桜子でーす

日々の感想や思いついた事柄を写真や文章に表しました。ビジュアルに表現出来ると嬉しいな!

歩け歩け!

2016年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
1月27日(水)

リハビリへ行く。
相変わらず、馴れ馴れしい態度の私?は、院長先生とお会いするのが楽しみ。

いよいよ、EIさんに治療をしてもらうのも終わりに近くなった。
今日は、日頃の彼と感じが違って、自分でどのような運動をしたらよいか、厳しい口調で教えられた。
考えれば、一年以上、熱心に治療を続けて下さったのに、遅々として成果が上がらない(いや、本当は上がっているのだが)最近の私の足の具合を気にしている事はよくわかっている。

怠けているわけでないが、家での生活習慣が決して感心出来るとも言えない。
しかし、諦めないで頑張らなければ、彼の努力に応えられないなぁと思っている。


帰りは、いつも通りにバス停まで、一気に歩いた。
途中で、タクシーが一台、私の横で徐行をした。
「もう、遅いよ!病院の前だったら乗ったけどね」と、心の中でつぶやく。

二停留所はありそうな距離を歩くと、もう、フーフー言ってしまう。
しかし、これが運動不足の私にとっては貴重な体験だと思う。
その後の疲れが大変だけれど、これも治療の一つだ。
我慢、我慢。

しばらくでした

2016年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
1月26日(火)

暖かさを感じる一日だったが、夕方近くになると、冷える。
もうすぐ春だなぁと感じるのは桃の花芽だ。
雪が降ったり、冷たい風が吹いても、春が直ぐそこに来ていると知らせてくれる。
そう言えば、鎌倉八幡宮の寒牡丹が美しく咲いている映像が出て来た。

暖かい春が来そうだと言うのに、九州を中心に雪が降ったというニュースがあった。
初めて雪を見た人もいるようだ。
しかし、水道管の故障で、日常生活に使う水に困っている人々、給食が出来ないために休校になった等、日頃、生活の中で、不自由さを感じなかった部分が現れた。

幸い、東京は困難な場面にあまり出会わない。特に、私の住む地域では、ほとんど、大雪にも困らなかった。
有難いと思うが、油断してはいけないと思う。
すっかり腰の曲がった身には、あの給水車に水を貰いに行くのさえ、現実としては不可能だ。
僅か数百メートルでさえ、無理なんだもの。

さて、今日は長い間買い置いたままだったリンゴを煮ることにした。
勿論、アップルパイを作ろうと思ったのだ。
鍋に盛り上がるようになったリンゴが、半分にまでなってしまった。
相変わらず、ラム酒をたっぷり入れる。
これは大人のアップルパイ。

夜になって、焼くことにした。
「今日のリンゴは何時もよりずうっと美味しい」と褒められる。
製作者の私には分からない。

いつも『きついきつい』の連発の私が、さほどにきつさを感じないのは何故だろうか?
最近は、何を作っても、自分の舌に自信がなくなってきた。 

消えてしまったよ!ブログ

2016年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
1月23日(土)

確かに書いたはずのブログが行方不明。
この後、Wi-Fiの具合が悪かったので、ずいぶん、あれこれ操作してみた。
その所為か何時の間にか、折角、書いたブログを消してしまったらしい。
残念。

そうそう、この日は近所の大型スーパーOへ出掛けたのだった。
ここは駐車場がある。私は利用したことが無いが、家族連れが多い。

野菜なども同じ物が産地や栽培の仕方で異なった物をいく種類か売っているので、目的に合わせられて便利だ。

できるだけ荷物を減らそうと考えたが、結構、増えてしまった。
リュックサックに一杯になる程、買い物を入れて、そのまま、餃子の店へ行った。
この店は大阪で有名だ。

今日は土曜日。結構混んでいた。
最近、食べたいと言っていた『エビチリ』を注文する。
大きなエビが入っていて美味しかった。
『あんかけタンメン』はまあまあと言ったところで、二人で一つでよかったかもしれない。

帰りは200メートル先にある我が家へ行けば、それで合格。
お腹が一杯になっているので、私の壊れかけた足でも、これが訓練とばかりに歩いた。
しかし、『歩く』と言うのはきついものだ。
家にたどり着くと、もうそれでおしまい。
お腹いっぱいだったが、以前の私だったら、これではすまないだろう?

