世俗の幸福と感覚の悦楽という、人を惑わすものを追いかけて、自分が地上にやってきた目的である務めを忘れてしまうのは、人間だけです。
神は、ダルマを復興させて、人間を徳と英知の道に連れ戻すために人間の姿を取ったのですから、ダルマを厳格に守ることほど神を満足させることはありません。
もし自分が見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうもの一切の中の神を意識するなら、人はダルマの道から離れることなく進むことができます。
それは、人生のあらゆる瞬間を真我顕現の感動で満たしてくれることでしょう。11/70
ポニョ:それでは次に黒住宗忠さんのお話を紹介しましょう。この宗忠さんは江戸時代の後期に岡山県で生まれ、明治の初めに71歳で亡くなられた神道家で、とても親孝行な人やったんや。子どもの頃から病弱の両親の手厚く面倒をみていたので、黒住の孝行息子というあだ名をもらっていたんや。でもその両親も介護の甲斐もなく相次いで亡くなり、本人も精神的に落ち込んで病気になり生きる気力を失ってしまい、ある冬至の日に、太陽に向かってお祈りをしていたら、突然霊的なインスピレーションを得て生きる気力を取り戻し、親の神職を受け継いで自分が得た悟りを人々に伝えようとしたんや。今ではもう六代目になっていて、今物議をかましている憲法九条改正や軍備増強などを主張している日本会議の代表メンバーになっているけれど、宗忠さんは軍備増強なんかと縁の無い、全ての生きとし生けるものを愛する優しい方やったんや。それでは宗忠さんのお話です。
武器の製造のためにお金を浪費すべきではありません。
中には国の防衛のために、多額のお金をつぎ込んでいる国があります。
その結果、その国に住む人々は食べ物が無くて苦しんでいます。
神の愛と恩寵だけが国を守ることが出来るのであって、武器で守ることは出来ません。28/7/99
ある日、修験者がやって来て宗忠さんに、法論を吹きかけて来ました。宗忠さんは彼を鄭重にあしらい、黙って頷きながら、頭を垂れて聞いていましたが、その修験者は宗忠さんが「はいはい」と言って相槌を打つだけで何も反論して来なかったので、組みやすい相手だと思い込んで、「ワシに一言も反論できないやつは、これから偉そうに人前で説教などするでない。」と捨て台詞を残して去って行きました。その様子を見ていた妻は「ほんの一言ぐらい言い返したやったら良かったのに。弟子達の目の前であんなひどいことを言われたのに黙っているなんて。」と涙を浮かべながら訴えると、宗忠は「ワシが罵られてもなんの影響も受けないが、あの口が達者な方が神様のことを罵り始めると、その罪は大きいから気が気じゃなかったので、心の中で一心にそういう事が起こらぬように神様にお祈りしていたのじゃ。たとえワシがあの方と議論をして負かしたとしても何もこの世に益をもたらさないではないか。それどころか、天より与えられた一人の生き物を傷つけるだけの事で、そういう事をすれば神様に申し訳が立たないではないか。それより、あの御仁の後ろ姿を見てごらん。わしを言い負かしたという喜びで如何にも勇ましい御姿ではないか。神様はあのような人が堂々と勇ましく生きて行かれるのを一番お喜びになられるんじゃ。良かった良かった。」と言いながら修験者の後ろ姿に手を二度打ってかしわ手をし、手を合わせてその修験者を拝んでいたのでした。
ヨシオ:昔の俺やったらそんな失礼な修験者を蹴り上げて玉を潰したるやろな。
ポニョ:昔の俺はもうええっちゅうに。ほんまにあんたは怒りっぽいよな。宗忠さんとえらい違いや。
宗忠さんは、ほとんど怒りという感情を忘れ去った人でした。ある日近所の床屋の亭主がなんとかして宗忠さんを怒らせてみようと悪さを画策しました。それは宗忠さんが床屋に来た時に、わざとカミソリで一方の眉毛を全て剃り落としてしまう事でした。
何も知らずに床屋に入って来て、散髪した後、宗忠さんは鏡で、自分の一つの眉毛が無くなっているのを見て、「なんという面白い顔じゃ!」と言いながら大笑いされたのです。
また、宗忠さんはいつも質素な身なりをしていたので、ある者が新しい服を買い宗忠さんに贈り物をしたところ、宗忠さんはその服を身につけて、人々に見せびらかして、「どうじゃ似合うじゃろ。どうじゃ、ワシの新しい服は。」と言って大騒ぎをしながら人々の間を歩き回れるそのご様子が、あまりにも無邪気で、それを見ていた人々は全て心がほのぼのとほんのり熱くなったのでした。
