本書は、扱っている対象が「いき」というちょっと色気がかった美意識なのですが、その構造解明の論旨は緻密です。というか、今までこういった詰め方にはあまりお目にかかったことがなかったというのが、正直な感想です。
「いき」を国語辞典で引くと、「気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられること(さま)。粋(すい)。」とあり、それなりに、そんなもんだよなぁと思ってしまうのですが、九鬼氏にかかると、
- 「いき」の内包的構造
- 「いき」の外延的構造
- 「いき」の自然的表現
- 「いき」の芸術的表現
と諄々と論を進めていきます。
(p27より引用) 「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。
といった感じです。
九鬼氏によると、「いき」は「二元性」を要し、図形のうちでもっとも直接的に「二元性」を表わした「平行線」すなわち「縞模様」を「いき」だと感じるのはそれゆえだと言います。
(p63より引用) しからば、模様としての「いき」の客観化はいかなる形を取っているか。まず何らか「媚態」の二元性が表わされていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦め」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做されるのは決して偶然ではない。
さらに、縞といっても「横縞」でなく「縦縞」の方が「いき」である。それは、目が左右水平についているから、重力の影響があるからと論は進みます。
(p64より引用) まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。・・・その理由の一つとしては、横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるということがあるであろう。両眼の位置は左右に、水平に並んでいるから、やはり左右に、水平に平行関係の基礎の存するもの、すなわち左右に並んで垂直に走る縦縞の方が容易に平行線として知覚される。平行関係の基礎が上下に、垂直に存して水平に走る横縞を、平行線として知覚するには両眼は多少の努力を要する。・・・なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。・・・
どこまで本気で思っているのか?、読み進めるうちに九鬼ワールドに引き込まれていく奇妙な快感を感じる本です。
(p68より引用) 「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ。・・・模様が平行線としての縞から遠ざかるに従って、次第に「いき」からも遠ざかる。
と書かれても、なるほどそうだとその気になっていきます。