故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

どんなお寺だったのか? 宝幢寺とは

2013年02月14日 16時09分33秒 | 歴史

今朝は5時過ぎに目が覚めた。風も無いので5時40分には歩きに出た。6時前だと、ご近所のお家も、まだ明かりが点いていない。それでも6時を過ぎるとポツポツと電気が着き出した。皆さん活動開始だ。帰宅は7時頃だったか? 今日は約11,500歩と何時もより多めの歩きだった。 以前は15,000歩異常は歩いていたのだが、まぁ~暖かくなればもっと歩けるかも?

って事で、今日は暖かいから自転車でグルグルと郡家町の宝幢寺池まで。宝幢寺池とは郡家町の南方にあって、上池・下池・仁池の3つの池を合わせて宝幢寺池といわれる。南の仁池・上池と北側の下池との間に堤防があり、東へ通抜けて進と辻の興正寺別院へ続いていたという。

下池が最も広くここには宝幢寺という寺があった。宝幢寺は永禄元年(1558)10月9日、徳島の三好実休の軍により焼かれて、その後再建されることも無かった。江戸時代となって下池が築かれ、その後仁池、続いて上池が延宝4年(1676)に出来て3つの池が完成された。 宝幢寺池は冬の灌水期には水が無くなり、下池には写真のような塔心礎が見える。

他にも仏像や瓦や水煙片等の出土品が数多く出ている。尚、昨日の記事の郡家の茶堂の仏殿は、鎮守の神としてこの地にあった皇子神社と観音堂を神野神社の東へ移した観音堂である。この東方にある石仏や碑が、嘉永五年や立ノ外 辻中 また小笠原〇〇などの文字が見える。  その前にはすべてにお茶缶を供えてある。

 

那珂郡の中心地として栄えた宝幢寺周辺も戦乱の世に土佐・阿波の兵により無くなったと。現在までも存在していればどのような町となっていただろうか。

今日は文章も少しは増えたと思うけど、如何かな(笑)  って事で、この辺で。じゃ~またネ

 



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