OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

海兵隊存続の要諦 (アメリカ海兵隊(野中 郁次郎))

2006-04-30 00:11:04 | 本と雑誌

 ふつうに考えると「陸・海・空」の3軍あって、さらに「海兵隊」というのはなぜ?という感じを抱きます。
 アメリカ海兵隊は1775年に創設されたのですが、当初の目的は、平時は警備隊としての艦内秩序の維持であり、戦闘時には敵艦との接近戦の遂行でした。

 現在でも、海兵隊は、海外での武力戦闘を前提に組織され、アメリカの権益を維持・確保するための緊急展開部隊として行動することをミッションとしています。
 したがって、DNAとして「変化に対する即応性」が染みついているのです。

 まずは、組織体としての「即応対応」ですが、以下のように状況によって小さくも大きくもできる柔軟な構造になっています。

(P185より引用) 同一業種内でも業績のよい組織は、「分化」と「統合」という相反する組織の状態も同時に極大化しているというのである。
 しかし、分化と統合の「同時」極大化というのは、論理的には不可能である。・・・この論理矛盾を打破するのが現実の世界における行動である。つまり、動くことで視点が変わり状況が見えてきて、統合と分化という力(ニーズ)が全く拮抗しているわけではないことがわかってくる。対抗する二つの力のバランスを取るのではない。時と場所によって異なるそれらの力関係を感じ取り、組織のリーダーがその強いほうを選んで推進するのである。そして、より高度な分化と統合を交互に追求することによって、組織をスパイラルに革新するのである。
 海兵隊が部門間分化に対して開発した統合組織構造は、入れ子型でいかなる規模でも自己完結している海兵空・陸機動部隊(MAGTF)であった。

 また、同じように人材活用においても「即応対応」が工夫されています。具体的には以下のような仕掛けです。

(P80より引用) 強襲上陸部隊は、・・・エファテ等で予行演習をしたが、第二海兵連隊の指揮官が病気になったため、スミス少将は師団の作戦計画にもっとも精通している作戦主任参謀シャウプ中佐を大佐に進級させ、第二連隊の指揮官とした。第二次大戦中の米軍は、作戦のニーズに応えてこのような抜擢を行ない、使命が終わると元の階級に戻すという機動的人事を編みだした。

 この対応は、「階級」と「職責」をベースにした典型的官僚型組織を所与の前提としたうえでの応用形なので、真の意味での「柔軟な適材適所の人材活用」とまでは言えないと思います。
 が、逆に「典型的官僚組織」の世界観の中で、この手の荒技ができること自体、出色と言えるかもしれません。

 さて、以上のような「組織」と「人」に係る柔軟な仕掛けの支えがあって、状況に応じた機動的なアクションが可能になります。

(P123より引用) 遊撃線の要諦は、・・・「戦略的には、一をもって十に当たり、戦術的には十をもって一に当たる」ものであり、時間と空間をダイナミックに同期化させるのである。

 まさに「孫子の兵法」の真髄です。

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海兵隊のカイゼン (アメリカ海兵隊(野中 郁次郎))

2006-04-29 00:16:12 | 本と雑誌

 海兵隊は今まで何度も存続の危機を乗り越えてきたとのこと。その歴史の中には大きな進化と小さな進化があったようです。

(P176より引用) 水陸両用作戦という概念は、海兵隊の過去の経験の延長から生み出せるものではなかった。それは、現状の改善から生まれる小進化ではなく、過去から不連続的に飛躍する大進化のきっかけになった概念である。概念が生まれれば、それを形にすべく、過去の知識の蓄積と関係が薄くても、必要な知識を創造することができる。概念は、経験を越えて自在に飛べるのである。小進化としての洗練は経験的であることが多いが、大進化としての再創造は経験を越える概念で始まることが多いのではなかろうか。

 大進化は、新たな概念に触発された革新的進化ですが、小進化はいわゆる「カイゼン」活動と同系統の地に足の着いた営みです。
 この本では、以下のようなシステマティックな具体的プロセスが紹介されています。

(P166より引用) 現在でも海兵隊員は、全員が研究開発に関する情報提供が義務づけられ、訓練終了後ごとに、たとえシャベル一本の改良すべき部分でも発見すれば、部隊から即、開発センターへ知らせるシステムが確立されている。

 また、以下のような変革プロセスも「カイゼン」活動の具体的姿のひとつです。

(P168より引用) 組織が過剰適応に陥らず絶えず革新への挑戦を行なっていくためには、組織が基本的なものの見方、認知枠組み、思考前提を日常的に創り変えるプロセスを制度化していることが重要である。
 海兵隊の場合、そのための仕組みが二つある。
まず、海兵隊司令官が推薦図書を公表し、隊員全員に議論のきっかけを提供する伝統がある。・・・
さらに、海兵隊将校向けの月刊誌・・・は、「アイデアと争点」という自由投稿の紙面を中心に構成され、・・・海兵隊のあり方をさまざまな視点から絶えず見直している。・・・この紙面の目的は、「自由な議論とアイデア交換の場を提供し、・・・思慮に富む投稿を通じて毎年多数の海兵隊員が、海兵隊の進化と進歩に貢献するアイデアを提起できるようにする」ことであり、「それらに対する反論、意見、補給は建設的なものでなければならない」と付記されている。

