1月8日(木)
明るい日差しだけど、雪国の人達は大変だな。
足腰が不安定な自分には住めない土地だと、つくづく思う。
まだ、滋賀県に住んでいた頃、汽車で米原から彦根まで通っていた。
自宅のある場所から次の村まで行くのには田んぼの間の道を使わなければならない。途中には電信柱があって畷と称される。
隣村から米原までは線路の沿った細い道で、上の方に中山道が通っている。
東海道線の列車を見ながら、この汽車に間に合わせるために一生懸命に走る。走る!
発車ベルを聞きながら、列車に乗る事もあった。
そんな若~い通学生活だった。
食料も不足の時代だったから、体力的にも大変だったが、こうして、わざわざ彦根の学校まで通わせてくれた両親には、今でも感謝している。
父の村だったこの村で、わざわざ、町の学校へ行かせてもらっているのは私と弟と近所の下級生の女の子だけだったのだ。
しかし、私は学校へ通うのは当然の事だと思っていたらしい。思えば、随分、呑気なものだった。
満員列車の東海道線が通ると、時々、思わぬ落し物がある。経済警察の目を盗んで窓から野菜などを投げて行くことがあった。世知辛い終戦後の世の中だったのだ。
しかし、帰りには、それらの物はもうなかった。
米原機関庫あたりにへ近づくと、左手の陸橋の下を北陸本線が走ってくる。列車は米原駅が終点となり、先程の東海道本線へつながるのだ。
古いけれど、国鉄の大事な幹線が集まる駅として、当時から米原の存在は大きかった。
汽車通学のために一時間の徒歩をする私達にとって、この二つの列車の運行は時計の役割をしていた。
現在は、私たちが住んでいた田舎の家近くを東海道新幹線が通っている。
今でも、この線路を通るたびに、目を皿のようにして眺めるが、どうしても分からない。
ただ、学生の頃に描いた伊吹山だけが印象に残っている。この山を過ぎると岐阜県大垣は直ぐだ。
なんと言っても、村と村を結ぶ畷(なわて)の道の思い出が大きい。
ここは日頃でも、風邪や日差しや雨降りなどで厳しい道だった。通り過ぎると、ほっとしたものだ。
特に思い出で忘れられないのは、電柱で高下駄の雪を払い落とせなくて、とうとう、通学を諦めたことだ。
とても、残念だった。
それほど、学校へ行く事をを真面目に考えていたのだな。真面目な私だった。
今でも、雪を見ると思い出す。
* 東京は良い天気だ
明るい日差しだけど、雪国の人達は大変だな。
足腰が不安定な自分には住めない土地だと、つくづく思う。
まだ、滋賀県に住んでいた頃、汽車で米原から彦根まで通っていた。
自宅のある場所から次の村まで行くのには田んぼの間の道を使わなければならない。途中には電信柱があって畷と称される。
隣村から米原までは線路の沿った細い道で、上の方に中山道が通っている。
東海道線の列車を見ながら、この汽車に間に合わせるために一生懸命に走る。走る!
発車ベルを聞きながら、列車に乗る事もあった。
そんな若~い通学生活だった。
食料も不足の時代だったから、体力的にも大変だったが、こうして、わざわざ彦根の学校まで通わせてくれた両親には、今でも感謝している。
父の村だったこの村で、わざわざ、町の学校へ行かせてもらっているのは私と弟と近所の下級生の女の子だけだったのだ。
しかし、私は学校へ通うのは当然の事だと思っていたらしい。思えば、随分、呑気なものだった。
満員列車の東海道線が通ると、時々、思わぬ落し物がある。経済警察の目を盗んで窓から野菜などを投げて行くことがあった。世知辛い終戦後の世の中だったのだ。
しかし、帰りには、それらの物はもうなかった。
米原機関庫あたりにへ近づくと、左手の陸橋の下を北陸本線が走ってくる。列車は米原駅が終点となり、先程の東海道本線へつながるのだ。
古いけれど、国鉄の大事な幹線が集まる駅として、当時から米原の存在は大きかった。
汽車通学のために一時間の徒歩をする私達にとって、この二つの列車の運行は時計の役割をしていた。
現在は、私たちが住んでいた田舎の家近くを東海道新幹線が通っている。
今でも、この線路を通るたびに、目を皿のようにして眺めるが、どうしても分からない。
ただ、学生の頃に描いた伊吹山だけが印象に残っている。この山を過ぎると岐阜県大垣は直ぐだ。
なんと言っても、村と村を結ぶ畷(なわて)の道の思い出が大きい。
ここは日頃でも、風邪や日差しや雨降りなどで厳しい道だった。通り過ぎると、ほっとしたものだ。
特に思い出で忘れられないのは、電柱で高下駄の雪を払い落とせなくて、とうとう、通学を諦めたことだ。
とても、残念だった。
それほど、学校へ行く事をを真面目に考えていたのだな。真面目な私だった。
今でも、雪を見ると思い出す。
* 東京は良い天気だ