OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

檸檬 (梶井 基次郎)

2012-07-26 21:39:52 | 本と雑誌

Lemon  下の娘が高校の教材として買っていた本です。
 短編集としては読んだことがなかったので手にとってみました。気分を変える意味で、久しぶりの日本文学です。

 巻頭に登場するのは、代表作の「檸檬」
 有名な「丸善」で画集を積み上げた上に檸檬を載せて立ち去るくだり以外に私の興味を惹いた表現、主人公が檸檬を見つける果物屋の店先の描写です。

(p10より引用) 果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面―的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。

 こういった表現は、確かに巧みですね。

 「冬の日」という作品の中にはこんなくだりもあります。

(p101より引用) 展望の北隅を支えている樫の並樹は、或る日は、その鋼鉄のような弾性で撓ない踊りながら、風を揺りおろして来た。容貌をかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨の踊りを鳴らした。

 また、「桜の木の下には」では、

(p168より引用) 何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

 当然ではありますが、私などどう逆立ちしても、思いつきもしない修辞技法です。

 しかしながら、卓越した作者の表現力にも関わらず、私小説的な作品は、「内容」そのものとしてどうも私には馴染めないようです。
 自らの病を素地とし、その不安定な苦悩の心情の吐露でもある作品に共感するには、読者側の繊細な感受性が必要とされるのでしょうが、私には、その感性が決定的に欠如しているからです。こればかりは、何とかしようにも如何ともし難いのです・・・。
 

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呪いの時代 (内田 樹)

2012-07-22 09:37:45 | 本と雑誌

Tokyo_yakei  内田樹氏の著作は「街場のメディア論」以来久しぶりです。
 今回手に取った本は、ちょっとインパクトのあるタイトルです。

 内田氏によると、「呪い」の言説は、1980年代半ばのニュー・アカデミズムといわれる批評あたりから際立ち始め、昨今、過激なスタイルを売りにした討議番組やインターネット上の「炎上」サイト等において、さらに攻撃的・破壊的になっていったとのことです。

(p16より引用) 「壊す」ことも「創造する」ことも、今ある現実を変えるという点ではよく似ています。ですから、「Change」という威勢のよいかけ声を挙げて興奮している人は、自分がものを壊しているのか、作り出しているのかということにはあまり興味を示しません。

 もちろん、Changeを訴え壊し続けていると社会は成立し得なくなります。しかしながら、「呪い」は破壊を目指します。創造より破壊の方が圧倒的に簡単だからです。

(p18より引用) 新しいものを創り出すというのはそれほど簡単ではありません。創造するということは個人的であり具体的なことだからです。

 本書のタイトルは「呪いの時代」ですが、本書を通して「呪い」について論じているわけではありません。「呪いの時代」である現代を内田氏的視点で切り取った小文集といった趣です。

 その中で「経済」について語っている「『日本辺境論』を超えて」の章に、興味深い指摘がありました。

(p150より引用) 経済活動は、有用な商品を手に入れることが目的であるのではありません。商品なんか何だっていいんです。何でもいいから、ぐるぐるとものが回れるように社会的インフラを整備すること。それが経済活動の第一目的だろうというのが僕の考えです。

 「ものをぐるぐる回す」即ち円滑な経済活動を実現するためには、「言語」「法律」「移動手段」「運搬手段」「製造手段」「関連学問」・・・、さらには、それらに適した「人間的資質」も要求されるとの考え方です。
 もうひとつ、この論でのポイントは、回すものは「もの」だということです。近年の「金を金で買う」金融経済、すなわち「(ものではなく)金を回す」活動は、何も生み出してはいないわけで、その意味では経済活動ではないとの指摘です。

 この考え方は、内田氏の「交換経済」から「贈与経済」へという主張の一部であり、この考え方の延長線上に、今回の東日本大震災を契機とする国民の価値観の変容に向けた見通しも述べられています。

(p259より引用) 21世紀の日本、東日本大震災後の日本社会は「金以外のもの」を行動準則に採用する人々によって担われてゆくことになるだろう。それは・・・市民たちの経済的な行動がローカルに、あるいはパーソナルに「ばらけてゆく」ということであり、それは東京一極に資源が集中し、国民全体の価値観が「東京規格」に準拠するといういまの社会のあり方のラディカルな再編をもたらさずにはおかないだろう。

 さて、本書を読んで、最も面白いと感じた主張は、「『婚活』と他者との共生」という章における「結婚」の意味づけについてのくだりです。
 著者は、現代日本社会の深刻な問題は「他者との共生能力の劣化」だといい、その共生能力を開発する上で、「結婚」という制度は優れていると説いています。

(p120より引用) 配偶者が示す自分には理解できないさまざまな言動の背後に、「主観的に合理的で首尾一貫した秩序」があることを予測し、それを推論するためには、想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。・・・一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な「パターン」の発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです。