ヨシオ:本当にあったかい心の持ち主なんや。両親の介護をずっとして来られただけあるよなぁ。黒住の孝行息子というあだ名が付くぐらい精魂込めて両親の介護をされていたんやろな。俺とえらい違いや。俺は時々お袋の介護に疲れると、こんなアルツハイマー病になってひどい状態で生きていくより、早く肉体から離れた方がええやろ。そうしたら俺も楽になれるしなんてひどい事を思った時もあったな。この宗忠さんの爪の垢でも飲ませてもらいたいな。
ポニョ:あんたはあんたなりによくやったと思うで。それでは最後に、おいらが一番好きな宗忠さんのエピソードを紹介して、この記事を終えますね。
ある日、内弟子の銀次衛を連れて菜の花が咲いているところを歩いていると、突然宗忠さんは、しゃがみこんだまま長い間立ち上がろうとしませんでした。それで銀次衛は一体どうしたものかと心配して宗忠さんに「先生、どうなされたんですか?何をいつまで見ておられるのでしょうか。」と聞くと、宗忠さんは涙を浮かべながらこう言ったのです。
「のう、銀次衛や。ごらんなされ。この菜の花を。親神様は、自らをこのような美しい花になってわたくし達の目を楽しませて下さっておられるのじゃ。その上、おまえ。親神様は、菜の花の実になり、その実を締め木にかかって絞り出すと種油にもなられて、私たちの為に灯りをともして下さるのじゃ。なんと尊いご苦労な事じゃのう。」と。
生命そのものは真実です。
そうした真実である生命からなりたっているこの世界の生き物は、絶えず移ろいゆく、真実では無いものが顕現したものなのです。
だからこの世界は、真実とそうでないものが一緒に流れている川のようなものだというのです。
真実が、真実でないものや変化するものと繋がっています。
ヴェーダンダはこれを「真実と真実でないものが混然となった状態」と形容しています。SGc4
ヨシオ:今回六回に分けて日本の精神シリーズをお送りしましたが如何だったでしょうか。俺は今回の三人の日本の聖者と呼んでもええと思うけれど、白隠さんにしても、良寛さんにしても、今日紹介してくれた宗忠さんにしても、神さんとの距離がほとんど無い人やなって思ったな。神さんとの距離はその人が持っているエゴによって決まるんやけれど、三人ともそのエゴがほとんど無いやろ。
ポニョ:そう言えばそうやな。人からどんな失礼な事を言われても平気の平左やし、何か失礼な事を言われたり、良寛さんのように打たれたり叩かれたりしても、あんたみたいにギャーギャー騒いで、すぐに殴り返したり蹴り上げたりしないもんな。その平常心は尋常なものじゃ無いぜよ。
ヨシオ:さっきから俺の話ばっかりするなよ。人のエゴが少なくなればなるほど、その人が自らの内に持っている神聖さ、アートマの力がその人の体を通じて顕現して来るんや。そして子供のように無邪気で且つ、いろんな事に熱心に仕事に取り組み、全ての人を神様の現れだと見做して生きていく事が出来るようになるんや。それがババの教えなんや。
ポニョ:そうやな。三人とも神が顕現しているってすぐ分かるよな。そして宗忠さんのエピソードにもあったけれど、その辺に咲いている小さな花一輪の中にでも神様を見る事が出来ていたよな。
ヨシオ:心が澄みきっているっていうか、神様そのまんまって感じやもんな。このように自らのエゴを少なくし、欲望を制限し、全ての人の中に神様を見て生きて行けるようになれば、その人自身が神様のようになっていけるんや。だから霊的な奇跡や見えない霊を追い求めたりしなくても、こういう神の神聖な力や奇跡は自然とその人の中から湧いて来るんや。
ポニョ:このような霊的段階まで昇って来ればもうあまり神と変わらないし、神人となり、神と融合するのに死ぬまで待たなくてもええ人になるんやな。早くそんなレベルにまで行きたいな。おいらは不完全のままで完全なんだと信じて生きて行こう。
ヨシオ:そこに霊的修行や努力という字はあるのですか。
信仰の目的とは、自らのハートにおわす神を認識する事、そしてその神の光と力をあなたの身体を通じて顕現さすことです。
これが成し遂げられたなら、この世の全てのものに対して投げかけられている神の愛があなたのハートの中から溢れ出てくることでしょう。
そうなれば、あなたの目はあらゆるものの中に神を見、あなたの手は万人のために良いことだけをするために使われ、そしてその結果、あなた自身が神の化身そのものとなり、至福に満ち、永遠の法悦を味わうことでしょう。
この状態にあっては、帰依者と神との違いは消え失せてしまいます。
常に神を憶念し、神に全託することによって帰依者は神自身となります。
それゆえ、あなたが常に神を思うなら、あなたは神の似姿となるのです。
