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昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

雛祭り

2013-03-03 05:23:00 | 日記・エッセイ・コラム

また今年も桃の節句の季節がやって来た。3月3日が迫って慌ててお雛の人形をひっぱり出してきて飾るのは毎年のこと。
我が家は、オカブを除いて、女三匹。しかもその血液型が全員AB型。オカブ一人がA型である。しかも、仮にエルさんが来年、教員採用試験に受かったら、うちの女は全員が「先生」である。まったく空恐ろしい。
しかし、この桃の節句、日本人の季節感への愛着というか、四季の微妙な変化に対する感受性を表してまことに結構なものであると思う。
今日の晩餐はチラシずしに、蛤と菜の花のお吸い物。
ただ、エルさんは深夜までバイト。もう大学四年で、就職にうかうかしてはいられないとはいえ、少し、この子にも余裕のある大学生活を送らせたかった。

雛の宿おんなみたりの血筋かな     素閑

 


期末商戦

2013-02-05 02:32:00 | 日記・エッセイ・コラム

今月から来月にかけて、世間では年度末である。オカブも大したことのない残った案件から取りこぼしのないよう、結構気を使う、世間並みに忙しい2月、3月である。ビールでも飲んで、寝ていたい気もするが、そうはいかない。今週末は三連休なのだが、土日もなく、休日営業である。
今日は横浜まで顧客訪問。感触からして取れるか取れないかは微妙なところ。まあ、どちらかというと危ないほうの商談である。まあ、取れなかったら、来季何とかしよう。至って、気楽なものである。
帰宅して、ぐったり。もう何もしたくないのだが、山のように書類仕事がたまっている。これをかたずけるためにひと踏ん張り。
夕飯はかーたんが舌平目のムニエルを作ってくれた。家で食うには珍しい料理である。夕飯で栄養をつけて、頑張ろう!

春浅し徹夜仕事の夜は明けて     素閑
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節分と恵方巻き

2013-02-03 02:07:00 | 日記・エッセイ・コラム

節分である。この前、正月を祝ったと思ったのに、月日の経つのは驚くほど速い。
午前中、教会へ行って、昼過ぎから教会学校教師会。それが終わって、千歳烏山までかーたんのお婆ちゃん(母)のお見舞い。
家へ帰ってきて、節分の行事として恵方巻きを食う。
この「恵方巻き」、どうやら関東古来の行事ではなく、関西から渡ってきた風習という。どうも、昔からの馴染みがないし、敢えて、こんなものをスーパーの商業主義に乗せられて、食う気は起きないのだが、かーたんからの、毎年、娘も好きだからという理由で押し切られる。
今年の恵方巻きは、下北沢の「オオゼキ」に入っている、「美登利寿司」謹製の海鮮恵方巻き。結構なお値段がした。
今年の恵方は南南東という。この「恵方」とは歳徳神のいる方角というが、クリスチャンがこんなものに乗せられるのもどうかと思うが、まぁ目くじらを立てることもあるまい。今年は南南東に向かって、一言も口を利かず、この巨大な海苔巻を頬張った。

節分や追儺の鬼も居らぬ家     素閑

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シャンパンが飲みたくなった!

2013-02-02 01:39:00 | 日記・エッセイ・コラム

雪の世界の恋だから♪春風が、解かしたぁ、なんて♪
こんな、その昔のキャロルの「涙のテディ・ボーイ」の歌詞が出てきそうな、先週に続くポカポカ陽気である。
華やいだ空気に浮かれて、なぜか急にシャンパンが飲みたくなった。
なんの必然性があって、裏にどのような因果関係があってこの欲求が生まれたか定かではない。
ただ飲みたいだけである。
しかし当然、Champagneを買うには財布の中身が乏しい。
そこで、取り急ぎ、近くのリカー・ショップへ行って、安物のスパークリング・ワインを買ってきた。
漸次、冷やして、シュポンと開ける。娘も酒宴に加わった。何はなくとも無事此れ貴人である。