リハビリテーション病院は静かだった

2016年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
1月22日(金)

どうしてこんなに足が腫れるのだろう?
よく、マッサージをしなさい、歩きなさい…そして足を高くしなさいと言われる。
きちんと正座出来ない私の足は、すぐにひっくり返ってしまう。

この足で、もし施設に入れば、差し詰め車椅子に乗せられるねと私は感じる。
絶対に『歩く』よ。

今日もリハビリへ出かけた。
タクシーを拾ったら、女性の運転手さんだった。穏やかないい感じの人だ。
ムカシ、乗った女性ドライバーは、気強い態度で、ちょっと、客を警戒しているようで怖い感じだったが、今日の人は爽やかだった。

リハビリの話が出ると、彼女のお父さんもタクシードライバーだったけれど、80歳で免許を返還したそうだ。
今はリハビリ中だという。
やはりなぁ!どうしようかな?

院長先生に、私がデザインした年賀状(以前の物)をさし上げた。
自分の体調より、世間話めいた話題を出すなんて私には真剣味がないのだ。
EIさんの治療も、後、僅かの期間となる。
残念だ。
車の話が出る。
私にとっては、どうするかは、関心事の一つとして大きい。

帰りは二本杖で、一気にバス停まで歩く。
本当は、息も絶え絶えと言いたいところだが、意地でも歩く。休まずに歩き続ける。

途中、大工事だったマンションが早くも出来上がっているのを見て、この地域の変容も、早々と、随分、変わるのだなと思った。

蒲田から大森までのバス道路も、目下、拡張工事が行われている。
随分以前から計画はあったと聞いているが、やっと、ここ何年か前から本格的に始まった。
遅々として進まない道路の拡張工事は、まさに貼り損なった膏薬みたいだ。
なぜ、進まないのだろう?

多分、4年後にかけて、急いではいると思うけれど、あちこちでオリンピックを目指して立てられた様々な計画が、間に合うのだろうか?と気になる。

今日は、青空がきれいで、洗濯にはもってこいの一日だった。
帰宅してからでは、少しばかり遅いと思ったが、洗濯機を回す。
夕方までに乾いてくれると良いのだが…

ベランダから見える桃の樹には、もう、花の蕾が付き始めている。
寒いと言いながら、もう直ぐ春はやってくる。

タクシーでお茶の水へ

2016年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
1月21日(木)

大寒の日である。
文字を見ただけで『お~!さむ!」になる。

文字の影響って、すごい。
そういえば、スーパーの入り口近くには,鬼のお面や桝に入った大豆が並べられている。
今迄、私は節分の前の日辺りに、豆撒き用の豆を買う事にしていた。
今年はどうしよう?
『買う』と『買うか買わないか』では意味が違う。
今年は、後者の”どうだっていいや”に繋がり始めた。
人生の夢をなくし始めたのかな?

更に、早いうちから『恵方巻』の宣伝と予約販売が始まっている。
見るたびに「バカみたい!表面だけ信じ込んで意味が分かっていないのじゃないの?」とつぶやく。
何もかもが商業ペースに乗せられているみたいで、それでいいのかなぁ?