その時、永遠の歓喜と平安を味わうのは他でもなく、あなた自身なのです。PD42
神は、ダルマを復興させて、人間を徳と英知の道に連れ戻すために人間の姿を取ったのですから、ダルマを厳格に守ることほど神を満足させることはありません。
もし自分が見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうもの一切の中の神を意識するなら、人はダルマの道から離れることなく進むことができます。
それは、人生のあらゆる瞬間を真我顕現の感動で満たしてくれることでしょう。11/70
ポニョ:それでは次に黒住宗忠さんのお話を紹介しましょう。この宗忠さんは江戸時代の後期に岡山県で生まれ、明治の初めに71歳で亡くなられた神道家で、とても親孝行な人やったんや。子どもの頃から病弱の両親の手厚く面倒をみていたので、黒住の孝行息子というあだ名をもらっていたんや。でもその両親も介護の甲斐もなく相次いで亡くなり、本人も精神的に落ち込んで病気になり生きる気力を失ってしまい、ある冬至の日に、太陽に向かってお祈りをしていたら、突然霊的なインスピレーションを得て生きる気力を取り戻し、親の神職を受け継いで自分が得た悟りを人々に伝えようとしたんや。今ではもう六代目になっていて、今物議をかましている憲法九条改正や軍備増強などを主張している日本会議の代表メンバーになっているけれど、宗忠さんは軍備増強なんかと縁の無い、全ての生きとし生けるものを愛する優しい方やったんや。それでは宗忠さんのお話です。
武器の製造のためにお金を浪費すべきではありません。
中には国の防衛のために、多額のお金をつぎ込んでいる国があります。
その結果、その国に住む人々は食べ物が無くて苦しんでいます。
神の愛と恩寵だけが国を守ることが出来るのであって、武器で守ることは出来ません。28/7/99
ある日、修験者がやって来て宗忠さんに、法論を吹きかけて来ました。宗忠さんは彼を鄭重にあしらい、黙って頷きながら、頭を垂れて聞いていましたが、その修験者は宗忠さんが「はいはい」と言って相槌を打つだけで何も反論して来なかったので、組みやすい相手だと思い込んで、「ワシに一言も反論できないやつは、これから偉そうに人前で説教などするでない。」と捨て台詞を残して去って行きました。その様子を見ていた妻は「ほんの一言ぐらい言い返したやったら良かったのに。弟子達の目の前であんなひどいことを言われたのに黙っているなんて。」と涙を浮かべながら訴えると、宗忠は「ワシが罵られてもなんの影響も受けないが、あの口が達者な方が神様のことを罵り始めると、その罪は大きいから気が気じゃなかったので、心の中で一心にそういう事が起こらぬように神様にお祈りしていたのじゃ。たとえワシがあの方と議論をして負かしたとしても何もこの世に益をもたらさないではないか。それどころか、天より与えられた一人の生き物を傷つけるだけの事で、そういう事をすれば神様に申し訳が立たないではないか。それより、あの御仁の後ろ姿を見てごらん。わしを言い負かしたという喜びで如何にも勇ましい御姿ではないか。神様はあのような人が堂々と勇ましく生きて行かれるのを一番お喜びになられるんじゃ。良かった良かった。」と言いながら修験者の後ろ姿に手を二度打ってかしわ手をし、手を合わせてその修験者を拝んでいたのでした。
ヨシオ:昔の俺やったらそんな失礼な修験者を蹴り上げて玉を潰したるやろな。
ポニョ:昔の俺はもうええっちゅうに。ほんまにあんたは怒りっぽいよな。宗忠さんとえらい違いや。
宗忠さんは、ほとんど怒りという感情を忘れ去った人でした。ある日近所の床屋の亭主がなんとかして宗忠さんを怒らせてみようと悪さを画策しました。それは宗忠さんが床屋に来た時に、わざとカミソリで一方の眉毛を全て剃り落としてしまう事でした。
何も知らずに床屋に入って来て、散髪した後、宗忠さんは鏡で、自分の一つの眉毛が無くなっているのを見て、「なんという面白い顔じゃ!」と言いながら大笑いされたのです。
また、宗忠さんはいつも質素な身なりをしていたので、ある者が新しい服を買い宗忠さんに贈り物をしたところ、宗忠さんはその服を身につけて、人々に見せびらかして、「どうじゃ似合うじゃろ。どうじゃ、ワシの新しい服は。」と言って大騒ぎをしながら人々の間を歩き回れるそのご様子が、あまりにも無邪気で、それを見ていた人々は全て心がほのぼのとほんのり熱くなったのでした。
