礎となり、ベストプラクティス(成功体験)を持続させてくれる、そうした事実の発見だった。

  特にその分析の中で抽出された彼らの際立った特性は、「自らのビジョンに向かって突き進む」という姿勢です。

(p342より引用) 成功をおさめている人は自分の目標、大義、あるいは天職を追い求めるときに他人の同意をあてにはしないという事実が改めて確認された、ということであった。成功している人たちは社会的な重圧があるからではなく、社会的な重圧に逆らっても自らの責任をまっとうする。彼らは他人が気に入っていることよりも、自分が大好きなことに必死に打ち込んでいる。たった一度の挫折によって自分を見失ったり拘泥したりすることはない。スケープゴートを探すこともなければ、思うようにことが運ばないときに非難がましいことを口にすることもない。

 本書で言う「意義」とは、「自分が信念と情熱をもって追求する対象」であり、「自己の価値観が具現化されたもの」のように思います。
 「自分がなすべきこと」です。

 当然ですが、「何をするのか」が最も重要なことです。

(p174より引用) カリスマ性のあるリーダーという考え方は、最近、メディアの間で評判が悪い。・・・個性によって、永続的な成功がおさめられるかどうかが決まるのではないからだ。重要なことは、その大切な個性を糧にして何をするのかということだ。

 本書で紹介されている人々は、必ずしもいわゆる「カリスマ」とは限りません。(歴代の大統領や伝説の経営者も数多く登場していますが・・・)
 共通項は、「永続的」な「成功」をおさめている人々です。

(p207より引用) 完璧主義と持続性・・・両方の特質とも必要なもので、同時に、立派な成果を上げている人たちが懸命に求める高潔なあこがれでもある。不屈の努力がなければ多くのことをなし遂げられないのも真実だ。・・・
 ここで大切なのは完璧さでもなければ、持続性でもない。答えは明らかに、(持続させるべきものは何か)ということだ。意義を理解し、自分の挫折のポイントから学習することに意識を集中すれば、そのときには成長が待っている。

 ともかく、「何をするか」です。

ビジョナリー・ピープル ビジョナリー・ピープル
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2007-04-07

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知の休日-退屈な時間をどう遊ぶか (五木 寛之)

2007-06-28 00:46:58 | 本と雑誌

Ohhara_bijyutsukan  今から10年ぐらい前の五木寛之氏のエッセイです。

 五木氏流の「休日の過ごし方」を、本と遊ぶ、アートと遊ぶ、車と遊ぶ、体と遊ぶ…といった8つのテーマごとに紹介しています。五木氏のエッセイの中でもかなり軽めです。

 さて、内容ですが、「アートと遊ぶ」の章で「一流の絵画との接し方」について語られていました。
 五木氏が薦める秘訣は「夢中になること」です。

(p94より引用) 展覧会や画廊での時間を無駄にすごさない秘訣は、自分の大好きな「この一点」という作品を探しだし、それに夢中になることである。・・・
 いろいろ玄人じみた批評をしたり、芸術の高みに魂を遊ばせたりするのも結構だが、まず大切なのはドキドキすることである。退屈していては、はじまらない。まず好きになることだ。気持ちを集中することだ。好きになるためには、とりあえず数を絞ることである。

 私は、美術に造詣が深いわけでも何でもないのですが、美術館は結構好きです。(とはいえ、ここ数年はほとんど訪れてはいないのですが・・・)

 はるか昔学生時代、長期の休みで帰省した際に、倉敷の「大原美術館」には時折足を運んでいました。実家から車で1時間とはかからない距離にあったので手頃だったのです。人でごった返しているようなこともなく、いつもゆったりと回ることができました。常設展示でも美術の教科書に載っているような作品がいくつもあって、ミーハーな私としては納得感はかなりありました。

 ミーハーといえば、20年ほど前プラド美術館を訪れたとき、ベラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」は確かに印象的でした。

 最近でもその手の有名な作品に接する機会は「特別展」という形で数多くあります。開催される度にいつも気にはなっています。ただ、長蛇の列を思い浮かべるとついつい足が遠のいてしまうのです。

 あと、本書で印象に残ったフレーズです。

 休日の遊びとして「飲料水の銘柄あて」が紹介されているくだりです。

(p191より引用) 人間の感覚を鋭敏にすることは、とても大事なことだ。私たちは近代的な暮しの中で自分の本能や感覚というものを、いつの間にか眠らせ、役に立たなくしてしまっている。水を味わう。そのひとつのことだけでも徹底的にやれば、休日の午後は結構たのしくすごせるものである。

 そういえば、意識して「五感を働かせる」ということはやっていないですね。
 五感を通して刺激を受けるような機会を、できるだけたくさん作りたいものです。

知の休日―退屈な時間をどう遊ぶか 知の休日―退屈な時間をどう遊ぶか
価格:¥ 672(税込)
発売日:1999-11

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個人的な愛国心 (日垣 隆)

