ストア哲学の特徴のひとつは、その実践倫理にあると言います。「我々の自由になることとならないこととの区別を強調する」のです。
ちょっと長いのですが、この点を「自省録」巻末の解説から引用します。
(p223より引用) 人間の力はかぎられており、その道には越え難い障碍物があらわれる。したがって賢い人間は何事を志すにあたっても、かならず「ある制約の下に」のみこれを考慮する。すなわち、そのことが到達されうるものであるかぎりにおいてこれを目的とするのであって、到達されえぬものであった場合には、さっぱりとこれを諦め、そのためになんの幻滅も苦痛も覚えず、なんの障害も蒙らない。それのみかかえってこの障碍物を利用して徳を発揮する機会となし、またほかの目的に達するための足場になしうる場合も少なくないのである。
実際の「自省録」の中にも、この考え方は多くの箇所に登場します。たとえば次のような言い様です。
(p204より引用) 悪人が悪いことをするのを承認しない者は、無花果の樹がその実に酸っぱい汁を賦与することや、赤坊が泣きわめくことや、馬がいななくことや、その他すべての必然的な事柄を承認せぬ者に似ている。こういう心の持ち方をしている以上こうなるほか仕方がないではないか。だからもしいらいらするなら、この態度を直せ。
この実践倫理にその他のストア哲学の特徴である「コスモポリタニズム」が加わると以下のような箴言になります。
(p142より引用) 人類はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。
(p163より引用) もし彼がつまずいたら、親切に教えてやり、見誤った点を示してやれ。それができないなら、自分を責めよ、あるいは自分さえ責めるな。
自己の力で動かしうるものと動かしえないものをきっぱりと峻別し、動かしえないものへの働きかけをやめるに全く躊躇しない態度は、時に安易な諦めや極端な割り切りにも思えます。
自己の力(叡智・指導理念(ト・ヘーゲモニコン))の及ぶ範囲をどこまで広げられるか、どこまで高められるかで、その思想の真価が定まるのでしょう。