OMOI-KOMI - 我流の作法 -

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ガイアの夜明け 復興への道 (テレビ東京報道局)

2012-01-29 09:38:59 | 本と雑誌

Gaia_fukkou  テレビ東京の番組「ガイアの夜明け」で放映された東日本大震災関係を中心とする16の話を採録したものです。

 テーマは、タイトルどおり「復興」。未曾有の大震災の悲劇から力を振り絞って立ち上がろうとしている人々の不屈の姿勢が心に迫ります。

 本書で紹介された数多くの貴重なエピソードの中からいくつか書き留めておきます。

 震災直後、ライフラインは壊滅的で、被災された方々は被害の少なかった地方に身寄りをたずねて脱出しようとしました。しかしながら、その足もありません。

(p15より引用) 山交バス運行責任者の結城さんは、地震発生直後からほとんど不眠不休で、日本海側に出る臨時便の手配に奔走していた。・・・震災から二週間で、延べ四万人もの貴重な足となった。
 結城さんは「採算は割れている。帰りはすべて空席だから」と言う。山交バスは、被災した人たちを安心できる所に届けるために、採算度外視で各方面への臨時バスを増発したのだ。

 遠方へ逃れることができない被災者のみなさんは仮設住宅が頼りです。
 その準備の迅速性に関しては、中央省庁と地元地方自治体との間で大きな差がありました。岩手県住田町では、地震発生わずか3日後には建設をスタートさせていました。

(p40より引用) 一日でも早く被災者を受け入れようと、多田町長は議会の決議を待たず、独断で着工に踏み切り、五月末までに九三戸を建設する計画を打ち出した。・・・しかも、建設費用の三億円は町の負担とした。補助金を当てにして国や県の指示を待っていては遅いと判断したのだ。
 この町長のリーダーシップに町の企業も応えた。地元建設会社の千田明雄社長は、「せっかく行政が頑張っているんだから業界の我々も頑張らなくては」と自ら現場監督に名乗り出た。

 宮城県名取市でオイル専門リサイクル業を営む武田洋一さん
 自社の廃油処理工場は津波で大きな被害を受けましたが、県外の仲間の協力によりいち早く再稼動させました。最初の仕事は打ち揚げられた漁船の廃油処理です。そこで分離された「油水」は、岩手県一関にある三菱マテリアルの工場でセメントに生まれ変わります。副工場長の小松さんの話です。

(p212より引用) 「震災でできた不用物を使って、できるだけ復興の材料を作る。それで復興支援ができれば一番いい。・・・」

 震災の傷跡を消しながら復興の足がかりをつくっていくリサイクルの営み。被災地の人々が、自ら置かれた苛酷な環境の中で、未来の再生に向けた取り組みを始めています。

(p213より引用) 「私たちの仕事って、こういう災害の後、必ず必要になってくるものだと思う。亡くなった人はいっぱいいらっしゃるけど、残った私たちで、前よりもいい町にしたい。頑張りますよ

 武田社長の力強い思いのこもった言葉です。

 さて、本書を読んで、最も感じたのはすべてのエピソードに通底する「気概」でした。
 被災者の方々の頑張りやそれを支援しようと立ち上がった人々、そこには理屈や建前ではない「自分がやらなくては」という強い「意志」がまずあるということです。目先の損得など度外視した行動は、そういった気概から生起されたものです。

 とはいえ、そういった気概だけで現実社会の中で動き続けることができるかといえば、それはものすごく大変なことでしょう。気概が現実に押しつぶされる前に、気概を支える現実を何とかして一刻も早く作り上げなくてはなりません。


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歴史とはなにか (岡田 英弘)

2012-01-25 22:50:51 | 本と雑誌

Kobayashi_izanami_and_izanagi  はるか昔に読んだE.H.カーを思い出すタイトルです。
 とても抽象的なだけに、かえってどんな内容だろうかと興味がわきます。著者の岡田英弘氏は、東京外国語大学名誉教授、中国・日本古代史の専門家です。