ヨシオ:本当にあったかい心の持ち主なんや。両親の介護をずっとして来られただけあるよなぁ。黒住の孝行息子というあだ名が付くぐらい精魂込めて両親の介護をされていたんやろな。俺とえらい違いや。俺は時々お袋の介護に疲れると、こんなアルツハイマー病になってひどい状態で生きていくより、早く肉体から離れた方がええやろ。そうしたら俺も楽になれるしなんてひどい事を思った時もあったな。この宗忠さんの爪の垢でも飲ませてもらいたいな。
ポニョ:あんたはあんたなりによくやったと思うで。それでは最後に、おいらが一番好きな宗忠さんのエピソードを紹介して、この記事を終えますね。
ある日、内弟子の銀次衛を連れて菜の花が咲いているところを歩いていると、突然宗忠さんは、しゃがみこんだまま長い間立ち上がろうとしませんでした。それで銀次衛は一体どうしたものかと心配して宗忠さんに「先生、どうなされたんですか?何をいつまで見ておられるのでしょうか。」と聞くと、宗忠さんは涙を浮かべながらこう言ったのです。
「のう、銀次衛や。ごらんなされ。この菜の花を。親神様は、自らをこのような美しい花になってわたくし達の目を楽しませて下さっておられるのじゃ。その上、おまえ。親神様は、菜の花の実になり、その実を締め木にかかって絞り出すと種油にもなられて、私たちの為に灯りをともして下さるのじゃ。なんと尊いご苦労な事じゃのう。」と。
生命そのものは真実です。
そうした真実である生命からなりたっているこの世界の生き物は、絶えず移ろいゆく、真実では無いものが顕現したものなのです。
だからこの世界は、真実とそうでないものが一緒に流れている川のようなものだというのです。
真実が、真実でないものや変化するものと繋がっています。
ヴェーダンダはこれを「真実と真実でないものが混然となった状態」と形容しています。SGc4
ヨシオ:今回六回に分けて日本の精神シリーズをお送りしましたが如何だったでしょうか。俺は今回の三人の日本の聖者と呼んでもええと思うけれど、白隠さんにしても、良寛さんにしても、今日紹介してくれた宗忠さんにしても、神さんとの距離がほとんど無い人やなって思ったな。神さんとの距離はその人が持っているエゴによって決まるんやけれど、三人ともそのエゴがほとんど無いやろ。
ポニョ:そう言えばそうやな。人からどんな失礼な事を言われても平気の平左やし、何か失礼な事を言われたり、良寛さんのように打たれたり叩かれたりしても、あんたみたいにギャーギャー騒いで、すぐに殴り返したり蹴り上げたりしないもんな。その平常心は尋常なものじゃ無いぜよ。
ヨシオ:さっきから俺の話ばっかりするなよ。人のエゴが少なくなればなるほど、その人が自らの内に持っている神聖さ、アートマの力がその人の体を通じて顕現して来るんや。そして子供のように無邪気で且つ、いろんな事に熱心に仕事に取り組み、全ての人を神様の現れだと見做して生きていく事が出来るようになるんや。それがババの教えなんや。
ポニョ:そうやな。三人とも神が顕現しているってすぐ分かるよな。そして宗忠さんのエピソードにもあったけれど、その辺に咲いている小さな花一輪の中にでも神様を見る事が出来ていたよな。
ヨシオ:心が澄みきっているっていうか、神様そのまんまって感じやもんな。このように自らのエゴを少なくし、欲望を制限し、全ての人の中に神様を見て生きて行けるようになれば、その人自身が神様のようになっていけるんや。だから霊的な奇跡や見えない霊を追い求めたりしなくても、こういう神の神聖な力や奇跡は自然とその人の中から湧いて来るんや。
ポニョ:このような霊的段階まで昇って来ればもうあまり神と変わらないし、神人となり、神と融合するのに死ぬまで待たなくてもええ人になるんやな。早くそんなレベルにまで行きたいな。おいらは不完全のままで完全なんだと信じて生きて行こう。
ヨシオ:そこに霊的修行や努力という字はあるのですか。
信仰の目的とは、自らのハートにおわす神を認識する事、そしてその神の光と力をあなたの身体を通じて顕現さすことです。
これが成し遂げられたなら、この世の全てのものに対して投げかけられている神の愛があなたのハートの中から溢れ出てくることでしょう。
そうなれば、あなたの目はあらゆるものの中に神を見、あなたの手は万人のために良いことだけをするために使われ、そしてその結果、あなた自身が神の化身そのものとなり、至福に満ち、永遠の法悦を味わうことでしょう。
この状態にあっては、帰依者と神との違いは消え失せてしまいます。
常に神を憶念し、神に全託することによって帰依者は神自身となります。
それゆえ、あなたが常に神を思うなら、あなたは神の似姿となるのです。
その時、永遠の歓喜と平安を味わうのは他でもなく、あなた自身なのです。PD42