2007-06-24 13:29:01 | 本と雑誌

 日垣氏の本は、初めて読んだ「知的ストレッチ入門」に続いて2冊目。
 この本も「ふとっちょパパ」さんが紹介されています。

 本書は「日刊ゲンダイ」や「北海道新聞」などの連載記事がもとになっているとのこと、日垣氏一流の厳しい攻め口で「時事問題」を抉っていきます。
 こういった連載物は、種々のテーマごとに、限られたボリュームの中で鋭く本質を突く主張を開陳しなくてはなりません。
 日垣氏の筆のテンポは、これに見事にマッチしているようです。

 たとえば、「公共」という概念について。

(p79より引用) 公共概念の正体は、明らかに権力である。もとより近代国家の憲法は、国民を制御するために制定されるのではない。日本国憲法も、権力諸機関に手かせ足かせを嵌めることを目的に制定された。

 おっしゃるとおり、「公共」は市民側がもつpowerでしょう。

 日垣氏は、「自分で判断すること」の範を自ら示し、それを広く薦めています。
 現実の社会を見渡すと、あまりにも根拠のない虚言が、まことしやかにメディアで増幅され拡散しているとの思いがあるようです。それゆえか、氏の筆は、時折、少々過激な言い様になることもあります。
 が、氏の考えの幹は、冷静に事実や実態を把握したうえでの穏当な判断に支えられているように思います。

 氏の思いのほか現実的な姿勢は、「極端(デジタル)」ではなく「中庸(アナログ)」の意義を認めます。

(p91より引用) 無責任な「何でも反対」派が、いつもこうして対極案をそのままスルーさせてきた。・・・ゼロか百かの議論では、一から九九は無視され、結局のところ「ゼロ」派が「百」派を援助してしまうのである。

 日垣氏のもう一面、気概のフレーズです。

(p188より引用) マスコミなき時代から、この問題-悪法も法なのか-は、すこぶる重要なテーマであり続けてきた。・・・ソクラテスは、悪法も法なり、との思想を自ら実践したことになっている。・・・
 しかし、ソクラテスは扇動者や権力に従順だったわけでは断じてない。悪法も法として遵守しながらも、悪法であることを明言し続けた。私も愚鈍なソクラテスでありたい。

個人的な愛国心 個人的な愛国心
価格:¥ 720(税込)
発売日:2007-01

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14歳からの哲学-考えるための教科書 (池田 晶子)

2007-06-23 16:59:22 | 本と雑誌

Descartes_2  著者の哲学者池田晶子氏は1960年生れ。ほぼ私と同年代です。(今年(2007年)2月に、若くしてお亡くなりになりました)

 本書は、タイトルにあるように中学生(14歳)を意識して、「自分で考える」ということを哲学的なアプローチで説いているものです。

(p43より引用) 「わからない」と感じることを、どこまでも考えてゆくようにして下さい。「わからない」ということは、答えではなくて、問いなのです。

 また、こうも言っています。

(p80より引用) 考えるということは、多くの人が当たり前と思って認めている前提についてこそ考えることなのだと、君はそろそろわかってきているね。

 本書は、一貫して「自分で考える」ことを薦めています。
 「自分で考える」ことを前提とした「哲学書への接し方」についての著者の考えです。

(p207より引用) 君が求めているのは、「考えて、知る」ことであって、「読んで、覚える」ことではないからです。自分で考えて知るために、他人の本を読んで覚える必要はありません。・・・でも、そんな仕方で哲学の本を読んで、考えたつもりになってしまうことが多いので、あれらの本を読むのは、自分で考えるとはどのようにしてなのか、なんとなくでもわかってからの方がいいかもしれません。そうして考えながら読んでみるなら、あんなに面白い読書はありませんよ。

 さて、この本、第1章は、「自分が、思う」で始まっています。そして、「自分が思う=自分で考える」ということを縷々説明し、最終章で「自分がある」に至っています。
 まさに、デカルトの「cogito ergo sum.:コギト・エルゴ・スム(=ワレ惟ウ、故ニワレ在リ)」を説いているのでしょうか?
 私には哲学的な素養がないので、よくわかりませんが・・・

 よくわからないと言えば、本書の内容です。
 丁寧に説明はしてくれているのですが、それこそ、ゆっくりきちんと考えながら読まなくては太刀打ちできません。

 あとがきの「14歳以上の人へ」にもこうありました。

(p208より引用) 対象はいちおう14歳の人、語り口もそのように工夫しましたが、内容的なレベルは少しも落としていません。落とせるはずがありません。なぜなら、ともに考えようとしているのは、万人もしくは人類に共通の「存在の謎」だからです。

14歳からの哲学―考えるための教科書 14歳からの哲学―考えるための教科書
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2003-03-20

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福沢諭吉 国を支えて国を頼らず (北 康利)