 まずは文字どおり、著者による歴史の定義から。

(p10より引用) 「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」

 何が歴史かというのは、個人の範囲を超えて何を歴史と認識するかということだとの論です。
 そういった観点から、著者は、歴史特に中国史・日本史における通説的考え方を検討していきます。本書で開陳されている著者の指摘には、独自の立論に基づく興味深いものが多数ありますが、それらの中からいくつか以下にご紹介します。

 まずは、「柳田国男の民俗学の位置づけ」について言及した部分です。 

(p102より引用) 柳田民俗学は、常民文化の復原をこころざした。・・・
 日本の常民のなかには、唐心で汚染されていない、本来の日本(大和)民族のおこない、姿が残っているはずだ。これらを拾い出し、洗い清めて、うまくつじつまを合わせて組み立てれば、古代ギリシア神話のような、美的に調和のとれた、壮大な構造がつくれるのではないか。それを、日本人のアイデンティティの基礎にしよう、という試みなのだ。

 著者は、日本において「歴史」が重視される理由として、「明治以後の日本人の国民的なコンプレックス」があると考えています。
 19世紀、日本は外圧により開国したことから、古来の自分たちの文明に代わって全く異質な外来の文明の採用に動きました。さらに、第二次世界大戦の敗戦という社会的・精神的断層も経験しました。こういった道筋が特異なコンプレックスを生起させ、新たに日本人としてのアイデンティティの再構築が求められたのだという論です。

 それから次は、「正史」についての論考。
 著者の歴史の定義では、「一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で」との要件がありますが、これは「価値中立性」を求めたものではありません。「よい歴史」は普遍性を有するものですが、個人が記す以上、完全に普遍的であることは不可能でしょう。著者の描く「歴史」の現実的な姿は、分かりやすくいえば、「自己の立場を正統化する物語」だともいえるようです。

 そういう観点からみると各国・各王朝の「正史」の記述内容には、多かれ少なかれ、それが書かれた政治状況を踏まえた史実の取捨選択・改ざん・創作が見られるのです。すなわち、正史は、「時の権力の正統性の根拠づけ」のためという合目的的な記述であるということです。

(p134より引用) そもそも、もともと七世紀、八世紀に日本で歴史を書きはじめた人たちだって、『日本書紀』で民族の起源を語っていたわけじゃない。・・・語っていたのは、皇室の君主権の起源だったのであって、民族や国民の起源じゃなかった。ところが、われわれはつい、十九世紀に発生した国民という観念、二十世紀に発生した民族という観念で、こういう歴史書を、読みかえてしまうのだ。

 したがって、この類の「歴史」は史実とは限りませんし、そこに描かれている内容はごく限定的な視点のみにフォーカスされているのです。ここに、著者は、「日本書紀」や「古事記」の記述から、日本「国民」、日本「民族」の由来を語ることの誤りを指摘しています。

 そして、もうひとつ、この「国民」とか「民族」という観念について。

(p165より引用) 「国家」や「国民」は十九世紀からはじまった新しい観念であり、「民族」はさらに新しく、二十世紀に入ってからできた、しかも日本でしか通用しない観念だから、そんな用語を使って、十八世紀以前の、国家や国民がまだなかった時代の歴史を叙述するのは間違いで、とんだ時代錯誤だ。

 著者の論では、「国民」という観念は、革命により王の財産を奪った受け皿として発生したものであるし、「民族」については、日露戦争前後日本で「nationalism」を「民族主義」と訳したのが起源の日本固有のものだというのです。

 最後に「歴史」を議論する際には必ず登場する「マルクスの唯物史観」についての著者の考えを書きとめておきます。
 著者は、特に現代史を論じる場合、唯物史観は議論に不適格なバイアスを生じさせるものだと考えています。

(p144より引用) 歴史には一定の方向がある、と思いたがるのは、われわれ人間の弱さから来るものだ。世界が一定の方向に向かって進んでいるという保証は、どこにもない。むしろ、世界は、無数の偶発事件の積み重ねであって、偶然が偶然を呼んで、あちらこちらと、微粒子のブラウン運動のようによろめいている、というふうに見るほうが、よほど論理的だ。
 しかし、それでは歴史にならない。・・・もともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ。・・・世界の実際の変化に方向がないことと、歴史の叙述に方向があることとは、これはどちらも当然のことであって、矛盾しているわけではない。