春を待ち娘と葡萄酒酌み交わす     素閑

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「思い込み」に左右されるということ

2013-01-26 01:25:00 | 日記・エッセイ・コラム

春を思わせるポカポカ陽気に誘われて、下北沢まで出てきた。
商店街を冷やかし、いつもの「セガ・フレッド・カフェ」でビール一杯をもって一休み。
こんな状況であれば、普通の人なら、文庫本でも開いて読み耽るということが考えられるのであろうが、どうも最近、本を読まない。もちろん買うこともない。大脳が退化したのかもしれない。
しかし、「本を書く」という人は、どういう精神状態で書いているのであろうか?オカブには、「本を書く」という行為は、どうも自らの「思い込み」を書き連ねているに過ぎないと思われるのだがどうだろう?もちろん、「思い込み」を持つこと自体、悪いことではない。強靭な「思い込み」がなければ、相当に長い文章を書くための、精神的、肉体的な持続力がもたないだろうと考えるのも自然だ。
しかし、最近の本は「努力すれば売れる!スーパーセールスマンになるには?」みたいな内容のものから、「世界経済を読み解く。今後の世界経済潮流の成り行き」など、または「奇跡のダイエット法教えます」みたいなものまで、ほとんど客観的な自己検証を行っていない、まさに一方的な「思い込み」のオンパレード、その記述内容にも、分析にも、結論にも、発刊後一年経ってみたらなんの妥当性もありませんでした、という類の物が多すぎる。こんなトンデモ本が蝟集しているのが今の出版界なのである。「思い込み」という言葉がなにやら的を得ていない、という向きには「嘘八百」とでも呼び換えてみてもいい。本の著者は、自分が思い付いた「嘘八百」に自己暗示をかけられ、また商業主義の熱烈な崇拝者である編集者から煽られ、「思い込み」を書き殴り、かくして一冊のトンデモ本が完成するという次第。しかし、これは恐ろしく非生産的な「徒労」である。経済的に見れば、出版社に代金が回収され、著者に印税が払われれば、大成功ということなのだろうが、「徒労」に付き合わされる読者としてはたまったものではない。もっとも人生とは壮大な徒労とも見ることはできるが。
夏目漱石の「吾輩は猫である」のなかに「人間の定義とは要らざるものを作り出して自ら悦に浸っている」者というような一文があったと思うが、漱石も含めて、食っても腹も膨れない、駄文を汲々として作り出している連中はまさに哀れともいうべきであろう。一方で、読者のほうも要らざる活字を唯々諾々と追うことが、なにか高尚な行為であるかの錯覚に陥っているとすれば、ご苦労なことである。
本を書く「思い込み」と似ているものに、営利企業の組織がよくもちぃる「確信」とか「信念」という言葉がある。「今期、営業目標が達成可能であることを「確信し」、各営業担当、粉骨砕身して厳にこの目標必達すべし」とかいうあれである。この「確信」とか「信念」というものにも妥当性があることはほとんどない。これで尻を叩かれる側になってみれば、精神衛生上、非常に害毒であるというほかない。この「確信」とか「信念」とやらで恩恵を被るのは、創業者だの経営者だのばかりで、ペーペーには何の関わりもないことである。というのも、一つの方向に対する「思い込み」やら「確信」やら「信念」やらは、未知の将来に丁半を張った、起業家や経営者らの賭博師には、欠かされざる行動指針であろうが、そんなものに付き合わされるその他大勢にとっては、こんなに迷惑なものはない。それはデマゴーグであり従業員の洗脳に他ならない。もちろん、組織の統合と効果的機能にはデマゴーグも洗脳も必要である。しかし、そのような組織からドロップアウトした身としてはもはやどうでもよい。
オカブは自分が保守主義者であるか、革新主義者であるか判然としたアイデンティティを持たないが(そもそも今の世の中、保守と革新という色分け自体がナンセンスなのであるが)、確かに自分は自由主義者である!という自信はある。だから、自己から疎外された「信念」とか「確信」とかに振り回されるのではなく、自己の自由なるがままにしなやかなる生き方を模索している。
そこで、一度、ここから解放されて自由な風を吸ってみるがよい。それによって、あなたの新たな可能性が見えてくるかもしれない。もう上役の決まり文句から疎外されて生きることに決別し、自由な、あなた自身の決断による道を歩むようにしたほうがよい。
と、まぁ、吹けば飛ぶような会社のプチ起業をしたオカブが勝手な熱をふくのも、季節外れの春の気配に惑わされた世迷言と受け取ってもらって構わない。