2007-06-22 00:12:05 | 本と雑誌

Fukuzawa_1  福沢諭吉の本は、今までも、諭吉自身による「福翁自伝」「学問のすゝめ」などを読んでいます。

 今回は、北康利氏による「福沢諭吉伝」です。
 福沢諭吉の生涯を、誰にも分りやすく、平易な文体で丁寧に紹介していきます。

 従来からよく言われていたことですが、諭吉が「封建制度」を敵視し「平等」な社会を希求した最大の動機は、諭吉が物心もつかないころに亡くなった父百助の不遇にあったとされています。儒学者でもあった百助は、相応の業績を残しながらも身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去ったのです。

(p27より引用) 〈・・・私のために門閥制度は親の敵で御座る〉
 最晩年に著した自伝(『福翁自伝』)のこのくだりは、まさに彼の血涙でつづられている。亡き父親への哀惜の念は、赤くむけた擦り傷に水が沁みるように長くひりひりと痛み続け、「門閥制度」の萌芽さえも「親の敵」として摘み取ろうとする原動力となっていった。

 著者は、豊富なエピソードをもとに多面的に諭吉像を描いていきます。
 その中での「諭吉の評価」のひとつです

(p169より引用) 何より諭吉には、すばやく本質を見抜く力が備わっていた。
 たとえば、自由主義を紹介する際も、自由というものは、社会に対する義務や貢献(不自由)を伴うものだということを明確に指摘し、そこをはっきりさせなければ自分勝手主義に堕してしまうと警鐘を鳴らしている。〈自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)〉という言葉などは、現代人もじっくり玩味するべき至理名言である。

 もちろん、啓蒙思想家としての定評もあります。

(p169より引用) 限られた書物しか手に入らない当時にあって、短期間に欧米の最先端の学問を自家薬籠中のものとし、庶民にまでわかるようにやさしく噛み砕いて啓蒙していったことの歴史的意義については、いくら高く評価してもしすぎることはない。

 本書では、諭吉の業績のみならず、失敗についても触れられています。

 たとえば、自由主義的変革を目指した「教育令」の失敗です。
 「教育問題」は諭吉の思い入れが非常に強く、それゆえに諭吉の抱いていた「理想」と当時の諸環境という「現実」とのギャップが想定以上に大きかったようです。

(p220より引用) 教育令が施行されると、果たして佐野や九鬼の危惧した通り、教育の現場は大混乱に陥った。
 教育令が示した自由なやり方は、「自由主義的」というより「自由放任主義的」と受け取られ、教育の現場は指示を待つ人々で停滞していく。教育令施行は近代教育史に残る壮大な実験であったが、諭吉たちの掲げた理想に現実が拒絶反応を見せたのだ。・・・
 当時はまだ社会が成熟していなかった。その点、実務に長けた九鬼が自由主義的教育に見切りをつけたのは合理的判断だったと言えるかもしれない。

 その他、本書では、諭吉のあまり知られていない「起業家」として横顔も紹介しています。

(p240より引用) 福沢諭吉といえば、とかく思想家、教育家と思われがちだが、起業家としてわが国産業の近代化に貢献した点において、第一国立銀行を始め多岐にわたる企業群を作り上げた渋沢栄一にも比肩すべき存在だと言えるだろう。

 諭吉の起業の動機は、やはり「独立自尊」でした。

 明治生命保険会社は、「一身の独立」を果たすために死に対しても経済的な備えをすべきという考えにもとづいたものでした。また、横浜正金銀行(後の東京銀行、現東京三菱UFJ銀行)は、貿易の主導権を海外企業に握られる状況に対抗するため、わが国独自の外為専門銀行の設立を企図したものでした。

福沢諭吉 国を支えて国を頼らず 福沢諭吉 国を支えて国を頼らず
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2007-03-30

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ウェブ人間論 (梅田望夫・平野啓一郎)

2007-06-17 14:04:57 | 本と雑誌

 以前、著者のひとり、梅田望夫氏によるベストセラー「ウェブ進化論」は読みました。
 内容はかなりしっかりして大いに参考になったのですが、同じ著者の似たようなタイトルの本にはどうも手が伸びませんでした。

 が、さすがにずっと気になり続けていたので、今回ついに読んでみました。
 梅田氏と芥川賞作家の平野啓一郎氏との延べ16時間に及ぶ対談をまとめたものです。

 「ウェブ進化論」ほどの新たな知識の発見はなかったのですが、ジャンルの異なるお二人のやりとりは、それなりに興味深いところがありました。
 大きな話の流れは、どちらかというと平野氏が聞き役的に議論の切り口を提示し、それに梅田氏が呼応して対談が進むといった感じです。

