昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

祈り・神との対話と自己欺瞞性

2015-04-12 07:30:53 | 宗教

キリスト教の信仰では頻繁に祈る。
それは教会の礼拝でも、日常の生活の中でも祈るという意味だ。
祈りにも自ら、祈り願う、他者のための「とりなし」を祈る、人前で声に出して公同の祈りをする、と様々だ。
そして礼拝の中でも日常生活の中でも祈りはキリスト者の行為の中心だ。
プロテスタントのキリスト者がキリスト者である所以はその信仰にある。
だから祈りも信仰に裏打ちされたものでなくてはならない。
しかし個人の信仰とは本来不完全なものである。不完全ゆえに主イエス・キリストにひたすらに縋りつこうとする。
そこで、神との対話としての祈りが生まれる。否、むしろ祈りは常に神との対話でなくてはならない。
その対話において自らの信仰を神の応答によって試され鍛えられる。偽りの信仰はすぐに神に見破られ叱咤される。こうした神との格闘の祈りの後は苦悩と疲労困憊により心身ともにくたくたになる。喜びどころではない。しかしその苦悩により十字架の一端を担っていると感ずる。
人前で立派な祈りをする人がいる。実に語句も整然として言葉巧みに信仰深さを振りまいている。しかし、その祈りの裏には自己欺瞞がないだろうか?信仰に偽りがないだろうか?真に神を前にした祈りであったろうか?
立派な祈りは信仰の尺度にはならない。
たどたどしい祈りでよい。真の神との対話であれば。 祈りの自己欺瞞は最たる信仰の躓きだ。
日曜の朝こんなことを考えた。

春日昇り聖日の朝浄くあれ   素閑