寒のうち妻に子のこと任せおり     素閑

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初雪の大雪の成人の日

2013-01-14 16:58:25 | 日記・エッセイ・コラム

朝起きて、天気予報通り雨が降っていると思ったら、雪に変わって、あれよあれよという間に降り積もり、大雪となった。
今年、成人を迎えた諸子にはとんだ成人式となったな、などと思っていたら、テレビでは新成人が、雪の成人式でいい思い出になったと語っていた。うちのエルさんが成人式を迎えたのは去年。いつの間にか時計の針が一年回ってしまった。早いものである。
しかし、今回の雪はたいした降雪である。天気予報では都心の積雪は5センチとかやっていたが、そんなものでは済まないだろう。ゆうに15センチは積もったかと思われる。おかげで、日用食糧品の買い物も一仕事。道路に積もった雪に潜りながらの道中だ。
明日の朝は早朝に起きて雪掻きをしなければならない。今から憂鬱である。

雪降りて来し方顧み虚しさや     素閑

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正月6日の松納め

2013-01-06 16:43:00 | 日記・エッセイ・コラム

早いもので、つい元旦を迎えたのがつい昨日のように思えるが、今日ははや6日である。
仕事も、平常モードというか、正月休んだ分、さらに忙しくなって、4日からの仕事始めで、早、半徹夜状態。在米の日系企業現法のシステム開発のためのボランティア仕事。貧乏暇なしというのは辛いものです。
今日は、Epipahany(エピファニー)。日本語では公現日とも顕現節とも言っている。なんじゃ、そりゃ?という向きに一言。
キリストが生まれたのは、12月25日とされるが、それから数えて12日目の1月6日に、キリストが公に現れたとされる、キリスト教の「節句」のことを言う。俗説には、この日に、東方からやって来た三博士が、黄金、乳香、没薬を捧げてキリストを礼拝したとされる。このEpiphanyはシェークスピアの戯曲、「十二夜」の主題にもなっている。
そして、1月6日は関東地方の一部では、門松をしまう日ともされている。この前、松を飾ったと思ったらもう松納めである。月日が経つのは早い。年を取ってからは、なお早い。
そういうわけで、食事もお節からやっと解放されて平常モード。今日はステーキだ。

松納め幼き子らの遊ぶ声  素閑   

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2013年新年あけましておめでとうございます。

2013-01-01 15:54:00 | 日記・エッセイ・コラム

新年あけましておめでとうございます。
今年が皆様にとって素晴らしい年になりますように。
昨年は景気がどん底の状態で、事業者は青息吐息、年末に総選挙・政権交代があって、心機一転、今年の回復に夢をつなぎたいところ。
大晦日は、N響の第九を聴いて、シルヴェスター恒例の「こうもり」のDVDを見て、新年の討論番組を見て、寝たのは4時過ぎ。今朝は9時に起きだしおせちの準備。隣家の叔母も加わって、一家五人で屠蘇を寿ぐ。
しかし手作りのおせちはいいものだ。芋の煮物、こんにゃく、椎茸の煮物、田作りなど江戸時代の農村のこの上ないごちそう尾であったことだろう。何回もブログで言ってきたが、京都「辻留」の辻嘉一翁は、お節料理でごまめと叩き牛蒡だけは家庭で手作りにしてもらいたいとおっしゃっている。これらは食べるときによく「噛む」ということが伴うので、この「噛む」というのが日本料理の美味求心の心に通じるということだ。この伝統的なおせちの習慣は長く長く引き継いでいってもらいたいものだ。
おせちにも地方、また身分によってさまざまな違いがあるだろう。たとえば、京都の雑煮は味噌仕立てだし、正月に鯛や伊勢海老を食べるのは武家の習慣だろう。我が家は平民の出身なので、土臭い庶民のおせちを家風として引き継いでいきたい。
エルさんには些少ながらお年玉。この子も今年は大学四年だ。何か期するところがあるのだろう、というかあってもらわなければ困る。まぁ、そうは言っても好きな道を歩ませようというのは親心。世間の既成概念にとらわれず、思い切り力を発揮できる道を選んでもらいたい。
お屠蘇にいい加減酔っぱらっていい気持になったところで、ソファでうとうととうたたね。

成さんとす心に熱く初春や     素閑

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日が傾いてきたころから、かーたんと三茶に散歩。西友が開いていたので、かーたんは財布を新調した。4900円也。来年は金運に恵めれ増すように。
家に帰って、年越し蕎麦とおせちの残りで夕食。もちろんお神酒も聞し召した。
正月はだらだらとぐうたらし倒す。
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7時からウィーンフィル2013年ニューイヤー・コンサート。今年はフランツ・ウェルザー・メストの指揮だ。
今年のウィーンフィルはワーグナーとヴェルディ生誕200年にかけて、両者にかかわる曲が選ばれたこと。
しかし大半が聴いたことのないワルツやポルカなので退屈してしまった。なかで「ローエングリン」三楽章序奏はよかった。
ただ、メストの曲つくりは遊び心がないというか、ウィーンのきらびやかさには似つかわしくない、かっきりとした演奏なので少し物足らない。

今年は良い年にしよう!