私に は、いろいろな事を問題にして自問自答をする癖がある。
うるさいね~
こだわり屋さん。

それにしても、豆撒きなんて、私に言わせれば『勿体無い!」に尽きる。
だから、豆は撒くが、一度に数粒しか撒かない。
ひどい時は「お口に福は内!」なんて節約ぶりで口の中へ。
庭に落ちた二粒ばかりの大豆が勿体なく見えるのだ。相当以上のケチぶり。

~~~~~~~~~~~~~~~~

随分、横道に反れた。
今日の主題は『お茶の水の事』だったのだ。
実は、昨日までは、自分のクルマで行くつもりだった。
しかし、姉の言葉に甘えて、タクシーに変更する。

丁度、止めたタクシーは『コクサイ』。ピカピカの綺麗なクルマだった。
「お茶の水までお願いします」
(運転手さんは遠距離注文で良かったと思ったでしょうね)
色々な話題が出た。
私の好きなクルマいろいろについて話題となり、更、雪道の難しさ、そしてカーブの多い道路……と話は次から次へ。
て自分が乗ったクルマの話。
きっと、彼は(おばあちゃんなのに、変わった好みだなぁ?)と思っただろう。

お茶の水へは約一時間、予約時刻にぴったりだった。
お節介な私は、いつも自分が通る道順がナビよりずっと早く進める事を、ドライバーに教えてあげた。
結局、私もいい勉強をしたと思う。やっと、かつての運転記憶が完成する。

お茶の水では、三科回る。10時、10時半、11時となっている。
しかし、待ち時間は、だんだん狂ってきた。二科目に入ると、大幅に遅れ始めた。
もう、11時は過ぎて12時近い。
やっと呼び出されてた時には、先生にもっと、急いでほしいと話す。
次回には早くしましょうと約束を取り付ける。

なんて、厚かましい患者なんだろう?
外科では待ちかねたように呼び出し音が鳴った、
S先生が立って、にこやかに迎えて下さった。
足の不調についてお話しする。
先生が一番、相談しやすく、適切な指導をして下さる。
リュックを背負い始めたら、わざわざ、手伝って下さった。
遠くても、やはり、お茶の水はS先生がいらっしゃるからだ。
既に、姉は終わって、今頃はロビーで、知らない人と楽しそうに話していた。

東京駅へ向かう。
駅弁を買う。相変わらずの混みよう。
地下の休憩所で弁当を開いた。
以前に買った『おかみさんたちの弁当』も、二度目になると、薄味過ぎてがっかり!
大きなパン屋でいろいろと変わった商品が並べられていた。
つい、買ってみたくなる。
カレーパンが美味しかった。色々な発見をするものである。

この地下街が出来たのは随分と以前の事であるが、当時、オープンしたばかりの店の中でも、大行列になった店があった。
日本橋のかりんとう屋である。
今はゆっくり選ぶ事も出来るので、一度は買ってみたいと思っていたのだ。

梅の味がするものと、昔ながらのかりんとうを買う。カリカリっと歯ざわりが良いが、値段は普通より高い。
(後で味を見たら、結構、高いかりんとうだけれど、そんなに他の物と比べて変わらないと二人の感想である)

帰りに大森駅で踊り子号の切符を買って、今日の予定は終わる。
帰宅後は、もう、二人とも疲れて、寝てしまった。
眼が覚めると、まだ9時のニュースにもなっていなかった。
この頃の疲れ具合は、相当に激しい。

きっかけになった事

2016年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
1月20日(水)

昨日のブログは、随分、乱暴だったかな?と思っている。
でも、消すつもりも訂正するつもりも無い。

今朝は、ゴミ袋を持って、門の外へ出た。
なんと!冷た~い!
黒い鉄の格子が手にはり付くように、凍った状態だった。
ああ、矢っ張り、仁川と同じ。

私は、このところ、仁川(ジンセン)にとらわれ過ぎているのかな?
これも、K.I.さんからの便りから始まった。
彼は<仁川>について、こだわり続けている。
お母様が、まだ、子どもだった頃に過ごした仁川の思い出話を通して、終戦後、日本各地に引き揚げて行ったかつて仁川在住者の情報を集めている。

私は、自分のブログに滅多に書かない仁川の話を、珍しく書いて見た。それが、彼の目に留まったのである。
ブログってすごいな!と思う。
別に多くの人に見せようと思っていなかったのに、全く知らない四国に住む人が見付けたのだもの。

それからは、なんとなく、私も気にし始めている。
戦後70年、自分だけのものとしてそっとしていた記憶の扉も、そろそろ、開いてもいいのでは無いかと思い出した。

それ以来、何かにつけ、思い出す。
それも、戦時中や引き揚げの時の厳しさより、子ども時代を家族と過ごした日々の事柄が思い出されるのだ。

今、迷える難民の問題が、毎日のように、取り上げられている。
その度に、確かに、私達も辛い思い出があったが、今は、なんと幸せに過ごせているのだろう!と思う。

現在の私の一番の悩みは足腰の不調。
日に日に、厳しさが増す。
これは自分自身の健康管理の悪さもあろうが、高齢の身として避けられない問題でもある。
何とか、少しでも解決に向かいたいと思うが、大層、難しい。

まあ、爽やかに晴れた冬の青空を眺めながら、かつての幸せだった思い出を出来るだけ書いていきたいと思っている。

