著者の岩田健太郎神戸大学教授は、新型コロナウイルスに汚染されたクルーズ船の実態を告発した感染症学者です。
まさにタイムリーな本のようですが、実は2009年に著者が記した「感染症は実在しない 構造構成的感染症学」を底本にした新訂版です。したがって、今の「新型コロナウイルス感染症」にのみフォーカスしたものではありません。感染症をはじめとした様々な「病気」の捉え方から「現代医療」の課題を描き出した著作です。
岩田氏の主張のポイントは「もの」と「こと」。ウイルスという実存する「もの(物質)」と、病気(感染症)という「こと(現象)」をキチンと区別して議論すべきとの指摘です。
その一種“哲学的”なテーマが中心の論考なので、本書を読んで私の興味を惹いたところは、「感染症についての解説」部分ではなく、むしろ検査や治療に対する医療関係者の「考え方」の部分でした。
たとえば、日本のインフルエンザ治療で観られる「タミフル」の多用という現象について。
(p90より引用) タミフルは、インフルエンザウイルスが人間の体の中で活動するのを抑えるメカニズムを持った薬です。ですが、私たち臨床家たる医者にとって大事なのは、そういうメカニズムの部分だけではありません。むしろ大切なのは、「それで患者はどうなるの?」という部分です。死ぬはずだった患者さんが死ななくなるの? 入院するはずだった患者さんが入院しなくてよくなるの? いったい患者さんに何が起きるの? これが大事なところです。そういう「実際に患者さんに起きること」を私たちはしばしば「アウトカム」と呼んでいます。そしてアウトカムこそが臨床現場では重要なのです。
なるほど、そのとおりですね。日本では、確かに「検査したらインフルエンザでした、じゃあタミフルね」というノリですね。これでは患者の個別事情は考慮されませんから、医師として目の前の患者に対して最善の対応をしたとはいえないでしょう。岩田氏は「効くかどうか」ではなく「どのくらい効くか」という「程度」の概念が重要だと指摘しています。「程度」によって患者に生じる反応が異なり、当然適切な治療法も変わってくるわけです。
もうひとつ、「新訂版あとがき」で岩田教授がクルーズ船に入ったときの思いを紹介しているくだりです。
確かに「現場を混乱させた」と岩田教授は反省していますが、他方、自分の意見を述べただけのことを「混乱要因」を捉える考え方には疑問を呈しています。
(p315より引用) プロの世界では、意見を述べただけでは混乱は起きない。意見を受け入れて方針転換するか、意見に反論するだけだ。クルーズ内ではそのいずれも起きなかった。ただ、出て行けと言われただけだ。弁明の余地はなかった 英国を思い出してほしい。最初の方針には多数の異論が出て、批判が出た。日本であれば「みんな頑張ってるのに、ここは一致団結なのに、批判とかしてる場合じゃないだろ」と同調圧力がかかったであろう。そして英国は間違え続け、国民は多大な被害を受けたかもしれない。幸いにして英国は同調圧力の国ではなく、批判、議論は「前提」として受け入れられていた。 異論が発生することを「現場を混乱させる」という理由で否定しなかった。そもそも異論が現場を混乱させるなどということは、プロの世界ではあってはならないのだ。
この(第二次大戦当時から)変わらぬ「失敗の本質」は、今回の新型コロナ禍に対峙しての対策の実施・事態の収拾・人々の納得感の醸成等々様々なフェーズにおいても、依然としてその妨げとなっているのです。
NHKの「最後の講義」という番組での福岡伸一教授の講義模様を書籍として起こしたものです。
ただ、最後の講義といっても、「最後の講義だとしたら何を話すか、何を伝えるか」という問いから構成された “仮想最終講義” という立て付けです。
なので、“動的平衡” 等、今まで出版された「生物と無生物のあいだ」をはじめとした数多くの著作のエッセンスに加えて、福岡氏の今抱いている最新の問題意識も紹介されています。
その中で、ひとつ、私が気になったくだりを書き留めておきます。
物理学者朝永振一郎が記した「滞独日記」の中の一節を福岡氏が敷衍して解説している部分です。
(p158より引用) 朝永振一郎が言っていたように、物理学や生物学という科学は、自然という混沌としたものを理解するために、いったんそれを単純化する、機械化する、モデル化することによってたわめて見ている、つまり、不自然なものに変えて見ているわけです。要素還元主義的な見方で、あるいは、時間を微分的に止めてパラパラ漫画みたいにして見る方法で、世界を解釈しようとしているのです。それは、ロゴス的な解釈、つまり、言葉によって自然を分節化していく解釈です。それをもう一度、本来の自然に戻さなければいけないと朝永は言っているわけです。
“生命を「動的平衡にある流れ」と定義” する福岡氏の考えと軌を一にするものですね。
いきなり見覚えのある「西大寺町商店街」と「市電」のシーンから始まってびっくりしました。「小橋」「京橋」「東山公園」・・・。
実話にもとづく原作であるうえに、このタイプのストーリーなので、私にとってはテッパンの作品ですね。
佐藤健さんと土屋太鳳さんの主人公二人をはじめとして、いつもながらの存在感の薬師丸ひろ子さん、さらに脇でいい雰囲気を醸し出している杉本哲太さん、北村一輝さん・・・とキャスティングもよかったと思います。
こういうピュアな作品は日本映画のひとつの「型」ですね。洋画でも似たようなパターンのものとしては「50回目のファースト・キス」がありますから、日本映画の “専売特許”というわけではありませんが。