成さんとす心に熱く初春や     素閑

 


2012年大晦日

2012-12-31 08:59:00 | 日記・エッセイ・コラム

 今年も終わりですね。
皆様にとって今年はどんな年でしょう。今年の一文字は「金」だそうですが、私にとっては「滞」!なんとも鬱陶しい、歯切れの悪い一年だった。政権も変わったことだし、なんとかこの暗雲を来年こそは吹き飛ばしてほしい。
さて、今日は朝から事務所の片づけ。山となった反故紙や書類と闘う。夕方までがたがたやっていたが、ついに断念。
晦日蕎麦の準備にかかる。エルさんは深夜までバイト。まったくこの子は大晦日までハードワークだった。
今年は、天麩羅は隣に住む叔母が作ってくれた。ばーたんは一足先に今年の垢を落とす風呂。かーたんと一緒に水入らずで年越しそばを食べる。別に細く長く生きようとは思わないのだが、まぁ世の習いだ。ここは妥協しよう。

古紙に埋もれて食うや晦日蕎麦     素閑


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8時からN響の「第九」演奏。
指揮のロジャー・ノリントンの「ピュア・トーン」のコンセプトは分かるのだが、ヴィブラートをかけないということに慣れていないオーケストラの演奏家陣は、不自然に固まってしまって、ぎこちない演奏だった。特に弦楽器が弾きづらそうだった。ヴィヴラートは自然な息吹であり、音楽に音楽性を与える源泉である。ヴィブラートなしのノリントンのメソードには賛成できない。こういう指揮者はオケと半年くらいリハをやらないと、まともな舞台はできないのではないか?しかし、ソロ歌手陣はよかった。成田勝美さんはちょっと苦しそうだったが、バリトン歌手は出色の出来。今年の第九は彼で持ったようなものだった。
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「第九」が終わり、「こうもり」のDVD鑑賞。今年も、カルロス・クライバー指揮、バイエルン歌劇場のシルベスター公演のもの。毎度飽きもせずだが、この公演は「こうもり」の決定公演なのではないか?オルロフスキーのブリギッテ・ファスベンダー、ロザリンデのパメラ・コバーン、アデーレのジャネット・ペリーと史上考えられうる最高の配役だ。特にファスベンダーは至上のオルロフスキーだ。クライバーも楽しそうに振っていて、大晦日気分満点。お勧めのDVDだ。しかし、ウィーンで一回でもシルベスターに「こうもり」を見てみたいものだ。
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「こうもり」がシャンパンの歌で幕を閉じたところで、東急ジルベスター・コンサート。茂木健一郎がうざかったが、カウントダウンの「威風堂々」はよかった。指揮者がルパートをかけまくっていたと言っていたが、曲の終わりと2012年23時59分59秒がぴったり。来年は幸先の良い年になりそうだ。

あけましておめでとうございます。


イブ明けてクリスマス

2012-12-25 07:32:00 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のクリスマス・イブの打ち上げでは飲んだ。二日酔い気味で10時過ぎに起床。
海外関係の取引業務が中心のオカブの仕事では、海外の取引先が一斉にクリスマス休暇に入るこの日は制度的には休業にしているのだが、25日決済の会計関係の業務が集中するため休みとはいってもおちおち休んでいられない。昼に銀行に行って今年の支払いと入金をきれいにしてくる。
帰りに下北沢で、家族にささやかなクリスマス・プレゼント。かーたんにはほんの心ばかりのピアスを買ってあげた。
ちなみに我が家のクリッペ(キリスト降誕のシーンの人形のセット)はスウェーデン製。十数年前の一月のストックホルム出張の際、買ってきた。
この日が来ると今年ももう終わるんだなあという感慨が押し寄せてくる。
青々とした冬空の下、明るくもかぼそい陽の光に照らされた、気の抜けたような街を通り抜け、我が家の事務所へ。
伝票を整理し、かーたんとケンタッキーのフライドチキンで夕食。西欧人には、日本人がクリスマスにこれを食うのが信じられないということだが、まあ日本のクリスマスなどこんなものだろう。
これで今年もお別れである。
大晦日までさようなら。
良いお年をお迎えください。

降誕祭夜明けて世間が始まりぬ     素閑
Christmas2012