~~~~~~~~

昨日は『鰤大根』なるものを作った。
外では何回か食べているが(勿論、母の手作りも…)自分で料理をした事がなかった。
だから、鰤を見る度に、一度、調理をしてみたいと思った。

魚売り場で、美味しそうな鰤を見つけた私は、早速、料理にとりかかる。
何とか出来た。
「とっても美味しい!」と姉の言葉。
ほっとする。
彼女の評価が一番大事なのだ。

今朝、新ゴボウを入れてみた。
確か、料理店でゴボウの入った『鰤大根』を食べた事を思い出した。
成功!美味しかったよ~!
昨日より、一晩置いた方が、更に、味が染み込んでいる。
「また、作るね!」
「うん!」

書きたい事を書くよ!自分のブログだもん…<仁川>

2016年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
1月19日(火)

日本人のブログには、個人的な日記風のものが多い。外国人は私的な事ではなく視野の広い見解を述べたものが多いという事だ。
おや?それじゃあ、日本人は狭い意見しか、もっていないと言うの?
そんな筈は無い!要するに、どちらも国民性なんだよ。

私自身が自分を巡る文章しか綴らないから、つい、言い訳になるのかな?
それでも良いわ。
書きたい事を書けば良い。他人に迷惑をかけないのなら、自分の思いをしっかり書こう。

しかし、最近の私は、実に消極的で、読む人がいたら情けなくなるようなものが多くなった。

日々の生活を見ると、確かに前向きの暮らし方では無い。
今日こそは、昔の自分にかえろう桜子よ!と言い聞かせる。

それでも、階段を手すりにつかまりながら降り始める頃から、既に消極的な生活が始まりそうだ。

今朝も、最近、食べたいと思っていたポテトサラダでも作って元気を出そうと考えた。
早速、炊事を始める。じゃがいも、にんじん、セロリ、きゅうりと刻んでいるうちに、玉ねぎが無いのに気づく。
なんとまあ!玉ねぎなんて、何時も必需品として置いてある筈なのに。
とうとう、玉ねぎの存在まで確認するのを忘れていたとは……

買いに行くのも面倒だから、玉ねぎは省略した。
こうした僅かな事に気が抜けてしまっている自分に呆れる。

全てがそうなのかなぁ!
もう少し、いや、随分と気をつけて生活をしていたのに、最近は、ガタガタと崩れ始めている。


一昨日、白い角封筒がポストに入っていた。
かつて、何年前になるだろう?随分以前の事で数えるのも面倒なほどムカシの事。
F先生という女性の先輩がいた。この人のイメージは忘れないが、彼女と親しく触れ合った事が一度も無かった。

手紙の文面によれば、彼女と繋がりのある人物に手紙を送ったという。
昨年、亡くなった彼女を偲ぶ会を予定しているので、参加して欲しいという趣旨である。

私はF先生の事を思い出そうとした。
しかし、申し訳ないが、彼女は遠い存在であったとしてしか思い出せない。
それに、現在の自分の体調を考えれば、出席は無理と判断している。
しかし、このように、彼女の事を何時までも忘れずに、多くの人を集めるために努力をしている人がいるとはすごいと思った。

