松岡正剛さんの本を読むのは本当に久しぶりです。
「日本という方法」「多読術」「日本力」等々、何冊か読んでいますが、ともかく松岡氏の知識の質量や概念の構成力には圧倒されます。
今回のテーマは大胆にも「日本文化」です。いろいろな切り口で論考が進むので、順不同になりますが、気になる指摘を書き留めておきます。
まず、「第五講 和する/荒ぶる」から。
“アマテラスとスサノオに始まる「和」の起源”とサブタイトルがあります。アマテラスの系譜は「和する」、スサノオの系譜が「荒ぶる」です。
(p116より引用) 日本の精神文化の根底はこの「和する系譜」に「荒ぶる系譜」が並立することで成立できたともいうべきなのです。
「あはれ」と「あっぱれ」がそのひとつの例です。
(p119より引用) 「あはれ」は武家社会では「あっぱれ」に変じました。「あっぱれ」は「あはれ」という言葉を破裂音をともなって武張って発音した言葉なのです。このことも見落とせないことで、王朝感覚の「あはれ」を武家が感じると「あっぱれ」になるのです。
武門の幼い子が戦場に出ざるをえなくなり、緋械の鎧を着て小さな黄金の太刀をもっている姿は、貴族的には「あはれ」なことなのですが、武門の美学にすると「あっばれ」 のです。よくぞ覚悟した、あっぱれなやつじゃというふうに喝采の対象になる。けれども、その「あっぱれ」には「あはれ」も漂うのです。
この「あはれ」と「あっぱれ」の関係もデュアルであって、和事と荒事が二つながら関与し、また遠くには和御魂と荒御魂が行き来するのです。
また、「第九講 まねび/まなび」から。
明治維新期の外国人学者たちの功績について。
(p191より引用) フルベッキやジェーンズは英語学全般を教え、ヘボンはローマ字の導入を提案して明治学院を創立し、クラークが創設した札幌農学校は内村鑑三や新渡戸稲造を輩出し、ボアソナードは法律を教えて法政大学の基礎をつくり、大森貝塚を発見したモースは動物学を、フォッサマグナを発見したナウマンは地質学を教えた。私はとの時期のこうしたお雇い外国人たちの努力と勇気に感心します。よくぞ教えてくれた、よくぞ本気で若い日本人たちに勉学の基礎を叩きこんでくれたと思います。
さらに、
(p192より引用) ハーンやフェノロサやコンドルが見いだした日本の美は生活の中に生きていたり、徒弟的に師から弟子に伝えられたりしてきた技法やセンスにもとづくもので、教育的に継承されてきたものではありません。「生」と「技」と「美」がつながっていたのです。かれらはそこに感動したのです。
明治維新は官製の西洋化を推し進めましたが、その流れの中で、外国人学者たちが日本伝統の芸術や技芸の価値を認め、破壊から守ってくれたのです。
さて、最後に本書を読み通しての感想ですが、やはり松岡氏の立論には8割方ついていけませんでしたね。
思想を構成する様々な材料を提供してもらっても、私にそれを「編集」する(料理する)腕がないのですから、どうしようもありません。肝心要のそこのところの修行は、果てさて一体どうすればいいでしょう。