かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始ました。
この作品は「第23作目」です。今回の舞台は “吉野”。旅情を感じるには相応しいところですね。
この作品は何度かテレビドラマでも放映されましたし、市川崑監督作品として映画化もされているので、ストーリーは十分わかっています。なので、原作ではどう描かれているかが興味を抱くところでした。
で、その感想ですが、正直なところ大いに驚きました。原作を読んでいる “浅見光彦ファン” も楽しめるように配意したのかもしれませんが、映画化にあたってここまで手を入れているとは思いませんでした。先に「ストーリーは十分わかっています」と書きましたが、撤回します。
物語としては、全く別物といってもいいほどです。原作は「内田作品」、なかなかの力作。他方、映画は “横溝正史シリーズもどき” といった印象ですね。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
次は、「鞆の浦殺人事件」ですね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目についた本です。
内田樹さんの著作は今までも何冊も読んでいますが、こんなふうに視野にはいるとちょっと手を伸ばしたくなります。
「帯」には “ウチダ流「日本人論」” と大きく書かれいますが、必ずしも “日本人論を声高に説いている” わけではありません。とはいえ、いつもながら語られるところは、なかなか興味深い内容でした。
それら数々の指摘の中から、特に私の関心を惹いたところをひとつ覚えとして書き留めておきます。
「第6章 「書物」という自由な世界と「知性」について」の章から「思い上がりを叱る仕掛け」について語っているくだり。
内田さんは、歳をとってからの “旦那芸(習い事)” は「自惚れや思い上がりを諫める仕掛け」だと語り、その流れで “図書館の意味づけ” にも言及しています。
(p207より引用) 図書館の教育的機能もそれに似ている。・・・ 図書館の最も重要な機能は「無知を可視化すること」である。
(p208より引用) 私たちは図書館の書架の間を遊弋しながら、そこに配架されている本のほとんどを読んでいないことを思い知らされる。・・・その背表紙を見ながら、私は「たぶんこれらの本を私は一生手に取ることがないだろう」と思う。私が生涯かけて読むことのできる本は、この図書館の蔵書の何千分の一、何万分の一にも足りないだろう。なんと、世界は「私が知 らないこと」で満たされているのである。
そのことを思い知らせるのが図書館の最も重要な教育的機能だと思う。
私の読書も完全に “図書館依存型” なので近所の市立図書館には時折顔を出すのですが、並んだ書棚を目にすると、自分の手の及ぶ範囲のあまりの小ささにショックを受けることがあります。
内田さんは、
(p209より引用) 知的であることとはどういうことか、それは「慎ましさ」だと思う。無限の知に対する「礼儀正しさ」と言ってもいい。自分がいかにものを知らないかという有限性の覚知である。
とも語っています。
図書館の書架を前に、「ここだけでも、もう少し踏み込んでみようか」、私の場合、せいぜい思い立つのはそんなことぐらいです。