姉に話すと「あなたには、そんなに人を集めて偲ぶなどしてくれる人はいないから気にしなくてもいいのじゃない?」と言われた。

な~るほど、そうですね~。
私は、そんな風に慕われる人間じゃないんだもの。
第一、いなくなったら、だれもやらないでね。
私は、あっさりしたいと思う。

でも、世の中には、何時までも忘れずに故人を偲ぼうとする人たちがいるのだな?
こうして多くの人に偲ばれるって、すごい事だなぁ!と思った。

明日にでも、丁重に欠席の返事を出そうと考えている。

これも、自分本位でしか書けない私の意見である。

~~~~~~~~~

<仁川の寒風を思い出す>

洗濯物を取り入れた。風が寒い。
ふと見ると、東の空に上弦の月らしきものがくっきりと見えた。

昨日、久しぶりに書いた仁川の冬の寒さを感じるような、からりとした寒風だ。

東京に雪が降る:<仁川の冬1>

2016年01月18日 | 一年前
1月18日(月)

朝、障子を開けて外を見た。
雪である。
6cmぐらいかな?
テレビでは大雪だと言う。
あれっ!そうかな?これぐらいで大雪?
ず~っと前の東京では、ずんずん積もる雪に、車で帰る苦労をしたことがある。
その前には渋谷の宮下町の坂道で、滑って転びそうになったり学校のぐちゃぐちゃの運動場に敷かれたむしろの上を校舎まで歩いた思い出がある。
あの頃の東京の雪はひどかった。それに、比べて、今日の雪は少ないと思う。
しかし、日頃、雪が降らない場所では、雪に対する注意や対策がわかっていないからだろう。
交通機関までが、日頃の便利さに抗うようだ。

幸いと、我が家のある地域は雪があまり積もらない。
積もったらどうしよう!と思う。
以前の私は、率先して雪かきをしたものだった。
もう、そのような元気は無い。
立つのも厳しいからだ。

雪といえば、思い出は多い。
戦後、途中で、学校へ行くにも、田んぼの真ん中の縄手で雪を払えなくて、休んだこともある。あの時はきつかった。こういう時の田舎暮らしは辛いものだ。

交通機関は可成り厳しくなる。多くの人達の苦労が一度に吹き出した感じだ。

ああ、今は責任のある仕事についていない事を幸いだと思う。
それに、今日は、やはり病院の予約はしなくてよかったと思う。

~~~~~~~~~~~

<仁川の冬:その1>

仁川の冬は厳しかった。朝鮮は三寒四温がはっきりしている。
めったに降らない雪が降ると、なかなか、雪は解けずに滑りやすくなる。
電柱などの周りにかき寄せられた雪はそのまま春まで解けないことが多かった。

子供達は面白がって、雪の小山に足をずぶりと入れる。
入れた足の穴は、そのまま、春の訪れを待つ事になる。
これも、この街の風物詩ではないかと思う。

時には、坂道の多い仁川では、凍りかけた雪道で誰それさんが転んだと言うニュースも伝わった。
道路にまいた水が凍って、姉がスケートをした事を思い出す。

霜焼けやヒビになった痛む手を、手袋も出来ずに寒い朝礼で我慢した事もあった仁川の冬。
春を迎えるまでの『我慢の子』だった。
私たちは教室に入ると、一斉に石炭ストーブに当たりに行ったものだった。

それにしても、春の日差しを浴びるようになって、電信柱の雪の山が日に日に解けていく様子は、まさに仁川の冬の思い出である。

パソコンから得た反省

2016年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
1月17日(日)

なんともパッとしない日曜日である。
それでも、昨日、ほとんど、パソコンの問題を解決したので、気持ちは落ち着いている。
しかし、体は相当に疲れていて、なかなか回復しそうもない。