 おそらく、結婚しているすべての人はこの著者の説に同意するのではないでしょうか。しかし、ほとんどの人は何度となく配偶者の主観的論理回路のトレースに失敗していることでしょう。もちろん私もです。


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遠くを見る (幸福論(アラン))

2012-07-16 07:58:07 | 本と雑誌

Alain_2  本書は、タイトルそのままの「幸福論」だと思って読むとちょっと感じが違うと思うでしょう。
 幸福も含めた「こころ」「気持ち」についての哲学的エッセイのような風情です。

 たとえば、こんなくだりがあります。

(p171より引用) 幸福は自分の影のようにわれわれが追い求めても逃げて行くと人は言う。しかしたしかに、想像された幸福はけっして手に入れることができない。でも、つくり出す幸福というのは、想像されないもの、想像できないものなのだ。・・・希望などは棚にあげて、信念を持つことである。壊すこと、そしてつくり直すこと。

 アランは、「思考」の中で「幸福」を論じることを是としてはいないようです。「考えよう考えよう」とすると、かえってその思考の虜になってしまって、結局のところ「幸せになるにはどうすればいいのか」と問い続けてしまう、すなわち、際限のない思索の谷間に落ち込んでいくとの危惧を抱いているのです。

 それ故に、本書に採録されている多くのコラムでは、アランは、あえて行動や体の動きという視点から、幸福の実現を語っています。

 幸福ではない状態のひとつは「憂鬱」です。アランが勧める憂鬱から脱する方法も、やはり「思考」ではありません。

(p172より引用) 憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ。人間の眼はこんな近距離を長く見られるようには出来ていないのだ。広々とした空間に目を向けてこそ人間の眼は安らぐのである。・・・自分のことなど考えるな、遠くを見るがいい。

  「遠くを見る」というは思想スタイルの比喩ではありません。真に、夜空の星や水平線といったような遠くの風景を見ることが、思考の狭窄から心を解放させることになるとの論なのです。

 ともかく、頭を使うことより、行動です。その点では、読書に解決策を求めることも、アランは否定します。

(p173より引用) 書物の世界もまた、閉じた世界、あまりに目に近い、あまりに情念の近くにある世界なのだ。思考がとらわれて、身体がうめく。なぜなら、思いが縮まるということと、身体が自分自身とたたかうこととは同じことであるから。

 本書の最後のあたりに「幸福になる方法」というタイトルの章があります。ここに記されている「方法」とはこうです。

(p307より引用) そのための第一の規則は、自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。・・・自分について不平不満を言うことは、他人を悲しませるだけだ、つまり結局のところ、人に不快な思いをさせるだけだ。

 苦しみを語ることは、人に嫌な思いをさせるとともに、自分自身もそれだけ長く不幸を感じ続けるということなのです。

 さて、本書を読み通しての感想です。
 こういったコラムが新聞の連載になるというのも、すごいことですね。そもそも新聞というメディアの位置づけが今と異なっていたのかもしれませんし、その当時の世情でもあるのでしょうね。
 私レベルの知識と感性では到底全編頭に入ったとは言えませんが、確かに深遠で興味深い内容のものが数々ありました。とてもユニークな著作だと思います。


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体の運動 (幸福論(アラン))

2012-07-12 23:08:30 | 本と雑誌

Alain  昨年の未曾有の大惨事を契機に「幸せ」をテーマにしたいくつかの著作が小さなブームになりました。その影響も受けて、以前から一度読んでみなくてはと思っていた著作を、今回手に取ってみました。

 著者はフランスの哲学者エミール=オーギュスト・シャルティエ、「アラン」はそのペンネームです。本書は、フランス、ルーアンの「デペーシュ・ド・ルーアン」という新聞に寄稿した「プロポ(哲学断章)」の中から「幸福」に関わるコラムを採録したものです。
 興味深い示唆・思索が数多く紹介されていますが、その中からいくつか覚えとして書き留めておきます。

 まずは、不機嫌なこと、暗くなるような辛いことを解消する方法です。
 アランは、頭ではなく身体を使うことを勧めています。

(p48より引用) 気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。

 こういった体を使うことは「礼儀作法」を大事にすることでも満たすことができます。「礼儀作法」は、ある種、動作の型を示したものだからです。

(p61より引用) 礼儀作法の習慣はわれわれの考えにかなり強い影響力を及ぼしている。優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうものだ。こういうお辞儀をしたりほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。

 このように「情念」のコントロールは「思考」ではできないとアランは考えています。

(p64より引用) むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ。人は欲するようには考えないものだ。・・・不安になやまされている時は、理屈でもって考えようとするのはやめたまえ。なぜなら、自分の理屈で自分自身の方が責め立てられることになるから。

