昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

浄化されたドストエフスキー『罪と罰』

2015-04-22 12:09:59 | アート・文化

『罪と罰』というドストエフスキーの小説のタイトルを知らない人は少ないだろう。
しかし、それを完読したという人も、また少ないだろう。
オカブも冒頭と終わりの部分しか読んでいない。
一体、ドストエフスキーという作家の作品は極めて昏い上に文章が晦渋を極めているので、名作の名をほしいままにしていながら、読者に敬遠されている。
しかし、数十年前に読んだ記憶をたどれば、冒頭の、暑さの坩堝の底の夏のサンクト・ペテルブルグの描写や、主人公、ラスコーリニコフの殺人を犯さねばならないという偏執狂的な妄想に駆られる場面ががまざまざと思い起こされる。この冒頭はカミユも影響を受けたことであろう。ペテルブルグの夏とオランの夏を比べてみると両者の呪われた主人公の背景を成す舞台装置の共通性が見られる。
ラスコーリニコフには全くの人間的な希望から突き放された、ただ観念の上での自己の指向するところのものを成し遂げようとする、「孤独者」の姿がある。
ラスコーリニコフは自己の偏執を実行し、金貸しの老婆を殺害する。しかし、その行為とラスコーリニコフには逃れえない「罪」が覆いかぶさってくる。
カフカなら、彼は絶望的な虚無の中で死ぬか、不条理のただ中に埋没する小説の最後を用意するのであろうが、ドストエフスキーは作品を絶望では終わらせなかった。
この膨大な小説の進行を語ることはできないが、小説の最後の部分でラスコーリニコフが犯行を自供し自首して、判決を受けシベリアに徒刑に出発しようとするところ・・・・これまでラスコーリニコフの支えとなってきた貧しい娼婦のソーニャとの別れと新生への誓いがこの小説の結論を象徴している。
ここには、絶対的な何者かによる救済の手が差し伸べられており、作品の最後に希望の兆しを垣間見ることが出来る。それは神ともいえるし神以外の何かともいえる。
読者である私たちはこの結末を読んで何がしかの救いを得るのである。
ドストエフスキーがこの小説を絶望によって終わらせなかったところに、彼の「希望」に賭ける想いと、「救済」への信頼、そして、それらのものがあるが故に、作品をシニカルな日常の中に置くのではなく、昏い暗鬱とした空気の非日常性に包ませて、わずかな光明に縋る「希望」と「救済」の偉大さを浮き彫りにしていると言えよう。
ここにドストエフスキーがもたらす魂の浄化がある。

春愁や明るき陽のさす町の辺で   素閑 

          



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