Macを見ても、開いてみる気持ちが起こらないのだから、パソキチ(気狂い)の私としては相当なものである。

そうだ。今回も苦労したアドレスをきちんと整理しなくてはと思いながらも、それもやる気が起こらない程、疲れ切ってしまっていた。

しかし、今回の問題で、消え果てたと思って、がっかりしていたものが全部出てきた。
今度こそは、いい加減なことはしないようにしようと決心する。

それに、なが~い電話で質問をして、パソコンを操作したことは、大変な疲労ではあったが、相手をしてくれた係りの人は、よくもまあー、我慢をして相手になって下さったと、感謝している。

もちろん、最後にて丁重に挨拶をして、電話を切ったが、その際も、相手の人は「いいえ、何時でもどうぞ電話を下さい」と気持ちの良い返事を下さった。

仕事とは言え、訳の分からない質問や操作をする相手に対して、よく我慢をしてくれると感心する。
姉も、なんとなく電話の様子を聞いていて感心していた。
「よく、相手の人は我慢をしてくれるわね」

そうか!私は自分なりにパソコンの操作を出来ると思い込んでいた。
しかし、それは思い込みも甚だしいものだったのだ。
確かに、デザインをしたり文を形よく見えるように印字したりは出来たが、本当はパソコンの『パ』の字も知らなかったのだと…

これからは、基礎をしっかり覚えなければと改めて反省したものだ。

こんばんは雪が降ると予報があった。
シャッターを開けると、雪が積もっている。
明日の予定はたてられないと分かる。

問題解決に疲れた私

2016年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
1月16日(土)

今日も結局、パソコンの問題で振り回された。
もう、すごい疲れである。
なんの為にコンピューター??
結局、疲れが溜まりに溜まっている。

今朝はメールアドレスの問題に取り組んだ。
会社に電話をかけても、音楽がなって「只今、混んでいますので、暫くお待ちください」が何回も流れる。

疲れた!あちこち電話をして、インターネットを操作する。
耳が遠くなった私にとって、大きな負担である。
やっと、問題を解決したかと思ったら、次のなが~い電話が控えている。

何よりも、嫌なのはパスワード。
これは’大変な曲者だ。

やっと、解決出来たと思ったら、次の問題が発生。嫌になってしまう。
結局、1日かかりっきり。
嫌になったので、二階でゴロゴロ。
でも、気持ちは落ち着かない。

Wi-Fiは、もうどうだっていいや!なんてほったらかしにしていたら、元へ戻った。
余り気をつかうな!と言う訳らしい。

今晩ぐらいはゆっくり休もう。
アドレス、アドレス、もう、嫌だ!

長~いご無沙汰でした

2016年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
1月15日(金)

ここのところ、メールがおかしくなって困っている。
結局、お手上げの状態で、今までの『我慢の子』は出来なくなった。

思いあまって、MacのKさんに電話をする。
幸いな事に、直ぐに彼と話が出来た。こういう偶然は珍しい。
大体、勤務中に個人の携帯は無理だから、遠慮していたのだ(ちょうど、休みの日だったらしい)
もう、彼と別れてから三年になろうとしている。

何時か、会いましょうと話していたのだが、私の入院前後からすっかりご無沙汰になってしまった。

時折、MATSUYAへは行くが、向かい側にある銀座Appleへは、どうしても行く気にならなかった。
こういう事が嫌いな私は、その話をすると、皆が笑う。
「どうしてですか?」「恥ずかしいもの!」「えーっ?」
そした、私らしくないと言う。
こういう恥ずかしがりの私が本物のワタシなんですよ。

そういうわけで、やっと、連絡がついた私は電車に乗って、新橋へ。
新橋駅には下行きのエスカレーターもエレベーターも無いと、スマなさそうな顔で駅員が言った。

タクシーで銀座へと向かう。
ビルのエレベーターに乗っていると、3階の会場で、彼が講義をしていた。
よほど、気にしていたらしく、遠く離れているのに、素早く私を見つけた彼は、ガラス越しの私に合図をよこした。
有難い事である。