 後者の「アイデア共有」の仕掛けは結構どこの組織でも見られるものだと思います。
 むしろ、前者の「ブックリスト提供」の方が興味深く感じます。何となくアナクロニズム的な感じもしないわけではありませんが、同じ書物を読むことは、問題意識を共有する非常に簡単な方法です。
 こういう単純なやり方の方が現実的な実効があがると思います。

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情報⊂人 (アメリカ海兵隊(野中 郁次郎))

2006-04-28 00:10:17 | 本と雑誌

 著者の野中郁次郎氏は、以前「失敗の本質」という著書において、第二次大戦の日本軍敗戦の原因を、戦略・組織面から研究し発表しました。
 そこでは、日本軍の6つの作戦をケースに失敗の要因を分析し問題点を浮かび上がらせています。本書でも、前書で指摘したのと同様の問題点がところどころに顔を出します。

 まずは、ガダルカナルで日本軍と戦った米国海兵隊中佐の言です。

(P64より引用) 「この血なまぐさい12時間の戦闘によって、どう理解して良いか分からない問題にぶつかった。一木は、斥候がほとんど全滅させられたのだから、論理的に彼の攻撃の意図は海兵隊に知られているとは考えなかったのだろうか。・・・なぜ、彼は損害の大きかった第一回攻撃と同じ方法で第二回攻撃を行ったのだろうか。・・・その答えの一部は、当然のことであるが、一木大佐の情報不足であろう。しかし、もっと重要なことは、彼の傲慢な現実無視、固執、そして信じ難いほどの戦術的柔軟性の欠如ではないか」

 第二次大戦において、日本軍は対米情報戦に敗北したと言われますが、その内実はそんな単純系ではありません。情報の有無が大前提なのは言うまでもないことですが、仮に情報があったとしてもその情報を活用する能力がなければ何の意味もないのです。情報は、使う人がいてはじめて活きるのです。

 「情報」を「意味のあるものだと認知」し、それをもとに「事実を把握」、さらに、その事実を踏まえて「分析」し「対応策を策定」、そして「実行」する、最後にまたその結果を「情報としてインプット」する・・・という一連の活用サイクルを回すことが重要だということです。
 このサイクルは「人」が回すのです。その意味で、「情報⊂人」なのです。

 さて、具体的な情報活用は、たとえば「失敗の教訓化」という形をとります。

(P90より引用) ジュリアン・スミス少将は「われわれはいくつもの失敗をしたが、最初からすべてを知ることはできない。われわれは将来のためになることをたくさん学んだ。・・・」といった。“ガルバニック”作戦を指導した指揮官たちは、ギルバート諸島の戦闘が終了した瞬間から、戦闘中に生じたすべての失敗と欠陥を発見し、詳細に検討し、それを修正するよう、幕僚たちに指示した。

 ただ、検討・修正にとどまっているのではありません。その教訓はシステマティックに共有されます。

(P92より引用) ニミッツ提督の担当する太平洋全域にわたり、ギルバート諸島での戦訓が配付された。・・・タラワ以後の強行上陸作戦のあらゆる局面は“ガルバニック”作戦という原型を基に検討された。

 「教訓」はリアルな世界で義務化されないと確実に活かされたことにはなりません。
 ここまでやってようやく1サイクルのゴールです。そして、サイクルはまた回り始めます。

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学問がわかる500冊 (朝日新聞社)

2006-04-27 00:43:29 | 本と雑誌

 社会・人文科学系の10のジャンル(哲学・経済学・社会学・国際関係学・法律学・社会福祉学・宗教学・教育学・心理学・政治学)の中から50冊ずつお勧めの本を紹介しています。紹介されている本は、大学学部生の基礎レベルから専門の入り口程度という感じでしょうか。

 私自身、日頃あまり関心を持たないジャンルの本で、何か面白そうなものはないかと思って目を通してみました。
 紹介されている本のうち何冊かは以前読んだものもありましたが、ほとんどは初見で、改めて自分自身の関心範囲の狭さを痛感しました。

 中には、複数のジャンルで紹介されている著者もいました。たとえば、マックス・ヴェーバーは3つのジャンルで登場しています。(社会学・宗教学(いずれも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)、政治学(「職業としての政治」))
 現代に何らかの影響を及ぼしている書物には、何とかして一度は触れておきたいと思いますね。(最近は、読んでもなかなか一度では頭にはいらなくなってきていますが・・・)