 唯物史観は「政治の論理」であって「歴史の論理」ではない。著者の考え方は明確です。


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モスラの精神史 (小野 俊太郎)

2012-01-21 08:50:22 | 本と雑誌


YouTube: モスラ(1961) [MOTHRA] 予告編

 私の幼いころ、映画といえば「怪獣映画」。東宝・大映それぞれでゴジラ・ガメラをトップスターにラドン・キングギドラ・・・、バルゴン・ギャオス・・・と数々の魅力的な怪獣が登場しました。が、その中でも「モスラ」は別格のキャラクタでしたね。

 著者の文芸評論家小野俊太郎氏はまさに私と同世代。その著者が、「モスラはなぜ蛾なのか」にはじまる「モスラ自体」の数々の謎、そして当時の世相を反映した「モスラ映画」に内包されたメッセージを解き明かしていきます。
 ということで、本書、私にとってもいくつもの発見がありました。

 まずは、「モスラ」の原作について。
 「モスラ」には、映画に先立った原作がありました。週刊朝日に掲載された『発光妖精とモスラ』がそれです。作者は当時中堅作家として注目されていた中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の三者。新進気鋭の作家ですから、当然、そこには何らかのメッセージが込められています。それは、「自然主義リアリズム」への批判であったと著者は指摘しています。

(p20より引用) 怪獣という奇想が、自然主義リアリズム、ましてや現実をそのまま平凡になぞって満足するタイプのリアリズムを抜けだす方法として、魅力的に見えたとしても不思議ではない。中村たちの『モスラ』への関与は、明らかに文学の現状への不満から発していた。

 モスラが上映されたのは1961年。米ソ二大国を核とした東西陣営の冷戦の真っ只中、日本国内も60年安保闘争の余韻が残っている時代です。当然、原作者たちの意識には、文学界のみにとどまらず当時の政治・社会状況に対する不満も鬱積していました。

(p64より引用) 『発光妖精とモスラ』には、中村たち三人の当時の政治状況への思いがこもっていた。中条という言語学者を中心におきながら、それを照らしだす福田という新聞記者をおき、物語の軸となる人物を中条から福田へと交代させることで、アカデミズムとジャーナリズムが、敵対したり分離したりするのではなく、共同して真実を暴く可能性をしめした。ネルソンという人物で表現された「ロシリカ」や、顔がどこを向いているのかわからない日本政府へのいらだちを、市民の側から解決する提案であった。

 「ロシリカ」とは、もちろん「ロシア(ソ連)」と「アメリカ」ですね。
 私のような世代にとっては、本書の論考はとても親近感を抱く内容だと思います。目次を辿っても、「第四章 インファント島と南方幻想」「第五章 モスラ神話と安保条約」「第十章 同盟国を襲うモスラ」「第十一章 平和主義と大阪万博」・・・と、当時の社会情勢を反映した切り口が並びます。

 もちろん、本書で指摘している内容が、すべて「モスラ」の製作者たちの意図であったかどうかは定かではありません。部分的には後付けの我田引水的考察もあるでしょう。しかしながら、そこで語られているエピソードや解釈は、やはり「モスラ」に、あの時代の映画としてのraison d'êtreを感じさせるものでした。

 

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もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち (チャールズ・ハンディ)

2012-01-18 23:36:12 | 本と雑誌

Toyota_kanban  会社の同僚の方の推薦で読んでみた本です。

 チャールズ・ハンディ氏の著作を読むのは初めてですが、「英国のドラッカー」と称され欧州を代表する経営思想家だそうです。本書は、1997年の著作ですが、その当時から市場至上主義・新自由主義の陥穽を的確に捉え、それに警鐘を鳴らしています。

 第1章のタイトルは、まさに文字通り「市場原理だけではうまくいかない」です。

(p28より引用) 理論的には、市場はあらゆるものを平準化させる。最終的には、すべてのものが最も優れた、あるいは最も安価なものに追いつくはずだ。だが実際に起きている事態はどうか。