 まずは、この手の話題ではお決まりの「検索」についての梅田氏のコメントです。

(p25より引用) 作家でもアカデミックな世界の研究者でも、知ってる、ということだけでは、もう威張れない。ネットの検索機能を利用すれば、誰もがその知識にアクセスできるわけですし、些末な知識は網羅的な知識の象徴ではなくて、たまたま知ることとなった一知識でしかない。

 さて、それでは、そういう状況になった今、どういった能力が必要となるのか?
 これについて、梅田氏は、「構造化能力」だと指摘しています。

 あと、本書の特徴である「バックグラウンドの異なる二人の対話」という観点で紹介したいのは、「ネットの世界での人間の変容」についてのやりとりです。

 平野氏がこう切り出します。

(p184より引用) この対談のテーマの一つとして僕が拘ったことなんですが、結局、身体性から切り離されたところで、あらゆる人間が活発に活動するようになったというのが、ウェブ登場による一番の変化なんだと思います。・・・梅田さんの言葉でいうなら「分身」をウェブの世界に放り込むような感じですね。そこから更に、そうしたアイデンティティからも切り離された「書き言葉」そのものが、匿名化されてダイナミックに流動化し始めたのがウェブ2.0以降なんでしょう。・・・
 人間の変容という観点に絞ってみれば、やっぱり多くの人が自分で自分を言語化してゆくようになった、というのが圧倒的に大きいでしょうね。その中で、自分が今までよりもよく分かったり、逆に自分を錯覚してしまったり、固定化してしまったりする。

 この「固定化」という点に対して、梅田氏はむしろ肯定的です。

(p185より引用) アイデンティティが固定化されると、同じことを考えている人との共振があって、趣味や専門の「島宇宙」化していって、そのコミュニティの充足を目指していく。さっきも言ったように、それを僕はかなり肯定しています。

 平野氏は、梅田氏の指摘を方向としては認めつつも、完全に腹に落ちきらない危惧を表明しています。

(p186より引用) そうした中で、人がただ自分のことしか考えなくなってしまう、自分にとって心地よいことにしか関わり合わなくなるという危惧は、やっぱりありますけど。

 最後に、本書を読んで、「おや、へー、そうなのか」と思ったところは、「グーグルの興味」についての梅田氏のコメントでした。

(p142より引用) グーグルというのは、戻ってきた個人情報を使うという発想が薄いんです。そういう心配をもっと上の世代の人たちはするんだけれど、若い彼らは、戻ってきた個人情報にあんまり興味がない。グーグルってそういう会社だと僕は考えています。俯瞰した情報空間の宇宙の構造みたいなものに強い興味があって、その構造化をもとに一人ひとりのユーザーを便利にしようという発想で動いていて、ユーザーの一人一人がどうかっていうことには、グーグルはあまり興味がない。だから逆に、Eメールに機械的に広告を入れるなんてとんでもない発想が、まったく興味がないからこそ、出てくるんだろうと思う。

 グーグルは、「途方もなく厖大な情報の構造化」に関心があるのであって、「個人ひとり一人のインサイト」については興味がないというのです。

 この点、グーグルが世に出し続けている「サービス」は、結果的には「個々人のインサイト情報」に係るものですが、それが産み出される過程は「個からの発想」ではなく「情報の構造化の追求の表象」ということかもしれません。

ウェブ人間論 ウェブ人間論
価格:¥ 714(税込)
発売日:2006-12-14

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日本の歴史 (17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義(松岡 正剛)

2007-06-16 20:02:38 | 本と雑誌

Ginkaku_ji  本書の第四講は「日本について考えてみよう」というテーマです。

 神話の時代から説き始め、室町時代の「世阿弥」に至ります。

 その論考の中で、興味深かったのは、「あはれ」と「あっぱれ」
 松岡氏は、この言い換えを「公家文化」から「武家文化」への転換の象徴的事象と捉えています。

(p255より引用) 武士たちは「あはれ」を「あっぱれ」というふうに破裂音を使って言い替えることによって、貴族の美意識を武士の美意識にしていったんですね。
 貴族の「あはれ」は当事者が感じている「あはれ」です。ところが武士の「あっぱれ」は「あはれ」な状態にある人のことを、「なんと、あはれな奴じゃ」とは言わずに、「なんと、あっぱれな奴じゃ」と言い換えるという形で成立するものです。・・・
 この「あはれ」から「あっぱれ」への変化が、公家文化から武家文化への大きな転換を象徴していました。そして、それが650年続いた。そう、見るといいでしょう。

 また、この講で松岡氏は、茶の湯の歴史を辿りながら日本人によく見られる「二分法的思考様式」に触れています。

(p336より引用) こういうふうに利休と織部をくらべてみると、日本文化がつねに弥生型と縄文型とか、公家型と武家型とか、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」とか、たえず対照的に発展してきたことを思い合わせたくなるでしょう。・・・
 まさに日本はいつも「漢」と「和」の両立に匹敵するような、「和」のアマテラスと「荒」のスサノオに象徴されるような、そういう二つの軸で動いてきたんです。