 ところで、全く別次元のことですが、この本を読んでいて思ったことがあります。

 昨今、高校の英語の授業風景でも、生徒の大半が辞書を引くのではなくて、電子辞書を机においてキーボードをたたいています。
 いわゆる「電子書籍」の普及は、先ずは「電子辞書」から、次に携帯へのコミック等のコンテンツ配信という感じで、方向感は間違いなく「紙ベースの書物の『e化』」です。(全てではないでしょうが)
 しかしながら、なかなか書籍本体にまでは進んでいないようです。電子ブックも製品としてはいくつか出ていますが、電車の中でもほとんど見かけません。

 さて、今後ですが、いわゆる「古典」と言われている書物も「e化(電子書籍化)」に馴染むでしょうか。
 もちろん、物理的にはできるのでしょうが、私としては、訳も判りにくく印刷状態の悪い「岩波文庫」と格闘している姿の方が、「古典」には似合っているような気がします。

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Web2.0と性善説 (ウェブ進化論(梅田 望夫))

2006-04-26 01:39:51 | 本と雑誌

 ものごと何でもそうですが、「性善説」に立つと「可能性の世界」がいきなり広がります。

(p121より引用) eベイの創業者ピエール・オミディヤーは「Web2.0とは何か」と尋ねられ、
「道具を人々の手に行き渡らせるんだ。皆が一緒に働いたり、共有したり、協働したりできる道具を。「人々は善だ」という信念から始めるんだ。そしてそれらが結びついたものも必然的に善に違いない。そう、それで世界が変わるはずだ。Web2.0とはそういうことなんだ」
と答えている。

 情報共有化も性善説を基礎とするとこうなります。

 情報は個々人が自由に発信します。発信先を特定する必要はありません。自分のBlogでもいいですし、どこかの掲示板でも構いません。もちろん、企業内の業務の一環の場合は、何らかの「共有エリア」ということになります。(このくらいのルールは必要です)情報を入手する人は、必要な都度「検索エンジン」を使って(必要な情報を)引っ張ってきますし、また、RSSリーダーにキーワードを登録して、それにマッチした情報を取り込んでいくという感じです。

 従来の情報共有化は、たとえば、発信者主義の情報の一方通行であったり、既定のナレッジマネジメントの仕掛けに運用ルールどおりに登録したり、はたまた、単なるネットワーク上のファイル共用だけであったり・・・というものでした。
 さらに、それなりにIT対応を考えると、こんな大がかりな仕掛けになります。

 情報入手元システムからのデータをDWH(データウェアハウス)に接続
 →DWHでは、データを正規化する等の加工をして蓄積
 →蓄積したデータをある検索条件のものに一括抽出 もしくは、ちょっと気の利いたところでは、アクセス権限のある操作者(マーケッター等)がBI(Business Intelligence)ツールを駆使して情報を活用。

 性善説に立つと、仮想の情報広場(DWH相当)に入力も自由、出力も自由ということになります。

 「ウィキペディア(wikipedia)」は、この新たなスキームがオープンなネットワーク環境下で動いている代表例です。これは、ご存知のとおり「ネット上の誰もが自由に編集に参加できる百科事典」ですね。

 この情報の自由放任主義は、今の「良識世界」から当然の反論を受けます。虚偽の情報・悪意のある情報等の混在の可能性です。(昨今も、ここでの議論とは別次元の話ですが、「偽情報(メール)」が話題になっているのは周知のとおりです)また、企業であれば、さらに情報管理上の問題点も指摘されます。

 この点は、当然キチンとした議論をしなくてはなりません。「性善説=ルール不要」ではありません。性善説にたっても違法は違法です。新たな仕掛けが機能するケースもあれば、やはり、まだマズイというケースもあると思います。たとえば、企業内の情報共有の場合には、やはりセキュリティ面のケアは十分にしておかなくてはならないでしょうし、謂れのない誹謗中傷が許されるはずもありません。

 ただ、方向性という点では、やはり何とかしてより自由な営みのウェイトを増やすことを考えるべきだと思います。

 健全な体であれば「自然治癒力」が働きます。腐っていたり賞味期限を過ぎたものを食べると、食当たりするのは当然です。が、食当たりする恐れのあるものを食べないように注意すれば、世の中にはいくらでもおいしいものはあるわけです。食べる前に目でみて、臭いをかいで、ちょっとかじってみて「???」と思うものは吐き出すようにすれば大丈夫です。

 そうやって、情報は「淘汰」(自然淘汰と言いたいところですが、現実はまだそこまでは・・・という状況でしょう)されていきます。しばらくすると流行らない店と行列のできる店に分かれて行くのです。

 悪意ある情報発信や他者の権利侵害、また、現行法規を逸脱した振る舞いは当然許されるべきではありませんが、「自己責任」をベースにした「性善説」はできるだけ歓迎したいと思います。

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逆パレートの法則 (ウェブ進化論(梅田 望夫))