4階のジーニアスでパソコンのアタッチメントの破損を見てもらう。
何回も、ノートブックを落としてしまうから、とうとう、電源に支障をきたしてしまったのである。

もう、いい加減、嫌になったから、新しいMacに買い換えようかしら?と大胆な事まで考えた。
全く、無駄遣いもいいところである。

結局、アタッチメント1万円で済んだ。
Kさんは相変わらず、優しくて親切である。
随分、お世話になったけれど、彼には懐かしい思い出が多い。
この会社は個人的な付き合いを避けているが、人と人の心の触れ合いは静かに流れている。

彼のお父さんは、私と同じ年齢だ。それだけに、心の触れ合いが暖かく感じられるのだ。
やはり、思い立って出かけて良かったと、つくづく思った。

情報関係の会社では、人と人の付き合いには、かなり神経をつかうのだろう。
会社の気配りを感じる。

久し振りにKさんの人柄に触れて、ホッとした。
出口まで送って下さった。有難う!来て、本当に良かったです、


MATSUYAで久し振りに蕎麦店へ行った。
相変わらずの繁盛ぶり。
でも、やっぱり高いなぁと思う。

もう、あとはどこへも買い物に寄る気力も体力もない。
それ程に、私の体力も気力も衰えてしまった。
周りの人は『すごいバアさん』と見ているのだろう。

この頃忘れっぽい私

2016年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
1月14日(木)

昨日、水曜日は、今週のリハビリがある日だった。
最近はうっかりして日を間違えそうになる事が二度もあったので、何回か、カードを見る事にしている。
それ程に記憶が鈍ってしまったのかと、我ながら驚く。
気をつけよう。まだ、ボケてはいないが、人の名前は見事に忘れる。
しかし、しばらくすると、思い出すのだから、会話が遅れる恐れあり。

病院へ行って、何時も通りに院長先生とお会いする。
急いで行ったので、S看護師さんと先生の年賀葉書にイラストを描き上げてからお会いした。

先生は嬉しそうにしばらく絵をご覧になって、これは何の花ですか?とおっしゃった。
申し訳ないけれど、私は、そのとき、すでにその植物の名前を忘れていた。

さて、今も思い出せない。まさに重症。我が家の庭にあるのに…
インターネットの植物図鑑で見つけた。
そうだ!『南天』あの赤い実がなるナンテンだ。
「そのうちに思い出しますから」と呑気な事を言ったが、結局、忘れたまま話は終わった。

残念ながら、その後はトンと思い出せずにいたのだからひどいものだ。
結局、今年の賀状は文字だけになってしまったから、少しでも寂しさを無くそうと、緑と赤のボールペンでイラストを描いてみた。
結局、九十枚ばかりの賀状に下手な南天らしきものを描く事になった。

それでも、先生は褒めてくださった。
「これからもリハビリに通って来ますか?」
「ええ、よろしければ、人と触れ合うのが大事ですから」
と、お願いする。

帰りは一気にバス停まで歩く。
相当、きつかった。
運転手さんに言われて、何時の間にか、スイカの入金が不足しているのに気づく。
よく、使ったものだ。

姉と、バス停二番目のスーパーへ行く。
相当に疲れた。
やり過ぎかな?

鍋料理

2016年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
1月12日(火)

昨日はカレーを作った。
辛いと思って(実際に辛かった)牛乳とジャムを入れた。
姉は「美味しいけれど、牛乳の入った白いカレーは嫌い」と言いながら、お替りもしてくれたので、安心する。
カレーが無性に食べたかったのである。
それなのに、自分の味付けに自信がない。
全て、私の喉の所為である。

そして、今晩は『ちり鍋』
これは成功。美味しかった!
最後にご飯を入れて食べたが、良い味。
少し、料理の自信が出来てきたかな?