 このあたり、「相手との相関関係のなかで自己を規定する」という日本人の特性と通ずるところでしょう。

 とはいえ、こういった二分法は、日本のみの専売特許ではありません。西欧社会にも見られますし、身近には中国の「儒教」も有名な2つの論の系譜を有しています。

(p111より引用) 筍子は性悪説を取ることによって、だからこそ人間は教えを受けるということが必要なのだ、ということを説いたんですね。ここから、筍子の性悪説は教育論になっていく。そして孔子や孟子の性善説は帝王学になった。そういうふうに見るとわかりやすいでしょう。儒教というのは、この二つの人間思想を包含しているわけです。

 最後にもうひとつ、松岡氏の講義で「なるほど・・・」と感じいったのは、禅林文化における「引き算」という方法です。
 その代表例が「枯山水」です。

(p273より引用) 枯山水は、実際には岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を観じていこうというものですね。こういう見方を禅の言葉で「止観」といいます。・・・
 しかも枯山水は水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きているんです。それが新しい美を生んだ。

 対象が目の前にあると、やはり人はそれに囚われてしまいます。

(p323より引用) 何もないことによって、見る人の想像力のほうに、大きな世界を見せていこうという方法です。
 こういう方法のことを私は「負の方法」と呼んでいます。あえてそこに「負」をつくることによって、新しい「正」が見えてくるようにする方法です。
 何もないからこそ、想像力で大きな世界を見ることが可能になる。あるいは、何もないからこそ、そこに最上の美を発見することができる。

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義 17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2006-12

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正剛講義 (17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義(松岡 正剛)

2007-06-15 23:20:18 | 本と雑誌

Pythagoras  本書は、松岡氏が帝塚山学院大学で行った「人間と文化」というテーマの講義をもとにしたものです。

 時間的に空間的に様々な事象を「関係」付けながら俯瞰的に歴史を紡ぎ、新たな意味づけを行って行きます。まさに、「正剛流」です。

 松岡氏の思考の基本コンセプトは「編集」です。
 松岡氏の言う「編集」は、一般的な意味よりも広い概念です。

(p12より引用) 情報の本質は「区別力」にあるのです。・・・
 ・・・目の前の情報をどうやって区別していくかということが「編集」のはじめの第一歩になるんですね。もっと言うと、情報をどうやって区切ったかということによって、そこから読み取れる「意味」が変わってくるんです。それができればその次に、その区別した情報を、新たな視点でつないでいくことができます。見方をさまざまに組み替えていくことができる。
 そうすると、そこに新しい関係が発見されるのです。

 本書では、人類の「思索・思考」の歴史的足跡をたどっています。
 その中で、松岡氏は、紀元前6~5世紀にかけて、世界各地で期を一にしてスーパースタークラスの哲学者・宗教家が相次いで登場していることに関心を抱きます。

(p79より引用) ある傾向が一定の量まで達することを「臨界値に達する」といいます。臨界値に達すると、それまでにないものが生れてくるんです。それを「創発」といいます。
 西でも東でも、現実世界においては新しいルールやしくみが必要になり、また人間の想像力やイマジネーションにおいても大きな変革が必要となっていたんですね。そこで紀元前6世紀から5世紀にかけて「創発」がおこって、ゾロアスターや老子や孔子やブッダやピタゴラスが出てきたんでしょう。
 ある意味で、人間の欲望や煩悩が、それまでとはちがう現実味をもって人間社会をおびやかしはじめ、それが臨界値に達してきていた。そこで、それをコントロールしていく新しい技術や方法が求められていたのかもしれません。

 この状況に対応するために、人間の精神性をコントロールするものとして、神の意思である「預言」や神と人との「契約」といった仕掛けが登場してきたのだと説いています。

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リクルートのDNA-起業家精神とは何か (江副 浩正)

2007-06-14 23:36:41 | 本と雑誌

 ある程度の年齢以上の方は、著者の江副浩正氏の名前は鮮明に記憶に残っているでしょう。私もその年代ですし、実は、個人的にもいろいろな思いがあります。

 江副氏は、情報サービス業の大手企業「リクルート」(当初の社名は「大学新聞広告社」)の創業者です。
 リクルート社は自由闊達な社風で急成長した企業で、若く有能な人材を多く社会に輩出しました。一時、業績不調の時期がありましたが、近年はまた好調な業績を残しているようです。

 本書は、一世代前?のベンチャー企業の創業者が、その企業の立上げから発展に至る軌跡(その中には失敗や反省もありますが)を自ら綴ったものです。

 本書を読んで、ともかく最も知りたいことは、やはりタイトルでもある「リクルートのDNA」とは何かということでした。

 江副氏は、「社員皆経営者主義」をはじめとしていくつものDNAを紹介しています。

 たとえば、仕事のスタイルにも、脈々とDNAが受け継がれているようです。

(p93より引用) こうして創業時から、社員と社外の人が一つの目的に向かって仕事をする仕組みができていき、社員が外の人と一緒に仕事をすることがリクルートのDNAとなった。

