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相対化の時代 (坂本 義和)

2006-03-30 00:20:47 | 本と雑誌

 本当に久しぶりに坂本先生の著作を読みました。ひょっとすると学生時代以来かもしれません。

 私の学生時代は、まだ冷戦時代、ちょうど第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)が開催されていたころで、「軍備管理(Arms Control)」や「軍縮(Disarmament)」が大きなテーマでした。
 その後、当時からは予想だにしなかった冷戦が終結し、それまでの議論の前提が大きく変化したのです。

 坂本義和氏は、国際政治学者で日本における平和研究の第一人者と言われています。一貫して核兵器の否定と平和主義を訴えて来られました。

 この本の前半は、1997年(平成9年)1月、雑誌「世界」に発表した「相対化の時代」と題する論文に加筆したものです。この論文で坂本氏は、冷戦後の新たな平和主義の再構築に踏み出した時期、そこにおける民主化の担い手としての市民社会に注目して従来からの理想主義的姿勢を堅持する一方で、国連やNATOによる限定的武力介入を(究極の選択として)肯定する一歩踏み込んだ議論を展開しています。

 坂本氏は冷戦後の世界状況を理解するキーワードとして「相対化」という言葉を選びました。

(p52より引用) 私が「相対化」という言葉を「絶対化」との対比で使う場合、その対象や問題について、(a) 不変性・不動性ではなく可変性、また(b) 比較秤量不能性・置換不能性ではなく比較・置換・選択可能性の枠組みで意味づけをすることを指している・・・

 この相対化という視点で考えた場合、私が重要だと感じた坂本氏の指摘を以下にご紹介します。

 まずは、冷戦後の「戦争・平和」の状況認識についてです。

(p34より引用) こうした戦争・紛争の相対化による局地化の帰結として、平和と局地戦争との共存が、むしろ世界の常態にさえなってきた。戦争と平和との共存の日常化である。これは軽視できない事態である。

(p36より引用) このように、戦争・紛争を局地化するということは、裏返せば、平和を局地化することでもある。・・・現在の多くの国が見せている内政優先主義は、こうした戦争と平和の分割に密接に関連している。

 次に、冷戦後の民主化の基盤としての「市民社会」についてです。

 ここで坂本氏は、「市民社会」の核心は、相対化された価値ではなく絶対化された目的価値であるとし、そのことが市民社会の正統性の根拠となると論じています。

(p50より引用) 市民社会を原点にすえることの根底にあるのは、次のような現実である。つまり、市場、経済自由化、規制緩和などの正統性の根拠は、最終的には効率であり、競争が生産性を高めるということであるから、これは本来的に「手段の合理性」の域を脱しないものであり、相対性の世界でしかない。
 それに対して、市民社会の正統性の根拠は、目的としての人間の主体の自立であって、これはウェーバーのいう「価値合理性」、つまり目的価値の領域に属する。したがって、そこには手段化できない終局価値という意味での絶対性の世界がある。つまり、人間の尊厳と平等な人権は、すべての人間に開かれた普遍的な目的価値という意味で絶対性をもった価値であり、だから多くの人がそのために命をかけてきたのだ。それが市民社会の核心なのである。

(p56より引用) どのように再定義するにせよ、この「人間の尊厳と平等な権利」という原点そのものは相対化できないのであり、その原点に立って国家や市場を相対化することはあっても、その相対化の原点自体は相対化できない-これが市民社会の立地点だと、私は考える。

 冒頭にも書きましたが、私が学生のころは冷戦の終結(ベルリンの壁の崩壊・ソ連の解体等)など夢にも思いませんでした。さすがの坂本先生も冷戦終結を踏まえた議論まではされなかったと思います。

(p219より引用) 世界の変動は、時とともに驚くほど加速されている。十年前に「冷戦終結は可能だ」と言えば、多くの人は「非現実的」と一笑に付したものである。冷戦の終結が遺した教訓の一つは、何がほんとうに現実的なのかを考える時に、私たちは、いきいきとした想像力をもたなければならない、ということではないだろうか。

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