2006-04-24 00:19:44 | 本と雑誌

 前回は、グーグルの業務推進のベースとなっている情報共有の仕掛けをご紹介しました。今回は、グーグルのマーケティング戦略の特異点をご紹介します。

 そのエッセンスは、ロングテール現象の「意味づけ」です。
 グーグルは、「ロングテール」を自らのビジネスの主戦場と捉えています。

(p130より引用) 自らをロングテール追求者と定義するグーグルのCEOエリック・シュミットは、ロングテール追求の意味をいつもこう表現する。
「厖大な数の、それぞれにはとても小さいマーケットが急成長しており、その市場がグーグルのターゲットだ。グーグルは、厖大な数のスモールビジネスと個人がカネを稼げるインフラを用意して、そのロングテール市場を追求する」

 従来から既存の多くの企業は、「選択と集中」戦略をとる場合、「パレートの法則」いわゆる「2:8の原則」に則っていました。有望な市場は2割部分であって、そこに経営リソースを集中投下すべきだとの考えです。

 しかしながら、IT化/NW化の進展により、やり方次第では残り8割の方にブルーオーシャンが広がっていたというわけです。この海はすべての人に見えてはいたのですが、その海の魚影は薄いと思っていました。
 グーグルは、その海の魚の総数に気づき、全く新たな漁法で乗り出していったのです。その漁法は、追加の投下コストが限りなく0に近い形で残り8割部分へのリーチを可能にしました。
 そこに気づいたことも出色ですが、それを本当にビジネスとして現実のものにしたことが最大の特異点です。

 従来の延長線上のビジネスモデルとは全く別世界の発想にもとづいている分、そのプロセスを支えるIT基盤のアーキテクチャも今までの仕掛けと根本的に異なります。

(p129より引用) ロングテールとWeb2.0は表裏一体の関係にある。キーワードは不特定多数無限大の自由な参加である。それが、ネット上でのみ、ほぼゼロコストで実現される。ロングテール現象の核心は「参加自由のオープンさと自然淘汰の仕組みをロングテール部分に組み込むと、未知の可能性が大きく顕在化し、しかもそこが成長していく」ことである。そしてそのことを技術的に可能にする仕掛けとサービス開発の思想がWeb2.0である。

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グーグルの神経系 (ウェブ進化論(梅田 望夫))

2006-04-23 00:18:23 | 本と雑誌

 本書では、ネットビジネスでの代表的な成功企業を取り上げて、そのビジネスモデルの相似・相違を具体的に浮き彫りにしています。

 そのなかでも、特にグーグル(Google)は、全く異質の企業理念・ビジネスモデルをもつ企業であると指摘しています。
 その特徴的な点をいくつかご紹介します。

 ひとつは、グーグルの組織マネジメントについてです。
 グーグルでは、「情報共有こそがスピードとパワーの源泉という思想」が徹底されています。
 ここでは「電子メール」もすでに過去のパラダイムのツールです。電子メールも、発信者が受信者を指定するという「情報の閉鎖性・隠蔽性」を前提としたツールだからです。
 グーグルでは「社内ブログ」が情報共有の仕組みだと言います。完全リアルタイム&完全オープンな情報共有が実現されています。まさに、先に「加速学習法実践テキスト(コリン ローズ)」で紹介したアイデアの共有状況が実態として機能しています。

(加速学習法実践テキスト(コリン ローズ)p122より引用) 「私が1ドル持っていて、あなたも1ドル持っています。お互いにそれを交換してもどちらも前と同じです。」
「でも、私がアイデアを持っていて、あなたもアイデアを持っていると、お互いにそれを交換すれば2人とも前より豊かになります。」

 共有された情報は、それが取り上げるに値するものであれば、誰もが我先にとリプライを返し、解決に向けてブラッシュアップされて行きます。

 溢れる情報の整理は、「情報自身による『淘汰』に任せる」というわけです。その中で生き残る情報は、多く読まれた情報であり、厖大な情報の中から何を読むか、その選択のツールが「検索エンジン」であるともいえるのです。

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オープンソースの気づき (ウェブ進化論(梅田 望夫))

2006-04-22 02:22:16 | 本と雑誌

 ベストセラー系の本は、それが旬のときにはほとんど手に取らないのですが、この本は、会社のメンバからのお勧めで読んでみました。

 流行のテーマの表層を舐めただけの本かと思っていましたが、偏見でした。大変失礼しました。内容はかなりキチンと書かれています。
 最近のネットビジネスの本質を理解するうえで重要なキーコンセプトを非常に丁寧に説明しています。
 (ふとっちょパパさんもコメントされていますので、ご参考までに)

 この本から私が教えられたいくつかの意味づけのうちのひとつに、「オープンソース」というコンセプトがあります。

(p28より引用) オープンソースの本質とは、「何か素晴らしい知的資産の種がネット上に無償で公開されると、世界中の知的リソースがその種の周囲に自発的に結び付くことがある」ということと「モチベーションの高い優秀な才能が自発的に結びついた状態では、司令塔にあたる集権的リーダーシップが中央になくとも、解決すべき課題(たとえそれがどんな難問であれ)に関する情報が共有されるだけで、その課題が次々と解決されていくことがある」ということである。
 現代における最も複雑な構築物の一つである大規模ソフトウェアが、こんな不思議な原理に基づいて開発できるものなのだという発見は、インターネットの偉大な可能性を示すとともに、ネット世代の多くの若者たちに、とても大きな自信と全く新しい行動原理をもたらした。