 そのほか、体内(社内)に埋め込まれた「フィードバック回路」もDNAによるもののひとつでしょう。

(p110より引用) 書物に、万物のなかで人間が最も優れた存在であるのは、人の身体の中に無数のフィードバックの回路が組み込まれているからであるとあった。私はリクルートの組織にもフィードバックの回路を極力組み込みたいと考えた。
 顧客や読者から編集部へのフィードバックはがきは、『リクルートブック』創刊号以来、リクルートの情報誌にはずっとつけている。社員評価の本人へのフィードバック、研修などの後のアンケートなど、リクルートに数多くフィードバックの回路をつくり、それらが組織に有効に機能するようにしていった。それがリクルートの強みとなっていった。

 あと、興味深く印象に残ったのは、「エントロピーの増大と検索の関連」という観点でした。

(p111より引用) 情報理論では物理学のエントロピーの法則という言葉が使われていた。
「情報量が増加すると、自由な選択の余地も広がるが、同時にエントロピーの法則が働いて、必要な情報と不要な情報が混在し、無秩序になる。欲しい情報を取り出すためのインフォメーション・リトリーバル(情報検索)をどうするかが重要」とあった。そこで、情報誌に必要な情報検索方法についても、工夫を重ねていった。

 このあたりは「週間住宅情報」のさまざまな検索(索引)ページや、「企業への招待(後の「リクルートブック」)」巻末の「掲載企業が採用したい学科別一覧」のマトリックス等に具現化されています。

 当時から「情報を活かすポイントは『検索』にある」ということに気づいていたのは、慧眼と言わざるを得ません。

 最後に、本書を読んで私が「これこそ『リクルートのDNA』だ」と感じたのは、創業時、江副氏が掲げた社訓でした。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」

 この精神は、(素直に)素晴らしいと思います。このDNAは企業に限らず、私たちの活動のあらゆる面で受け継ぐ価値のあるものです。

 残念なことに、この社訓は、現在、公式には姿を消しています。「表面上」は、受け継がれていないDNAなのです。
 (ちなみに、この本、いつもBlogを拝見している「手文庫」さんも読まれたようです)

リクルートのDNA―起業家精神とは何か リクルートのDNA―起業家精神とは何か
価格:¥ 720(税込)
発売日:2007-03

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意中の建築 下巻 (中村 好文)

2007-06-13 21:59:16 | 本と雑誌

Ritsurin_koen_1  上巻に引き続いて一気に読み通しました。
 下巻の収録建築は13。そのうち6つは日本国内の建築です。

 そのうちのひとつ、栗林公園にある「掬月亭」
 総面積75haという広大な回遊式庭園の一角、南湖の辺に立つ数寄屋造りの「茶屋風」建築です。
 128枚の雨戸を開放して、建物を取り巻く庭園と連続した空間は見事としか言いようがありません。

(p28より引用) 畳の床から縁側へ、そして外部へと水平に繋がっていく無限定な空間です。和紙貼りされた天井に反射し、拡散した光は陰影の階調を生み出し、室内全体に、静謐な気配がみなぎっています。

 他方、日本建築ならではの細部の仕事にも注目です。
 本書で紹介されている「掬月亭」の雨戸の開閉の仕組みは驚きですね。丸棒一本で雨戸を90度方向変換させる仕掛けです。シンプルなだけに、先人の知恵に感心です。

 この本で紹介されているすべての建築に言えることですが、その建物が在る場に実際に行ってみないと、建築家の意図、その深さ、素晴らしさを真に知ることはできないようです。
 たとえば、カルロ・スカルパの改修によるイタリアの「カステルヴェッキオ美術館」の例です。

(p40より引用) なるほど! 建物中央にあった当初の入口をそのまま踏襲していたら、こうした視覚的な見せ場は生れなかったわけです。スカルパがわざわざ建物の一番隅に美術館の入口を移した理由が、これではっきり納得できました。
 独創性に富んだ改修の手法や展示方法がどれほど見事な成功をおさめているかは、展示室を一室ずつ巡り歩くうちに次第次第に分かってきます。

 その地に行かなくては絶対分からないのが「光」と「空気」です。

 本書で紹介された建築は、ほとんどすべて、「自然の光」に気遣いそれを見事に生かしています。(ウィーンの地下水道は別ですが)また、その場の「空気」と同化しています。

 当たり前のことかもしれませんが、建物は「箱物」だけの独立物として存在してはいません。建物内部の空間、建物の立つ土地、さらにはその時代・・・。そういった時間・空間の総合物だということです。

 中村氏は、「建築家とは、『空間のトータル・プロデューサー』だ」ということを再認識させてくれました。

意中の建築 下巻 意中の建築 下巻
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2005-09-21

