サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

認知症介護と霊性修行(下)

2016-10-25 00:00:21 | 日記
奉仕を通してのみ、人は神の恩寵の受け手となることができます。
奉仕活動に参加しなければ人生は無意味です。
神を愛する一番の方法は神に奉仕することです。
あなたたちはすべてのものの幸福を願い、愛と奉仕の道を歩むべきです。
そうして初めて、あなたの人生は成就を得るのです。5/7/03

ポニョ:認知症の話の続きです。昨日はおいらが老人養護施設でオクラを食べる話をしました。

ヨシオ:違うやろ。死に行く行列に加わりたくないって言ってたやないか。お袋がまだ認知症になっていなかった頃、お袋は俺にこんな事を言った事があるんや。「世潮、私がもしお前に迷惑をかけるぐらいもうろくしてしまったら、絶対、面倒を見ようと思ってはいけないよ。お前は優しい子やから最後まで面倒見ようとするやろ。でも私はお前や嫁さんに一切面倒をかけたくないんや。だからよく聞いてちょうだい。今ここで約束してね。そんな時が来たら迷わず私を施設に連れて行ってね。お願いよ」と言ったんや。俺はそのお袋の言葉を覚えていて、お袋の頭が冴えている時に聞いた事があるんや。「陶芸教室の先生が働いておられる素晴らしい老人介護施設があるけれど、入る気はないか」って。するとお袋は「先生以外の人には英語で話さなければいけないので、疲れるかも」と言ったんや。俺はお袋がそんな風に返事するとは予想しなかったので驚いて顔を見てたんや。だって普段そんなまともな会話を出来ないくらいその当時はもう認知症が進んでいたんや。でもすぐにその後元のお袋に戻ってしまったんや。やがて半年ぐらい施設に入る順番待ちをしていると、「入居できますよ」という連絡が施設から来たんや。それでその日朝から色々と忙しく準備し、入居する為にお袋の身の回りの物を全て車に積み込んだんや。俺はこれで今日からやっと介護から解放されるとホッとした気分で、お袋を車に乗せて施設の方に向かって運転し始めたんや。介護施設は家から五分もかからないところにあって、徒歩でも行ける距離なんや。でもその施設が視野に入ってきた時に、俺は心の中から小さな声が囁いているのが聞こえて来たんや。口には出して説明出来ないけれど、その囁きは愛に満ち溢れていて、そのメッセージをしっかり聞こうと耳をすませた途端、愛がいっぱいのフィーリングに包まれて俺の目から涙が出て来て目の前が見えなくなるほどやったんや。そしてそれと同時に、メッセージも聞こえて来て俺にこう言ったんや。「東洋子(お袋)が一番幸せな事を為せ」と。

それで俺はお袋が一番幸せな事は、何かなって考えたんや。「そうや!お袋が一番幸せな時は、孫達と過ごす事や」と気づき、急いで車をUターンをさせて孫達が住んでいる家に戻ったんや。家族は俺が突然戻って来たので皆一様に驚き、俺の説明を聞こうとして俺の口が開くのを待っていたんや。みんなの顔をゆっくりと見回してから俺はこう言ったんや。「お袋はお父さんが最後まで息を引き取るまで面倒を見る」って。その頃、嫁さんもお袋の介護で精神的にもとても参っていて、体重はどんどん減っていくし、食事も喉を通らないし、少しヒステリー気味で普通の状態じゃなかったんや。それで子供たちも母親の心配をしてお袋を施設に入れようと俺を説得してたんや。しかもその頃、子供達の何人かも受験や大学の試験の最中で、夜中まで勉強してたんや。でもお袋は、夜中に突然子どもたちの部屋に入って来て汚物を投げたり、罵ったり、ひどい時には理由もなく、いきなり子供達の頬を手のひらで殴ったりするので、子供達も怯えていたんや。それで俺が突然また、お袋を家に連れて帰って来たので家族中が驚いたんや。俺は家族にこう説明したんや。「お婆ちゃんがこんな風になった事はもちろんカルマによるものや。そんなお婆ちゃんをお父さんが世話をしなければいけない事は息子としての義務や。だからどれほど素晴らしい施設であろうと、どれほど素晴らしい介護士がいようと、お父さんは自分の義務を放り出してお袋を施設に預けるわけにはいかない。お父さんが自分の義務を投げ出すという行為は、サイババさんも喜ばれないだろう。サイババさんは、お婆ちゃんの身体を通じてお父さんたちに働きかけて来られるんや。お婆ちゃんを通じてお父さんたちに試練を与えて下さるんや。だからその試練、テストを放棄することなくしっかりと良い点数を取る為にお父さんは頑張ろうと思っているんや。だからみんなも良かったら力を貸してくれたら有難い。もちろんお前たちが試験中で大変なことは良く知っている。でも試験勉強が大変だからと言って逃げ出すわけにはいかないやろ。お前たちは学校に受かる為に試験勉強をしてる。お父さんも神さんの与えてくれた試験に合格する為にお婆ちゃんの面倒を見てるんや。それを放棄することは出来ない。もしお前たちが協力するのが大変だと言うのであれば、お父さんは家から出てお婆ちゃんと二人で住んで自分で面倒を見る。突然気が変わったのは、施設に行く途中でサイババさんが、お婆ちゃんが一番幸せなのはどういう時か考えなさいというメッセージをくれたからなんや。お婆ちゃんが一番幸せな時ってお前たち孫と一緒に過ごす時なんや」と言ったんや。俺の話を聞いていた子供達は、「お父さんの考えはよく分かりました。自分たちも、自分たちだけの事を考えずにお父さんやお母さんに協力します。何といってもお婆ちゃんには子供の頃からずっと世話になって来たし、自分達もお婆ちゃんの介護をする義務がありますから。」と言って次男と三男が早速介護士の資格を取るために勉強をし、介護に慣れるために、今までやって来たバイト先を変更して、老人ホームで働くようになったんや。それでバイトを終わって家に帰って来てから、「今までお父さんやお母さんに任せていたお婆ちゃんの介護を僕たちもするからね。僕たちは介護の専門家だよ。」なんて言って俺たちの仕事を手伝うようになったんや。

