故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

河田小龍生家跡地と坂本龍馬記念館

2013年05月27日 14時55分59秒 | 幕末史

昨日に引き続き高知の幕末見学を。昨日の長岡謙吉の師匠で河田小龍は、文政7年(1824)10月25日、高知城下浦戸片町(現在の高知市南はりまや町)水天宮下、御船方の軽格の藩士、土生玉助維恒の長男に生まれる。祖父の川田金衛門の生家河田家を継ぎ川田姓を名乗る(のち河田姓に)。

 

この場所が生家跡地で墨雲洞があった所。

 

幼少のころより島本蘭渓に画を学び、16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入る。弘化元年(1844)、吉田東洋に従い京に遊学、京狩野家九代目の狩野永岳に師事する。ここで才能を認められた小龍は、嘉永元年(1848)多くの兄弟子たちがいるにも関わらず、京都二条城の襖絵修復に抜擢された。その後長崎で蘭学を学び、高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞」を開き、下級武士や町民たちを相手に絵や学問を教え始めた。この墨雲洞は、世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場ともなった。墨雲洞の塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎等がいた。尚、近藤長次郎は小龍の妻の甥である。  この絵は河田小龍が書いた絵で、我々がここで食事をするので「得月楼」の主人がわざわざ床にかけてくれたものである。

 

嘉永5年(1852)、米国より10年ぶりに帰国した中浜万次郎の取り調べに当たった。土佐藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させ、起居を共にしながら毎日役所に出頭させるなかで、万次郎に読み書きを教えながら(万次郎は日本語が分らなかった。日本で教育は受けていなかったし、10年という歳月が日本語を忘れさせていたのだろうか?)小龍も万次郎より英語を学び、お互いの友情を感じるまでとなった。万次郎から聞かされるアメリカの発展ぶり(鉄道、蒸気船、モールス信号、選挙制度など)に興奮し、万次郎が語る鎖国日本の現状、そして海外思想や世界情勢を知り、漂巽紀畧五巻を書き上げて藩主に献上した。そして同書が江戸に持ち込まれ、諸大名間で評判になると、万次郎は幕府直参として取り立てられることとなった。また、かねて親交のあった藩御用格医師・岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉・乙女であったことから、小龍は外国の大船を買い同志を乗せ人・荷物を積み海洋に乗り出し、「『貿易』によって異国に追いつく事」が日本のとるべき道だと龍馬に説いた。龍馬は小龍の話に大いに感化されたと。明治31年(1898年)12月19日没。享年75。      

その後は、桂浜へ行き龍馬の像をバックに記念写真。そして、高知県立坂本龍馬記念館へ。

 

記念館前では龍馬像が「心をつなごう シェイクハンドぜよ!!」と握手を。 大勢の人と握手してるので龍馬さんの手は色が剥げて黄色く変わっていた。  館長さんの話では、これが1番の人気だとか。

 

館内では『漂巽紀略』に見る万次郎の世界展を見学。漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に無人島鳥島に漂着し、人間が近寄っても逃げない阿呆鳥を石を使って捕まえ食べていた。たまたま沖を通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助された。ホイットフィールド船長に気に入られ万次郎は仲間と別れホイットフィールド船長の養子となり、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んだ。日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩での取調べの後、長崎に送られ、その後土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に帰った。吉田東洋ら藩の取り調べを受け、河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2ヶ月後に、帰郷が許され、漂流から11年目にして故郷に帰る事が出来たのである。 その後、万次郎は直参の旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名「中濱」の苗字が授けられた。

館内を色々廻り説明していただいた。説明では万次郎は生涯船乗りでなかっただろうかと。

って事で今日はこの辺で。   じゃ~またネ



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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-06-25 00:51:33
河田小竜 最高
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司馬さんの本を読んで (川田順彦)
2018-05-31 05:50:03
小生も川田姓で、川田小龍に興味を持った。小生の祖父は土佐の出で何か縁がある気がした。玉音放送の漢学者は小生の親類筋です。中村市の出と聞いています。祖母は家紋は巴と言っていました。祖先のルーツの旅に行きたいのですが、東京に悶々としている昨今です。土佐の気質を感じます。
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