 市場原理に基づく効率性の追求は、社会全体としては大きな歪を生み出しました。
 著者は、トヨタの「ジャスト・イン・タイム」方式をひとつの例として紹介しています。「工場の生産にあわせた部品を運ぶトラックの列が付近の道路の大渋滞を引き起こし、結果、税金による道路整備が必要になった」、つまり、トヨタは自らの改善コストを国民にツケ回ししたというのです。
 もちろん、効率性の追求による歪は日本だけの事象ではありません。

(p46より引用) 米大統領ジョン・F・ケネディの「上げ潮にのればすべての船が上がっていく」という想定は、間違っていたことがわかった。たとえ、すべての船が多少は動くとしても、一部の船が、他のものよりずば抜けて高く上がることになる。効率の追求は、社会をそうした一握りの者向けには有利に、ほかの多数の人々には不利なように傾斜させる。

 富の偏在の拡大という格差社会の出現はその最たる表出形ですし、先のサブプライムローンに端を発した金融危機も、利益最優先の金融工学等行き過ぎた新自由主義的手法が誘起させたものでした。

(p159より引用) 放任して、物事が最良の方向にいくとは限らない。自由放任には価値観というものが入っていない。他人に対し、だれも責任を取りはしない。これでは不適切な利己主義で、自己破壊になりかねない。

 著者は端的に市場原理主義を否定しています。

 さて、本書では、あるべき資本主義を説いた経営論のみならず、著者の経験にもとづく人生訓も豊富に語られています。それらの中で、私の印象に残ったものとして「成長」についての著者の指摘を書き留めておきます。

(p120より引用) 成長とは、同じ次元での拡大を意味するのではない。量的拡大より質的向上を意味するのだ。・・・私たちは、大きさが十分な点に達したときを知らなければならない。

 量的拡大には際限がありません。際限がないということは充足感がないことでもあります。「十分を知る」「足るを知る」、これにより人は「次なる高み」を目指す切替ができるのです。

(p122より引用) 一般的に見て、「充足」の論理を認めない社会では、社会の富に第一の選択権をもつ人が富を私有化するため、倫理不在に近い行きすぎが生ずることになる。

 この指摘は重要です。著者は、すでに1990年代後半、規制緩和により市場至上主義に向かう日本の状況をみて、「失業」「羨望」「暴力沙汰」が日本にも見られるようになると予言しています。

 本書で、著者は「適正な自己中心性」というキーフレーズをよく用いています。個人としては「利己と利他とがバランスよく調和した姿」であり、同様の姿勢を企業にも求めています。それにより「品位のある資本主義」が実現されるというのが著者の主張です。


もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち
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同行二人 松下幸之助と歩む旅 (北 康利)

2012-01-14 09:26:54 | 本と雑誌

Konosuke_matsushita_signature  今まで、恥ずかしながら、松下幸之助氏に関する本はほとんど読んでいません。以前「夢を育てる」を読んだぐらいです。
 今回は、年末年始に読む本を探しに図書館に行った際、目についたので手にとってみたものです。もちろん「松下幸之助」氏には興味がありましたし、タイトルや著者にも惹かれるところがありました。

 本書では、まさに「同行二人」、幸之助氏の生涯をともに辿っていきます。
 その中でもとりわけ私が興味深く読んだのは、「経営の神様」との別称に通じる若き日の幸之助の姿勢でした。たとえば、後年の幸之助氏の「非情」の真意に触れたくだりです。

(p42より引用) 功成り名を遂げた後の幸之助は、ビジネスのためには情をはさまないある種の「非情さ」を身につけていたが、五代自転車商会をやめる際の優柔不断な態度を見てもわかるように、それは決して先天的なものではない。ビジネスの世界に身を置く中で、優柔不断であることは双方を不幸にするだけだと悟り、時として非情になることを学んでいったのだ。

 富農の暮らしから一転貧乏のどん底に、そして、相次ぐ家族の不幸・・・。昔を語る幸之助氏には、触れたくはない「暗い時期」があったようです。とはいえ、幸之助氏は楽天的でした。そして、同時に謙虚でもありました。

