下の娘が高校の教材として買っていた本です。
短編集としては読んだことがなかったので手にとってみました。気分を変える意味で、久しぶりの日本文学です。
巻頭に登場するのは、代表作の「檸檬」。
有名な「丸善」で画集を積み上げた上に檸檬を載せて立ち去るくだり以外に私の興味を惹いた表現、主人公が檸檬を見つける果物屋の店先の描写です。
(p10より引用) 果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面―的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。
こういった表現は、確かに巧みですね。
「冬の日」という作品の中にはこんなくだりもあります。
(p101より引用) 展望の北隅を支えている樫の並樹は、或る日は、その鋼鉄のような弾性で撓ない踊りながら、風を揺りおろして来た。容貌をかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨の踊りを鳴らした。
また、「桜の木の下には」では、
(p168より引用) 何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
当然ではありますが、私などどう逆立ちしても、思いつきもしない修辞技法です。
しかしながら、卓越した作者の表現力にも関わらず、私小説的な作品は、「内容」そのものとしてどうも私には馴染めないようです。
自らの病を素地とし、その不安定な苦悩の心情の吐露でもある作品に共感するには、読者側の繊細な感受性が必要とされるのでしょうが、私には、その感性が決定的に欠如しているからです。こればかりは、何とかしようにも如何ともし難いのです・・・。
檸檬 (集英社文庫) 価格:¥ 380(税込) 発売日:1991-05-17 |