黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

嵐山紀行総集編・笛吹峠

2019-11-16 21:37:20 | 嵐山紀行

ひめちゃんと獅子丸は、いつものように堀之内を北に出ました。

あ、赤城山に初冠雪

では、ありませんでした。

一番東の峰に、白い雲が垂れ込めていたのです

いつものように、堀之内の西の道を帰ります。

先日まで残っていた稲も刈り取られて、牛の餌用にロールになりました。

ひめちゃん、かゆそうです。

みんな、毛がモコモコしてきました。

また、換毛の季節です。

 

 

昨年の12月は、埼玉県嵐山町と深谷市の畠山重忠関連の史跡に出掛けました。

総集編として、記録を残しておきたいと思います。

上野国から鎌倉へ行く道中になるのです

 

 

(2018年)12月13日、嵐山(らんざん)史跡の博物館の企画展「越山・上杉謙信侵攻と関東の城」に行ってきました。

博物館に行く前に、今年の1月行こうとして果たせなかった笛吹峠(ふえふきとうげ)を確認に行きました。

嵐山に行くとき、ひめちゃんちからナビを入れると、国道17号線(上武道路)を熊谷まで下るコースが出てしまいます

今回はお隣のみどり市大間々町起点の県道69号線で、ひたすら嵐山駅の東まで下ります。

国道254号線に出て、すぐ左折、都幾川(ときがわ)を渡り、向徳寺の脇を通り鎌倉街道を上ります。

時宗の向徳寺は、(2018年)1月にお邪魔しました。

車を置かせててもらい、駐車場のない源義賢の墓や、大蔵館跡(神社)も訪ねました。

 

今回はパス、またそのうちにお邪魔します

実は1月に笛吹峠も目指したのですが、細い道に不安になって挫折してしまったのです

 

鎌倉街道を行くと、あれ何か史跡のようなものが?

「縁切橋」とあります。

説明板もあります。

 

征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥方に縁切り宣言をしたのですね。

婚礼の時新郎新婦を通すわけにはいきませんね

岩殿の悪龍とはどんな龍なのでしょう?

坂上田村麻呂はここを通って蝦夷征伐に行ったのでしょうか?

 

田村麻呂さん、いろいろなところに伝説を残しているのですね

 

さらに行くと、細い道になります。

ちょっと心細いけど、ガマンガマン。

 

あ、ありました

笛吹峠でーす

付近にハイキングコースがあるのでしょうか?

道の反対側の駐車場には何台か車があります。

 

説明板をよく見てみます。

 

ここは鎌倉街道で多くの武士団が行き来したとあります

 

正平七年(1352)閏二月新田義貞の三男義宗等が宗良親王(むねながしんのう)を奉じて武蔵野の小手指ヶ原で足利尊氏と戦ったが、最終的に結末がついたのがこの峠の地であった。新田義宗等は越後に落ちていき足利尊氏は関東を完全に制圧していった。笛吹峠の名称については、この敗退の陣営で折からの月明かりに宗良親王が笛を吹かれたことから命名されたという。

とあります。

 

新田義宗は、わが郷里新田の人であるし、宗良親王はかつて訪れた浜松ゆかりの人でした。

久しぶりに、そのときに購入してきた「歌人宗良親王物語」を開いてみました。

「笛吹峠」あるかな?

 

ありました

 

君がため世のため何か惜しからん捨てて甲斐ある命なりせば

 

この歌は、南朝の兵を励ますために読んだとあります。

 

激戦ののち南朝方はしだいに押されて峠で対峙しておりました。その夜、兵をなぐさめるため親王の吹かれる笛の音が峠に鳴り響いていたといいます。それでこのはこののち笛吹峠と呼ばれるようになりました。

と、ちゃんとありました

 

やっと笛吹峠を体験できました

それでは、嵐山史跡の博物館へ行きまーす

 

 

 

 

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