(p75より引用) 彼は運を信じて逆境にもくじけず、成功したときには「運が良かった」と謙虚に思い、失敗したときには「不幸だった」と運のせいにはせず、「努力が足りなかった」と反省した。そのことが彼の成功につながったのだ。

 失敗を「他責」にしないのは成功者共通の姿勢ですね。

 さて、昭和4年(1929年)、ニューヨークに端を発した金融恐慌が世界中の企業を襲いました。ちょうど事業が軌道に乗り始めた松下電器も倒産の危機に直面し、当時大番頭の井植歳男は幸之助に従業員の解雇を申し出ました。幸之助は病床に居ましたが、何とか解雇なしで乗り切る方策を捻り出しました。

(p141より引用) 幸之助は、矢沢永一・関西大学名誉教授がかつて「シンカー(考える人)」と表現したように、考えて考えて考え続ける人だった。
「五つや六つの手を打ったくらいで万策尽きたとは言うな」
というのが彼の口癖であった。

 このときは解雇は回避できましたが、さすがの幸之助も終戦直後には止むを得ず従業員整理を行っています。「終身雇用至上主義」ではありませんが、終身雇用の精神には確固たるものがありました。

(p144より引用) 「終身雇用制とは社内に失業者を抱え込むことや。政府の失業対策の代わりをわれわれがやっているんや」

  「終身雇用の本質」を冷徹に意識しつつも、幸之助は「人は資本」であること誰にも増して強く思った経営者でした。「人」を大事にする気持ちは、従業員に対する厳しい姿勢にも繋がります。

(p155より引用) 時に厳しく叱りもしたが、それ以上に褒めることを心がけた。そして何より公平だった。

 この姿勢は、社員だけではなく、松下を支える「販売店」との対応にも貫かれました。有名な「熱海会談」での幸之助のことばです。

(p264より引用) 「『代理店のみなさんがもっとしっかりしてくださったならば』と思ったりもしましたが、それはたいへんな間違いでした。やはりその原因は私どもにある。そう思い直しました。・・・
 「今日、松下があるのは本当にみなさんのおかげです。それを考えると、私のほうは一言も文句を言える義理やない。これからは心を入れ替えて、どうしたらみなさんに安定した経営がしてもらえるか、それを抜本的に考えてみます。そうお約束します。」

 「事業部制」「週休二日制」「水道哲学」「新販売制度」・・・、幸之助の経営の先進性を示す施策は数多くあります。
 それらの成功から幸之助は「経営の神様」と称されましたが、あるとき新聞記者からその経営の要諦を問われた幸之助は、「『天地自然の理法』にしたがってきました」と答えたそうです。

(p275より引用) 信長の「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみしょうホトトギス」、家康の「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という、三者の性格を表した有名な言葉があるが、幸之助はこれらを、
「三つともホトトギスが鳴くことを期待してるから出てくる言葉ですな」
とした上で、
「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」
と、自らの境地を示した。

本書で、最も私の印象に残ったくだりです。


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逆転の正義 (正義論の名著(中山 元))

2012-01-09 09:24:13 | 本と雑誌

Nietzsche1882  本書は、西洋における「正義」の思想を古代から現代に至る流れの中で概説したものです。
 基本は、進歩史観的な変遷ですが、ところどころにその流れを堰き止める節目になるような興味深い思想家が登場します。

 その代表例は、やはりニーチェです。
 ニーチェの思想における代表的な概念「ルサンチマン」と正義について言及したくだりです。「ルサンチマン」は、支配される人々、「抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者」のうちに生じる怨恨の念です。

(p195より引用) 暴力は悪である。抑圧は悪である。・・・と、この受動的な人々は考える。だから優越する人々は悪しき者たちである。悪しき者たちに暴力を加えられるのは、善き人々である。だからわれわれこそが、善き者である

 ルサンチマンはこう考えます。ここにおいて、善とは、暴力を加えないこと、他人を攻撃しないこと、結局「何もしない」=行動の欠如と定義されるようになりました。ルサンチマンとして被害を受けた者が加害者を赦すことが正義であるとの考え方です。