「うちのご飯は、栄養のバランスがとれているね!」と、姉。
これで、素人料理人の私も、少し、安心する。

食べる事は大事だ。
家族が楽しくなったり、だんまりしたり。
私は必ず聞く。恐る恐る…
「お味はどうですか?」と、


アップルパイを作りたいけれど、最近は炊事をすると「キツイキツイ」の連発で終わってしまう。

足の腫れを姉が揉んでくれた。
全くの素人なのに、不思議な力を持っている。

つい、痛くて叫んでしまう。
そかし、よく効くマッサージをしてくれて感謝する。
自分でも、やらなければね。

寿司を食べに

2016年01月12日 | 一年前のその日
1月11日(月曜日の続き)

今日は寒い。バスが来るまでの時間も、つい、震える。

今日は、久しぶりに寿司を食べに行こうかと相談が決まる。
何時も出かける駅ビルの寿司店へ行く。

12時前、もう、客が、結構、来ていた。
最近、座れなかった板前さんの前に座れた。
双方がにっこり!

姉はマグロ。私は相変わらず、しめ鯖に決まっている。
「シャリは小さく、わさびたっぷり寝」が、私の最初の言葉。
この店は、結構、女性の客が多い。一人で来ても、安心出来る店だ。

最近は、残念ながら数多くは食べられないのが残念。歳だなぁ!

食事が終わって、ポイント交換をする。随分たまった。と、言っても、日数をかけたけれど。
結構、良い買い物が出来た。

地下一階へ行ったが、客も少ないし、私たちも珍しく、買う物がない。
正月が終わった所為かな?
野菜も高いし…

着物の思い出

2016年01月12日 | 一年前
1月11日(月)

成人式。
街のあちこちで華やかな振袖姿が通る。
今日は、なんとなくうすら寒い日だ。
「これが本当の冬なんだろうね」と、私はつぶやいた。

着物は寒くないかしら?
今年は暖かい日が続いたから、白いふわふわしたストールもあまり見かけない。
ところが、急に寒くなりだした。
慣れない着物、しかも振袖では、動きも大変だろうな?

私は振袖を着たことがない。
そんな優雅な時代ではなかったのだ。
別に羨ましいとも思わないが、それでも、正月には着物を着た。

殆どは、母の仕立てだ。
母は、着物を縫うのが上手だった。それも速い。時には仕立てを頼まれていた。
ある時、突然、私は自分で着物を縫ってみると言い出して、自分の着物の仕立てを始めた。
布を裁つ事から始まる。縫い方にも、いろいろある。
結局、母に厳しく注意されながら、なんとか仕上げたが、母とは比べ物にはならなかった。

小学校の時も、学校で、一つ身(赤ちゃんの着物)を教えられた。
更に、女学生になってからは、家庭科(昔はそう言わなかった)で、四つ身(子供の着物)から浴衣、着物(袷)襦袢、帯などの縫い方を教わった。
結局、そうして苦心した物は、今、一切、役に立てないでいる。

小学生の頃の思い出に、学校で習った事で、その縫い方は違うなどと母に言われたものがあった。
私はそのことを、直ぐ樣、先生に話した。
先生は生徒を集めて、縫い方を訂正する。
今、考えると、私もお節介な生徒だったのだなと思う。

今では、押入れの高い棚やスーツケースにしまい込まれた着物や帯は、そのままになっている。
『虫干し』さえしないから、どうなっている事やら。

時折「あぁ!着物っていいな!」と思う事もあるけれど、洋服、特に活動的なジーンズやセーターの方が気楽な生活になった。
むしろ、それは、生活の密着し過ぎた無精な服装なのかもしれない。

母が地味な着物で、参観日に来るのが気に入らず、翌日、母が学校へ着て行く着物をうるさく注文した思い出もある。

また、自分で買って来た着物地の柄や色が余りにも洋服じみたもので、母に言われた事も思い出す。
「あなたの着物時は洋服見たい。モダンで地味過ぎる」と…

日本の着物の美しさ、優雅さは、外国でも定評があるが、着物をめぐる母の思い出が度々出てくるのも、私が適当な歳になった所為だろうか?