 私の限られた頭では、オープンソースといえば「ソフトウェアの設計図にあたるソースコードを、インターネットなどを通じて無償で公開し、誰でもそのソフトウェアの改良、再配布が行なえるようにすること」といった用語集レベルの理解でした。

 が、確かに言われてみれば、「オープンソース」のネット時代での意味づけは、「ネットを介した自発的な知のコラボレーション」という「新しいダイナミズム」として理解すべきですね。
 「企業内の情報システムにオープンソースソフトウェアを利用します」とかいったコンテクストでの「オープンソース」の意味づけとは異次元の相違があります。

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教わらなかった会計―経営実践講座 (金児 昭)

2006-04-21 00:21:20 | 本と雑誌

 この本も「ふとっちょパパ」さんのBlogで紹介されていたので手に取ったものです。

 著者の金児昭氏は「公認会計士試験委員」をされていたのですが、だからといってこの本で教科書的な「会計(簿記)」の知識を得ようをするとそれは無理です。本のタイトルも「教わらなかった会計」とありますから、「教科書」には書かれていないことが、この本のメッセージです。

 そのメッセージは、著者の以下の言葉に凝縮されています。

(P44より引用) 会計の目的とは何でしょうか? これは私の考えですから強要はしませんけれど、それは「人間を幸せにすることだ」と思っています。

 もう少し具体的に説明しているくだりは、以下の部分です。

(P179より引用) 繰り返しますが、私は、会計学は人間を幸せにするためにあると思っています。人間というのはもともと弱いものです。弱いから、その弱いものを大きな柔らかい網で囲ってあげる。そうすることで、弱い心につけ入れられるような事態から守ってあげる。そして、この外の領域には出ないようにしてあげることで、世の中をよくしようというのが、会計学に対する基本的な考え方です。会計学は会社の中の専門の部署とか、学者とか、そういう人たちだけのものであってはいけないのです。一番勉強しなければいけないのは全国のトップ、社長です。そうしないと、会計学は人間が幸せになるための学問にはならないという判断を、私はしています。

 会計を通した著者の経営哲学を開陳した書です。

 そのあたりの想いは、時価会計に対する著者の主張や連結経営(グループ経営)においての基本理念等の表明に明確に表れています。

(P182より引用) 時価で評価するというのは、会社で物をつくるということの意味づけを考えるのではなく、その会社を瞬間的な価値で評価してしまうことにほかなりません。会社そのものを売ったり買ったりする評価の対象にするということです。だから反対というわけです。
 我々は毎日生きていきます。毎日の生活にも連続性があるわけですね。・・・
 いつでも、ある時点、一瞬の残高、あるいは市場価値だけを見る生活が人間らしいものでしょうか。人間というのは、そういうものではないと思います。

 こういった金子氏の主張は、主として製造業に対しての時価会計適用反対が起点です。
 しかしながら、それにとどまらず、時価会計の適用拡大についても警鐘を鳴らしています。ある一瞬のすべての状態を単位「円」で評価することについてのアンチテーゼです。それは、企業活動は連続したものであり、その中で営まれている継続的努力やプロセスも正当に評価すべきとの考えの表明だと思います。
 昨今、一部IT企業の粉飾決算が話題になっている中、再考されるべき考えの機軸であると思います。

 あと、もう一点、金子氏の会計学の位置づけ・意味づけの根底にある考え方は、「経営における性善説」です。
 これが典型的に表れるのが「連結経営(グループ経営)」のシーンにおいてです。

 (P254より引用) 全社一丸となって、ある方向に向かって、しかも、それぞれが自主性を持って進む。上から押しつけられるのではないのです。管理とかコントロールとか、そういう考え方で押さえられるのでなく、自分もそうしなきゃいけないなという気持ちでやった仕事が、ほんとうの性善説に基づく連結経営です。

 このあたりの点は、特に昨今身近なテーマです。(性善説で進められればいいのですが・・・)

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「わかったつもり」の弊害 (わかったつもり(西林克彦))

2006-04-20 01:44:47 | 本と雑誌

 さて、本書のテーマの「わかったつもり」ですが、まずは以下のようにissueを提起します。

(p41より引用) 「読む」という行為の障害は、「わからない」ことだと一般には考えられています。このことは、「わからない」から「わかる」に達する過程では、そのとおりです。
 しかし、「かわる」から「よりわかる」に至る過程における「読む」という行為の主たる障害は、「わかったつもり」なのです。「わかったつもり」が、そこから先の探索活動を妨害するからです。