(p196より引用) 優越した者がなすことは悪であり、不正である。・・・
 これは共同体の約束に違反する者に処罰を加える現世の権力者が不正であると考えることであり、正義の概念をまったく逆転させることになった。

 そして、被害を受けた者すなわちルサンチマンは「赦し」により正義の概念を弁証法的に止揚し、「恩赦」を与える神に等しい地位に昇るとされたのです。

(p197より引用) 「正義とは根本では、傷つけられた者の感情を発展させたものにすぎない・・・」

 公共善でもなく社会契約でもない、ニーチェのいうルサンチマンの正義です。

 さて、以降には、現代の「正義論」の中で私の印象に残った議論を覚えとして書き留めておきます。

 まずは、アメリカの政治学者マイケル・ウォルツァー「財が異なると正義も異なる」という主張。
 ウォルツァーは「配分的正義」においては配分の対象となる「財の多様性」が「正義の多元性」を生じさせると考えます。

(p235より引用) ウォルツァーは、この多元的な正義で必要とされるのは複合的な平等の議論であり、これは「20世紀の最も恐るべき経験」である全体主義の経験から生まれたものであると語っている。全体主義の社会は、「画一化、すなわち分離しているのが当然である社会的な財と生活の諸領域の体系的な同等化」を目指してしたからである。これにたいして「複合的な平等は全体主義の対立物である。最大限の同等化に対立するものとしての最大限の分化」を目指しているのである。

 次に、日本でも大ブームになったハーバード大学のマイケル・サンデル「善と正義」の議論。
 サンデルは、価値観が多様化する現代社会においてリベラルな公共的理性の意義を認めます。しかしながら、その公共的理性が「中立」を守れるかといえばそこには疑問をいだいていており、なんらかの対応の必要性を主張しています。

(p243より引用) 「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは達成できない。公正な社会を達成するためには、善き生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致をうけいれられる公共の文化を作りださねばならない」と考えるからである。

 こういった論者の考え方は、地勢的にも世代的にも多様な社会状況を反映したものですし、私の実感覚としてもとても馴染みやすい思想ですね。


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社会契約論と市民社会論 (正義論の名著(中山 元))

2012-01-06 23:07:11 | 本と雑誌

Kant  本書の第二章「社会契約論と正義」の中では、「公共善」とは別の、「自分自身の利益のための社会」という観点からの正義の議論の系譜が紹介されています。その流れは、ホッブズに始まりスピノザ・ロック・ルソーと続きカントに至ります。

 カントは、人類の歴史は正義が実現されるための歴史であると考えました。

(p125より引用) 当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基づいて全体的な社会を構築するようになる

 自然状態から社会状態への移行です。そしてその「社会」において正義が実現されます。

(p126より引用) 人間の作りだす社会は、「普遍的な形で法を執行する社会」、すなわち正義の社会でなければならない。

とされ、さらにその論は「共和制」から「世界公民状態」へと続きます。

(p134より引用) 共和制こそが、自由を原理とする国家体制であり、これは「人民の名において、一切の国民の提携のもとに、彼らの選出議員たち(代議士たち)をつうじて、彼らの権力を処理するための人民の代議制」である。この体制に到達することが、すべての政治体制の目的である。そこでこそ、国民は自由で平等になり、完全な正義が実現されることになるだろう。
 このようにしてすべての国家は共和制に到達することが望ましいのであり、この共和制の諸国家で形成される連合こそが、永久平和を実現するために出発点となるだろう。

 このあたりの主張は、カントの後期の政治哲学の著作である「永遠平和のために」で具体的に展開されています。

 さて、こういった一連の社会契約論者の論調に対して、「個人の徳」という観点から正義を考えたのがスコットランドのヒュームでした。

(p139より引用) 社会契約の系譜の哲学者たちは、カントのように悪人でもたがいに正義を尊重できるような社会の仕組みを考えるが、ヒュームやスミスの市民社会論の系譜の哲学者たちは、市民社会の仕組みのうちに、人々を善き者とするメカニズムがそなわっていると考える。社会そのものが、人間に正義の価値を教えるのである。