 「自分の理屈で自分自身の方が責め立てられる」、この指摘はとても示唆的なものですね。思考には際限がありません。考えても考えても、思索の深みに嵌っていくのです。

 しかるに、「人はみな、己が欲するものを得る」という章で語っているようにアランは楽観的でした。しかし、その背景には、大きな前提条件がありました。

(p98より引用) 望んでいるものは何でも、人を待っている山のようなもので、とり逃がすこともない。しかし、よじ登らねばならない。・・・われわれの社会は、求めようとしない者には何ひとつ与えない。辛抱強く、途中で放棄しないで求めようとしない者には、とぼくは言いたい。

 ただし、「求める」とは、単に「そうなりたい」と思うことではありません。思うことと志すこととは全く異なる次元のものです。

(p104より引用) 期待を抱くことは意志をもつことではない。

 意志とは強い決意です。こうありたい、こうなりたいとの決意は、その「望み」に向かう「行動」によってのみ顕れるのです。

(p96より引用) 運命とは移り気なものだ。指先の一はじきでもって新しい世界が出来上がる。どんな小さな努力でも、それをすることで、無限の結果が生まれてくる。

 本気で求めることは、そのための努力を惜しまないことです。どんなことからでもいい、ともかく、まず動き始めることです。


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大停滞 (タイラー・コーエン)

2012-07-06 22:06:26 | 本と雑誌

Fukyo  2008年の世界金融危機後においても景気後退から抜け出せないアメリカ、著者は、その要因を“大停滞”というキーワードで説明を試みます。

 まずは、歴史を遡り、アメリカの経済成長を支えてきたのは、“容易に収穫できる果実”のおかげであったと指摘しています。「無償の土地」「イノベーション(技術革新)」「未教育の賢い子どもたち」の3つがそれです。
 そして、1970年代半ば、これらの要素が失われはじめた時期から、アメリカの景気拡大の流れは頭打ちになりました。

 こういったコンテクストの中で、特に著者が注目している要素が「イノベーション」です。

(p44より引用) イノベーションの主な対象が公共財から私的財に移行した。このひとことに、現在の“大停滞”を生み出しているメカニズムが凝縮されている。今日のマクロ経済の三つの主要な出来事―所得格差の拡大、世帯所得の伸び悩み、そして金融危機―はすべて、この現象の産物として位置づけられる。

 「無償の土地」「未教育の賢い子どもたち」といった要素は、今後大きな拡大は想定できません。イノベーションのみが、希望の光として残っています。

 しかし、このイノベーションも期待できるでしょうか。
 近年のイノベーションといえば、やはり「インターネット」です。インターネットの急激な普及により、人々の生活は大きく変化しました。しかしながら、著者は、その経済効果という点では疑問を抱いています。

(p80より引用) インターネットと過去の“容易に収穫できる果実”との間には、ほかにも大きな違いがある。それは、雇用を生み出す力の違いだ。・・・
 インターネット上でおこなわれている活動のほとんどは、過去の画期的なテクノロジーほどのペースで雇用と収入を生み出していない。

 近年のアメリカ経済で言われる「ジョブレス・リカバリー」の一因です。

 とはいえ、最終章において、著者は好転の兆しも見えてきていると指摘しています。新たな“容易に収穫できる果実”の登場の可能性です。

 まずは、「無償の土地」に対応するものとしての「中国やインドの発展」。新たな労働力や消費者を生み出すものと大きく期待できるとともに、今後の教育・研究の充実次第では、イノベーションの担い手として台頭してくるの可能性もあります。
 二つ目は、「イノベーション(技術革新)」。先に、インターネットの経済効果については疑問を呈していた著者ですが、教育・研究に対するインターネットによる貢献には注目しています。豊富な情報の共有が、新たな科学研究活性化のための媒体として機能するだろうとの指摘です。
 そして、三つ目は、「未教育の賢い子どもたち」に相当する部分。これは、近年の学校教育の質の向上です。

 これら第二の“容易に収穫できる果実”が得られるとするならば、経済は好転に向かうと、著者は楽観しているようです。

 さて、以上のような本線の立論とは別に、本書を読んで、私が気になったくだりをひとつ書き留めておきます。
 「経済状況と政治との関わり」について論じている第五章からの一節です。

(p89より引用) 過去40年、アメリカ人の大半は、政府に能力以上の過大な期待を抱いてきた。いま政府が十分に機能していない根本的な原因は、そこにある。過大な期待をされた政府は、自分たちの能力の限界を認めるのでもなく、国民の期待を抑制するのでもなく、国民を欺きはじめた。実際にはできないことまで、あたかも実行できるかように振る舞うようになったのだ。

 政府への「期待」は、アメリカは熱烈な支持であり、日本は楽観的な空気でした。そして、両国とも、現時点ではどうやら裏切られたということのようです。


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発売日:2011-09-22



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