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意中の建築 上巻 (中村 好文)

2007-06-11 23:19:58 | 本と雑誌

Akasaka_rikyu  「ぶっく1026」さんの書評Blogで紹介されていたので手にとってみました。

 建築関係の本は、以前も安藤忠雄氏の「連戦連敗」古市徹雄氏の「世界遺産の建築を見よう」を読んだりしています。
 今回の本は、建築家中村好文氏の記憶に深く残った内外の建築を紹介したものです。上巻に登場した建築は12。豊富な写真と中村氏の軽妙な語り口が楽しい本です。

 本書を読んで印象に残ったフレーズをいくつか書き留めておきます。

 まずは、日生劇場の設計や赤坂迎賓館の改修で有名な建築家村野藤吾氏が設計した「旧千代田本社ビル」の紹介のくだりです。

(p18より引用) しかし私は、そうした見せ場をたっぷり味わいながら、同時にごく些細な部分、特に足元のデザインに目と心を奪われてきました。

 建物本体はもちろんですが、石の舗装と芝生、池に崩れこんでいく石組み、石垣の端部・・・こういったところに建築家としてのこだわりや執念が感じられるのだと言います。

 もうひとつ、アメリカ現代建築の第一人者ロバート・ヴェンチューリの著作「独自の建築研究の成果」からの引用です。

(p52より引用) 私は意味の明晰さより意味の豊かさに、外にあらわれる機能より内にかくれた機能に味方する。私は「二者択一」より「両者共存」が、黒か白かというよりは黒も白も、時には灰色が好きなのだ。

 ヴェンチューリ氏の作品として紹介されているのは彼の母の家ですが、写真で見ても確かに興味深いものです。「途中で急に狭くなる階段」や「行き先なしの階段」・・・
 しかしながら、奇を衒ったという感じはしません。むしろ、住み心地のよさそうな親近感を感じます。

Shizutani_gakkou_1  この「母の家」に限らず、いくつもの建築を見ていくと「建物」を中心に、内には、間取り・ 内装・調度品・・・、外には、庭・通り・街並み・・・といった感じで、多層的に視点が移ります。
 このあたりが、素晴らしい建築に触れる楽しみのように感じ始めました。

 ところで、本書でも紹介されている京都の「俵屋旅館」
 いいですね。こういう宿に一度は泊まってみたい気がしたのですが・・・。やはり一泊5万円は下らないようです・・・。絶対無理です・・・

意中の建築 上巻 意中の建築 上巻
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2005-09-21

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理科教育 (科学の現在を問う(村上 陽一郎))

2007-06-10 16:50:00 | 本と雑誌

Manhattan_plan  いくつかの著作で村上氏が繰り返し説いているテーマが、「日本における理科教育の弱化」の問題です。
 これは、10年前の本書でも問題点として指摘され、現在もなお改善されていない課題です。むしろ、問題がより深刻化している気もします。

 この点につき、村上氏は、 「理工系外の人に見られる理科的素養の欠如」「理工系の人に見られる社会的素養の欠如」の2つの面を指摘しています。

 まずは、「理工系外の人」に関してのコメントです。

(p186より引用) 理工系の外にいる大部分の社会の成員にとっても、理工系の学問や現場で行われていることに関して、それなりの知識を持たないでよいはずはない。それは、必ずしも専門家の持つ知識と同じである必要はないし、またそうであることは不可能である。しかし、理工系に関して「無知」であることだけは、許されない状況が生れているのである。

 また、「理工系の人」に対する問題意識です。

 昔、「科学」の駆動力は科学者の「好奇心」でした。その意味では科学は「個人的」なものでした。
 村上氏によると、そういった「科学」の性格にとって大きな転機になったのは、「マンハッタン計画」だったとのことです。核兵器の開発を契機として、科学は「倫理」や「社会的責任」と深く関わるようになったのです。

(p186より引用) 他方、倫理を扱った章でも述べたように、理工系の人間といえども、自分たちの研究の成果が大きな支配力を持って影響する人間と社会に関して、充分な基礎知識を持っていなければならないことも自明であろう。彼らが専門の学問だけに専念していればよい時代はとうに過ぎている。

  村上氏の「理科教育」に関する危惧は、10年たった今でも、未だ解決の方向にすら向いていないようです。

(p187より引用) 理科教育とは単に、物理学や地球科学の学理を身につけさせるためのものではなく、科学・技術と人間・社会との関係に関してしっかりした洞察の力をつけさせることが、大切になってくる。

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価格:¥ 735(税込)
発売日:2000-05

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技術の礎 (科学の現在を問う(村上 陽一郎))

2007-06-09 15:14:35 | 本と雑誌

Hatsudensyo  村上氏の著作は、以前にも「やりなおし教養講座」「新しい科学論」といった本を読んでいます。
 今回読んだ「科学の現在を問う」という本は、時期的には両書の間ごろに書かれたものです。したがって、「現在」といっても今から約10年前のことになります。

