「生物と無生物のあいだ」を皮切りに「動的平衡ダイアローグ」「フェルメール 光の王国」等々、福岡伸一氏の著作は何冊か読んでいます。
本書は「週刊文春」で連載された小文をまとめたものとのこと。とても穏やかで軽いタッチの読み物です。
本書の隋所に福岡氏一流の興味深い視座からのものの見方が開陳されています。
たとえば「働きバチは不幸か」という章。
(p27より引用) 働きバチたちは、女王が君臨する王国の奴隷のように思えるけれど、実は、そんなことはない。役の割り振りは人間の勝手な見立てにすぎない。ハチの国の主権者は、働きバチそのものである。女王バチは、実は女王でもなんでもなく、巣の奥に幽閉された産卵マシーン。・・・僅かな数だけ生み出される雄のハチもまた働きバチの支配下にあり、用が済めば餌ももらえず捨てられる。働きバチだけが、よく食べ、よく学び、労働の喜びを感じ、世界の広さと豊かさを知り、天寿を全うして死ぬ。・・・働きバチこそが生の時間を謳歌しているのである。
“なるほど、こういう捉え方もあるのか”と首肯できる面白い指摘ですね。
そのほかにも「進化論」を材料にしたくだりもなかなか面白いものでした。
ときどき聞く“進化論”の説明として、「キリンの首はなぜ長くなったのか」の理由を、「高いところにある葉っぱを食べようとする努力が代々受け継がれてきたため」というものがあります。これは、“獲得形質の遺伝”という今では否定されている考え方ですが、この説によると「使わないものは退化する」ということも導かれます。(最近では、獲得形質はRNAにより遺伝するという説も出てきているようですが・・・)
しかし、現在の考え方は「進化には目的がない」というものです。即ち「進化」は“自然淘汰”の結果に過ぎないということであり、その意味では「退化」と考えられるような変化も「進化」であるということになります。
(p90より引用) 親から子へ伝達されるのはDNAだけであり、前の世代で起こった適応的変化は、次の世代ではすべてリセットされてしまう。・・・DNA上にランダムに起きた突然変異によってのみ、その機能は損なわれる。
・・・もし「退化」が受け継がれ、種の中で広がり、形質として固定されるためには、その退化に積極的な理由が必要となるのだ。つまり「退化」には進化的な意味がなければならない。不用だから消えたのではなく、消えたことが有利でなくてはならない。
暗いところに生きる生物には「目」が退化したものがいます。「見えなくてもいい=目がなくてもいい」というレベルではなく、目がないことに積極的な有利点がなくてはならないということです。
これについての著者の仮説は「視覚を維持しようとするための情報処理の負荷やエネルギー消費の回避」というものですが、仮にそうだとしても、そうなる(視覚を構成する要素が消失する)ためには気の遠くなるような「偶然の積み重ね」に拠るというのが進化論の考え方なんですね。
生命と記憶のパラドクス 福岡ハカセ、66の小さな発見 (文春文庫) | |
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