 著者のいう「わかったつもり」にはさまざまなパターンがあります。
 「結果から」とか「最初から」とか、それぞれ具体的な構造を例をもって示していますが、私が気づかされたのは、「『いろいろ』というわかったつもり」でした。
 「いろいろある」と思った瞬間にその先への追求心がなくなってしまうというのはそのとおりで、気をつけなくてはなりません。

(p149より引用) 多様性に圧倒された結果、「いろいろある」と思ったとすれば、人はそれ以上の追求を止めてしまいます。または、これ以上探求するのが面倒で、「いろいろある」と思うことによって、けりをつけたつもりになるということもあるでしょう。これらが「いろいろある」という文脈の魔力がもたらす結果です。・・・うまく分類や整理ができそうにないとき、「いろいろある」という言い方が言い訳として使われるのではないでしょうか。

 また、「わかったつもり」の典型的なパターンとして「ステレオタイプの当てはめ」をあげています。

(p155より引用) 読み手が自分の持っている「ステレオタイプのスキーマ」を文章に簡単・粗雑に当てはめてしまうことによって、間違った「わかったつもり」や不充分な「わかったつもり」を作り出してしまうことがあるのだということを、私たちは、はっきりと確認しておく必要があります。

 このステレオタイプには、いわゆる過去の記憶・先入観等の「思い込み」が根底にあるものもありますし、「善きもの」「無難」「当たり障りのない」といった情緒的な概念によるものもあります。これらの「受け入れやすい概念」が「わかったつもり」に誘導するのです。

 こういった原因による「わかったつもり」状態を壊すのはなかなか大変です。まずは、意図的に意識することです。

(p169より引用) 自分は「わかっている」と思っているけれど、「わかったつもり」の状態にあるのだ、と明確に認識しておくことが重要です。

 なんとかして「わかったつもり」を壊すことができれば、そこに今まで気づかなかった「矛盾」や「疑問」が出てきます。この新たな「気づき」が極めて重要です。

(p119より引用) このような「矛盾」や「疑問」は、次の「よりよくわかる」ための契機となるものです。「矛盾」や「疑問」はネガティブに捉えられることも少なくないのですが、むしろ次の解決すべき問題を発見できたという意味で、「認識の進展」という観点からはポジティブな存在なのです。

 あと、本書の最後の方に「解釈の自由と制約」という章があります。
 この章では、「わかったつもり」の打破による解釈の深まりというコンテクストの中で、現代の国語教育の課題を提起しています。
 学生時代の国語教育における「読解」のジャンルでは、ほとんどの人が納得しきれない気持ちをいだいたことがあるのではないかと思います。たとえば、典型的なものとしては、文章題のテストでよくある「・・・の説明として最も適切なものを、以下の1~5のうちからひとつ選べ」といった問題の場合です。
 「作者の解釈」が明確でない以上「出題者の解釈」と「自分の解釈」とどちらが正しいとはいえないだろう・・・という不信感です。

(p206より引用) 整合性のある解釈は、複数の存在が可能です。したがって、唯一絶対正しいという解釈は存在しません。しかし、ある解釈を「整合性がない」という観点から否定することは論理的にも実際にも可能で、しかも簡単です。ですから、「正しい」と「間違っている」という判定は、シンメトリーなものではありません。後者は明確に判定できますが、前者は「整合性はある」とか「間違っているとは言えない」という判定しかできないのです。

 このあたりのくだりは、自分にも同じような思いをした経験があるだけに、なかなか興味深かったです。

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「わかる」の分水嶺 (わかったつもり(西林克彦))

2006-04-18 23:54:24 | 本と雑誌

 以前から「わかったつもり」の弊害について気になっていたのですが、似たような問題意識のタイトルの本があったので手にとってみました。
 内容は、「読解力」(文章に書かれていることの理解)にフォーカスしているので、私の関心と完全にスコープが一致しているわけではないのですが、かなり頭の整理にはなりました。

 本書の著者の西林氏は、まず、「わかった」という状態について、以下のように説明しています。
 「わかる」ためには、それまでに獲得している知識を無意識のうちに使っている。そして、それによって文の「部分間の関連」を理解しており、部分間の関連がつくと「わかった」気持ちになる。

 本書であげられている「なるほど」という例をお示しします。

(p31-32より引用)
①サリーがアイロンをかけたので、シャツはきれいだった。
②サリーがアイロンをかけたので、シャツはしわくちゃだった。

 ①は、そのとおりです。ここでは、アイロンはしわを伸ばすための道具だという周知の事実が背景にあります。
 ②は、サリーはアイロンかけが不得手だという特別な知識の前提が必要です。この前提があってはじめて「部分(前後)間の関連」がつくのです。

(p32-33より引用)
③小銭がなかったので、車を持って行かれた。
④布が破れたので、干し草の山が重要であった。

 このあたりの例示は秀逸だと思います。
 この2つの文を理解するには、ヒントの言葉が必要でしょう。③は「パーキングメーター」、④は「パラシュート」。
 逆に、このヒントがあるとすっと理解が進んでいきます。読む人の納得感が得られやすい親切な説明だと思います。