 10年前の本であっても、「原発事故」や「医療(クローン技術等)」に関する説明は分かりやすく、科学・技術に係る基礎知識を整理するには有益な内容でした。

 また、「原発事故」の章では、高速増殖炉実験炉「常陽」の臨界事故を例に「事故発生プロセス」が分析されており、その文脈のなかで技術における「メインテナンス」の重要性が説かれていました。

(p64より引用) この問題は、日本において技術の問題を考える際に気をつけなければならない一般論へと私たちを導いてくれる。それはメインテナンスの重要性である。

 メインテナンスに代表される「下流プロセス」はしばしば軽視されます。

(p67より引用) 実際、政治の予算措置などを見ても、新しい設備、建物、機械を導入するときには、比較的気前良く予算が配られるが、そうしたものを日常的に維持、管理、運営していくためにかかる費用については、一切面倒を見ないというのが原則である。

 しかしながら、いくら作っても稼働し続けなくては何の意味もありません。
 「作ったら動くのは当たり前」ではありません。さらに、稼働させ「続ける」ことは、実はものすごく大変なことなのです。この大変さは、それを実際に担当したことがないと分からないかもしれません。

(p66より引用) 造られたものを安全に機能させるためには、造ったときに匹敵するほどの努力(資力と技術力)を注がなければならないのである。これを怠れば、造られたものは、無用の長物ならばまだしも、凶器にさえ変じることがある。

 科学・技術関係の啓蒙書において、こういった事実にも日を当てることは非常に意義深いことだと思います。

(p67より引用) こうして構造的に軽視されるメインテナンスこそ、システムの安全にとって、最も重要な課題であることは、いくら強調してもし過ぎることはないはずである。

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発売日:2000-05

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哲学、脳を揺さぶる - オートポイエーシスの練習問題 - (河本 英夫)

2007-06-08 21:21:48 | 本と雑誌

 「オートポイエーシス」。今まで聞いたことがなかった言葉です。
 この本によると「自己の産出的形成運動」のことだそうです。

 哲学系の本は凝りもせず何冊か読んでみていますが、これも難解でした。

 その中でも、何となく分かった気になったフレーズをご紹介します。

 まずは、「新たなものを見いだすための見方」についてです。
 河本氏は「注意」ということばでそれを表していますが、私たちが普通に使っている「注意」とはちょっと異なるようです。

(p192より引用) 見方を教わって、それに合わせて焦点を絞ってみる。これは焦点的意識であり、言い換えれば「注目すること」(既に見えているものをよく見る)である。ところが自分で何かを見いだすさいには、焦点的意識とは別のものが必要になる。・・・学校教育では、観察にさいして、注意ではなく、焦点的意識、すなわち知覚を教えている。最短距離で物事を修得するために、それが最も都合がよいからである。だがそれが良い教育かどうかは別問題である。新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している。

 つぎに「パラダイム転換」について。
 「視点を替える」とよく言われますが、川本氏の考えはちょっと違います。意識して替えられるぐらいでは「全く新たな気づき」は生れないのです。

(p291より引用) 実際、転換のさなかにあってこの転換を成し遂げていく人たちは、視点の転換のようなことはしていないはずである。後に視点に要約されているものを、繰り返し試行錯誤を通じて形成しているのであって、転換すれば済むような視点はまだどこにも存在しないからである。・・・もっと困るのは、なにかを成し遂げていくためには、視点を切り替える程度では本来なにも変わらないことである。視点を切り替えることができるのは、既に切り替えることのできる視点を知っている場合であり、知っているものの間を既に転換している場合だけである。この場合、せいぜい他人の考え方に寛大になることができ、自分の取っている視点の相対的位置を知ることはできる。だからといって、そこから「ブレイクスルー」ができるわけではない。

 最後に、私にとって、本書の中で最も納得感のあったフレーズは以下のようなものでした。

(p19より引用) 情報化が進むと情報処理が先行し、戸惑うこと、躊躇、当惑のような心の局面はずっと減ってしまう。情報にとっては余分なことだからである。・・・感情は、使わないと消えてしまう。怒ること、怒鳴ることを控えて、まあまあと他人や事態を理解することばかりに努めていると、感情は消えてなくなってしまう。特に40歳以上になると、ことあるごとに努力して感情を動かすようにしないと、感情が消えてなくなってしまうのである。あえて感情的にならなければならない時期がある。現在、用いている感情の種類を数え上げてみてほしい。恐らくかなり少ない感情の種類で日常を送っていると思われる。・・・そうなると面白さの感覚が、とても平板なものになる。そのため余分な遠回りのようでも、あえて否定を用いるのである。

 私もまさに、意識して「感情」を活性化しなくてはならないようです。

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題 哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2007-02-15

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