 この考え方は、私にとってなかなか興味深いものがありました。
 この論をもう少し具体的に辿ってみます。

(p144より引用) 社会契約の正義の理論では、契約によって所有権を保護する法律が定められ、その法律を遵守させ、侵害を処罰する政府が樹立される。しかしヒュームの理論では、所有権そのものが正義の産物であり、・・・社会における所有関係は、「自然な関係ではなく、道徳的な関係であり、正義を根底とする」のである。

 「本来人間は利己的な存在である」とヒュームは考えます。そして、この「利己」が「正義」に至るというのです。

(p145より引用) 人間の本性は利己心にあり、これは正義を守るものではない。しかし人間の利己心が、人間に正義を守ることの利益を教えるのであり、その意味では人間の本性は正義を実現するようになっているのである。「自利は正義を樹立する根源的な動機である」ということになる。

 「人々は社会に暮らすうちに、その本性から自然と正義を学ぶ」というこの立論は、とても独創的です。それも「利己心」がその根源であるというのは逆説的ですが、それゆえ説得力を感じます。


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公共善 (正義論の名著(中山 元))

2012-01-03 14:38:01 | 本と雑誌

Aristoteles   「正義」といえば、日本ではマイケル・サンデル氏の講義・著作が大きなブームとなりました。
 本書は、古代から現代までの西洋哲学における「正義」の思想のエッセンスを概説したものです。正直なところ、私の理解度は20%ぐらいでしょうか。その中でも、いくつか私の興味をひいた部分を覚えとして書き留めておきます。

 まずは、古代ギリシャ、プラトンとアリストテレスの思想に触れているところです。

(p28より引用) プラトンの正義の理論は、何よりも正義を人間の魂の内的な調和の問題として考察するというところがユニークである。・・・
 これに対して・・・公共善としての正義の概念を確立したのがアリストテレスである。

 「公共」という概念を意識したことにより、アリストテレスの「正義」は政治的な性格を備えることになりました。

(p31より引用) 正しい行為とは、たしかに個人の倫理的な資質であるが、その目的は魂の調和を維持することではなく、「国という共同体にとっての幸福またはその諸条件を創出し守護すべき行為」という政治的な目的を兼ねそなえているのである。「善き人間であるということと、ある任意の国の良き市民であるということは、必ずしも同じではない」のである。

 この考え方は「共同体の法律の遵守」という普遍的な「法における正義」ですが、もうひとつアリストテレスは特殊な正義として「均等性における正義」も議論していました。そして、こういったアリストテレスのポリス的正義論は、その後の西洋の正義論の思想的基軸となりました。

 この「ポリス的」思想をより普遍的に人類全体に適用されるよう拡大させたのが、ヘレニズム時代のストア派の学者でした。彼らの考え方は、共和政ローマ期の政治家であり哲学者でもあったキケロの著作においてみることができます。

(p42より引用) キケロは「同胞市民に対しては配慮すべきだが、他国人についてはその必要がない、と言う人々は、全人類に共通の社会を破壊している。この社会が消失すれば、親切、篤志、善良性、正義も根こそぎ失われてしまう」と明言している。ここにはギリシアの狭さを超越した人類のための正義の思想がはっきりと語られている。

 このようなオープンマインドは、征服民に対しても市民権を与えたローマ帝国の政治にも通底している思想ですね。

 その後、ローマ帝国ではキリスト教が国教となり、それに伴い「公共善としての正義」の概念も変容していきました。

(p47より引用) キリスト教の信仰においては、「正しい人」はもはや社会的な正義を行う人ではない。「神を愛し、また隣人を、人間にしたがってではなく、神にしたがって、自己自身のように愛することを志す人」こそが、善き意志をもった人と呼ばれ、「正しい人」と呼ばれるのである。

 アウグスティヌスは「身体も魂も神に服属する」ことを正義といい、「神学大全」で有名なトマス・アクィナスは、このキリスト教的正義とアリストテレス的正義との理論的調和を目指したのでした。


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