 こういったわかりやすい例を豊富に取り入れて、西林氏は「わかる」ということと「よりわかる」ということを説明して行きます。

 西林氏の目指している「読解力の向上(=読みを深める)」は、結局のところ、「読み」の場合だけではなく、「よりわかる」という状態を目指しているという意味で、すべての意思伝達(コミュニケーション)において、その質の向上に役立つものです。

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分からない ≫ 分かったつもり

2006-04-17 21:42:26 | ブログ

 何かを説明していて「はい、ここまでで何か質問は?」と声をかけたとき、「○○のところがよく分かりません」と手があがる場合はまだ安心できます。
 しかし、往々にして何も質問が出ない場合が多いものです。(あまりにも説明内容がひどすぎて質問する気にならない場合もあるでしょうが。)

 この場合危ないのが「分かったつもり」というケースです。
 本当の趣旨を理解していないもしくは誤解しているのですが、本人からすると「分かった」と思い込んでいるのです。本人は「分かっている」ので当然質問は出ません。

 「分からない」人は、本人が「分かっていない」ことを自覚していますし、まわりの関係者もそれに気づいていますから、それなりの対応ができます。
 が、「分かったつもり」の人は、実態は「分かっていない」のですから厄介です。それが偉い人であれば、なおさら・・・です。

 「分かったつもり」の人を見分けるのは、本人の自覚がない分堂々としていますから、結構難しいです。ともかく、「ん?、ちょっとずれてるな」と感じることがあったら、その都度確かめることです。

 「分かったつもり」の同床異夢は必ずどこかで大きな不具合を招きます。「ひょっとしたらのアンテナ」で敏感にキャッチしましょう。

 このテーマについては、最近、西林克彦氏の「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」という本を読んでみましたので、その感想のBlogの中で、もう少し詳しく論点をご紹介します。

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加速学習法実践テキスト (コリン ローズ)

2006-04-16 10:14:43 | 本と雑誌

 先の2つのコメントでこの本に書かれているメッセージに触れましたが、それ以外で私が気になったフレーズをご紹介します。

 まずは、誰でも心当たりのあることです。

(p95より引用) 「皆が同じような考え方をするときは、誰一人として深く考えているものはいない」(ディー・ディキンソン

 つぎのフレーズは前向きで分かりやすく個人的には好みです。
 まさに誰でもその気になればできる極めて簡単なアクションで「Win-Winの相乗効果」が得られるわけです。

(p122より引用) 「私が1ドル持っていて、あなたも1ドル持っています。お互いにそれを交換してもどちらも前と同じです。」
「でも、私がアイデアを持っていて、あなたもアイデアを持っていると、お互いにそれを交換すれば2人とも前より豊かになります。」

 また、この例示も具体的なイメージが湧いて分かりやすいものです。
 目標(らしきもの)を定めたつもりでも、それが「目標はこれだ」「目指すところはここだ」とキチンと明示されないと具体的アクションプランは作れませんし、望ましい方向に動き出すこともできません。

(p201より引用) 本当の問題が何かを定義することが重要なように、目標が何かをはっきりと定義することも大事です。
 あなたは、見えない標的を射抜くことはできません。一方、標的の周囲に円を描けば、的を射やすくなります。目標を正確に表現すると、本当の問題に焦点が絞られます。

 以下のフレーズは、失敗を活かす具体的なアドバイスです。
 失敗はその「数」を数えても意味がありません。失敗の「内容・原因」を掴んでこそ解決のヒントになるのです。そして、失敗を次のアクションの種にすることが、私たちを「改善のスパイラル」のスタートラインに導くのです。

(p154より引用) 誤りは、もっと注意を向ける必要があるものを見る機会にほかなりません。ですから、いくつ誤りがあったかではなく、それがどんな種類の誤りであるかに集中しましょう。

(p173より引用) 「次回はもっとうまくやるために、このことから何を学ぶことができるだろう?」と問いかけることによって、足元の障害物を、踏み石に変えることができます。

 最後は、書き出してしまうと至極当り前のことです。が、この3点を正真正銘実践できている人は少ないのでしょう。

(p173より引用) 著述家のスティーヴン・コヴィーは、大きな成功を収める人々には、いくつかの共通した特徴があると言います。
1.彼らは、成功したらどうなるかという明確なビジョンを持っています。→最初に目標を心に描いてから始めること
2.彼らは、自分のすべての行動に責任を持ちます。→自分の行動に責任を持つ
3.彼らは、絶えず自分の行動を振り返っています。→自分の失敗から学ぶこと

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様々な学習スタイル (加速学習法実践テキスト(コリン ローズ))

