故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

国分でも田宮坊太郎の仇討伝説が

2013年07月25日 18時35分18秒 | 歴史

今朝は4時40分から歩いた。 2時間近くは歩けると思った。が、40分位歩いたところで昔勤めていた時の同僚とバッタリ。同僚は朝の涼しい時に畑をしているのだ。 そこで話に夢中になり6時頃まで話し込んでしまった。野菜も袋に入れてくれてお土産に。 仕事に行くからと急いで帰宅。結果は1時間ほどの歩きだった。昔の友はいいなぁ~ と。

 

昨日の国分八幡宮の続きで、田宮坊太郎仇討の話を。 金毘羅参詣名所図会によれば、国分八幡宮の南側の地を国分八幡大門という、田宮坊太郎仇討の跡と言われている。 田宮坊太郎と言えば、丸亀の玄要寺にも墓はあるし、父親の田宮源八郎の家の碑もある。仇討の場所は丸亀山北八幡神社であり、江戸時代、坊太郎の仇討ち物語は歌舞伎や浄瑠璃の題材となった。また戦前には、これを基にした映画も作られたと。その内容は丸亀を舞台にしたものである。しかし、この国分寺町の場所での仇討も内容等はよく似ている。坊太郎は子供のとき、父・田宮源八郎を堀口源太左衛門に殺されて以来、柳生流を学びついには奥義を授かる。そして、国分八幡宮の境内で父の仇である源太左衛門を討ったといわれる。仇討後,坊太郎は若くして亡くなり、墓と伝えられる五輪塔が、八幡宮の東側斜面にある。国分八幡宮の馬場で仇討したのは一子・小太郎で父は民谷源八となっている。伝説であるが名前・土地等の違いや田の字は何故かの疑問が残る。   これは現在の大門馬場付近。

 

国分八幡宮から下まで降りV字に北へ上って行くと、右下側に□宮坊太郎之墓という碑が。田の字が削られている。何故くり抜かれているのだろう??

 

その横の階段を下りて行くと、これが田宮坊太郎の墓と思われる五輪塔が。

 

丸亀の話は有名であるが、国分寺での仇討話は初めて知ったので、少しだけ記すことに。  って事で今日はこの辺で。じゃ~またネ



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