2006-04-15 01:58:38 | 本と雑誌

 この本は、ステレオタイプの学習術のHow To本のようなタイトルですが、内容は思いのほか幅広です。

 人それぞれの多様性を前提に、個々人に合った学習スタイルがあること、その多様性の具体的な要素としての「知能」にもいろいろな種類があることを示した上で、これらの「知能」を効果的に組み合わせて学習することを勧めています。

 この本で言う「知能」は、ふつうに抱く「知能」のイメージとはちょっと違います。むしろ、「能力」に近いかもしれません。これらの知能=能力を発揮して学習に向かうのです。
 具体的な「知能」とは以下の8種類です。

  1. 言語的
  2. 数学的/論理的
  3. 視覚的/空間的
  4. 音楽的
  5. 身体的
  6. 対人的/社会的
  7. 内面的
  8. 博物学的

 さて、学習に役立つパワーツール(具体的How To)ですが、著者は以下のようなポイントを示しています。

(p178より引用)

  • WII-FM(What’s in it ? For Me:自分はそこから何を得ることができるか?)を決める
  • 成功のビジョンを創る
  • 全体像を見る
  • 知っていることをチェックする
  • 何を知らないかを定義する
  • 疑問を持つ
  • 適切な活動を加える(図表/視覚化等)
  • 休憩を取る
  • テーマについて調べる
  • 要点を記憶する
  • 知っていることを試す
  • 振り返り

 最初の「心の準備」が特徴的です。

 また、こういう指摘もあります。

(p186より引用) 人々が最もよく学習ができるのは、あまり脅威を感じない、エネルギーの高い環境のもとである、ということがわかっています。どうしたらそのような環境を作ることができるでしょう?

 これが会社での「学習」だといわゆる「職場環境」の問題です。(「職場環境」については、また別の機会に書きたいと思います)

 企業での学習の場合は、以下のコメントが有益です。

(p188より引用) 変化に対する答えは、変化を拒まず、それに適応することを学ぶことです。さらに良いのは、自分たちで変化を創り出すことです。以上の点は、なぜ私たちが、素早く学習ができ、創造的な分析のできる人でなければならないのかを説明しています。

 今の時代、マーケットに追随する「変化への対応」はすでに当然で、新たなマーケットを生み出す「変化の創造」が目指されています。そのための「学習」ということです。

 この本は、「既定唯一の答(解決策)を見つけ出すスキル」をつけるHow Toものではありません。(そういうものとして読むともったいない内容です)
 「解のないところから解決策を導き出す」ための「分析的思考」と「創造的思考」との重要性を示し、それらを身につけるための具体的な学習方法を示している本です。

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小さな組織=トップダウン=迅速? (加速学習法実践テキスト(コリン ローズ))

2006-04-13 00:12:05 | 本と雑誌

 この本の前書きに、以下のような「学習する組織」についてのコメントが書いてありました。

(p13より引用) 学習する組織では、人々はトレーニングを受けるまで待ってはいません。あなたは、自分の職務で(また個人の生活においても)成功を収めるためには何を学習すべきかを自分で決めて、率先してそれを学習する必要があります。「ボトムアップ式の学習」が、「トップダウン式のトレーニング」に取って代わります。

 よく、変化に対応し迅速に動くためには、「小さい組織でトップダウン型でなくてはだめだ」と言われます。「大きな組織は、重層構造でスピーディな意思決定はできない」からというのが一般的な理由です。
 しかしながら、それは本当でしょうか?
 確かにすべての意思決定が「トップ」に委ねられているのであればそうかもしれません。が、そういう企業は強い企業でしょうか?

 課題のひとつひとつが、その場で意思決定され解決できれば、その方がより多くの課題に迅速に対応できたことになります。
 すなわち、組織の構成メンバひとりひとりの意思決定能力が高まる方が、組織トータルの対応力ははるかに広く大きくなるのです。
 いかにスーパーマンのトップであっても、その能力には限界があります。また、リスクマネジメントの観点からも一点集中型のマネジメントには問題があります。コンピュータシステムと同様に、組織も冗長構成をとっておかないと事業継続性(business continuity)は保てないのです。

 最大のリスク分散は、組織メンバ全員のCPU化です。マルチタスクを処理する分散型コンピューティング、最近の流行のコンセプトでは、グリッド・コンピューティングを実現するWeb型組織がひとつの解だと思います。メンバはI/O装置ではありません。
 「学習する組織」というのは、メンバがCPUであるからこそ実現できるのです。

 私は、組織の規模と組織としてのagility(アジリティ)とは基本的には無関係だと思います。もし、大企業でアジリティが阻害されているとしたら、それは、以下の2つのケースでしょう。

 ひとつは、正しい意思決定できる下位組織(所属メンバ)にうまく権限委譲ができていないケース。
 今ひとつは、意思決定できる能力のない組織(メンバ)に権限委譲をしてしまっているケースです。

 いずれの場合もメインフレームを中心にした統合型コンピュータシステムがダメというわけではありません。
 統合型システムを構成する各サーバへの適切なタスク分散ができていないだけです。

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