ポニョ:お婆ちゃん孝行な孫さんやな。

ヨシオ:このようにどんな辛い試練も神様に捧げると、神さんが力と勇気と知恵と、そして愛を下さるから全て上手く行くんや。大事な事は、いつも自分がワクワクする事や、やりたい事をやるとかではなく、自分がしなければいけない義務を神様に捧げて、それを好きになろうと努力する事なんや。俺が朝一番にお袋の部屋に入る時にワクワクするか?部屋に入るには神さんの助けが必要なんや。誰でもそうやろ。勇気がいるやろ。ドアを開けるといきなり糞が飛んで来るんやで。そんな状況でもワクワクして部屋に入って行ける奴って、糞が好きで浣腸して遊んでいる変態野郎だけやないか。そういう義務をした事が無い人間だけが口先だけのきれいごとを並べるんや。そうではなく、自分に与えられた義務を避けることなく、神さんと一緒に愛でもってやって行けば、自分達も変わって行けるし、周りの人たちも変わって行くんや。そうして人は一歩一歩神様に近づいて行けるんや。

ポニョ:おいらが最近読んだ本には、人は臨死体験をすれば悟りを得られたって書いてあったけれど、それって眉唾ものやぜよ。その人は臨死体験から帰って来て末期ガンも癒されたんや。でも本の末尾に付いてあった医者のレポートを見ても、たった一人の医者のレポートやし、その本についてコメントしてある他の医者のレポートも読んだけれど、そういう末期ガンからの劇的な回復事例は他にもあるって書いてあったぜよ。

ヨシオ:臨死体験をして人は神を悟れるんやったら、霊性修行の一環としてみんな自殺未遂をしればええやないか。大体、臨死体験をした人がそんな簡単に悟りを得れるわけがないやろ。もしその話が作り物ではなく本当の話やったら、今まで神を悟ろうと苦行して来た聖者達の努力って一体何やねん。臨死体験をしただけで悟りが開けるんか。アホやないか。俺の知っている人も何人か臨死体験をした人はいるけれど、誰も全然悟っていないで。ただ死ぬって怖くなくなったとは言ってたけどな。ただ一人、俺が学生の頃勉強したユングという心理学者は、六十才ぐらいの時に臨死体験をして悟りを得たようなエピソードがあるけれど。でも彼の場合は、既に悟りを得ていて、「あなたは神を信じますか」と聞かれた時に、「私は神を信じているのではなく、もう既に彼を知っている」と答えたぐらいなんや。それにユングは夢からもメッセージをもらえたし、覚醒している時でも自らの内にあるアートマと会話が出来ていたんや。彼はその自らの内にあるアートマにフィレモンという名前を付けてたけれど。この話はまた改めて記事にしよか。

ポニョ:フィレモンって何の種類のレモンですか?その人は多分今まで読んで来た、いろんな本の霊的知識を繋ぎ合わせて、その間に嘘八百の言葉を混ぜ込み、真面目に霊性修行をして世界の光になろうとしている霊性修行者達を惑わそうとしているんや。グロ襟は悪魔崇拝者やから、絶対神様を認めたりしないしぜよ。彼らの隠された意図が出版されている本には、神様を信仰したり、神様を礼拝したり、神様を愛したりする事を勧めないからすぐに分かるんや。神という言葉の代わりに、宇宙エネルギーとか、存在する者とか、自分の内部だとか、宇宙の中心だとか、ありのままの自分だとかという言葉に神様を置き換えるんや。一見正しい事を言っているように見えるだけで、実は正しい教えを歪めようとしているんや。キリスト教の家族を大事にするという伝統を破壊する為に、彼らは漏るモン教や絵保場証人を作って、一夫多妻制度を広めたり、無料で配布しているパンフレットの絵の中に上手く悪魔のメッセージを隠し絵として忍び込ませて人々を洗脳しているんや。

ヨシオ:本当にポニョは何でも良く知っているな。この世の中を渡るには、神様を愛し、その神の愛を奉仕という行為によって自分の体を通じて顕現していかなければならないんや。それが神さんと一緒に人生を歩むっていう意味なんや。そこのところをスルーして、自分一人だけでどうやってこの人生の荒波を渡りきれる事が出来るんや。先ず神さんを愛する事が、人が生きていく上での全ての基本やないか。

私たちが地上で生活できる機会そのものが、短期間のものでしかありません。
それにもかかわらず、私たちは、肉体をいつまでも生かしておくために、次々とさまざまな試みを重ねます。
これは愚かなことです。
命の長さは神の意志によって決まります。
地上での生命は、神が肉体から私たちを引き離すときに終わりを告げるのです。
地上で生きている間の私たちの務めは、私たちのエネルギーを、他の人々に対する無私の奉仕にささげることです。
こうするためには、私たち自身の意識と心とを純粋で愛に満ちた状態に保っておかなければなりません。
あなたは、自らの生活の中で神の愛を顕現していかなければなりません。
無私の奉仕は神です。
機会あるごとに、無私の奉仕をするように最善の努力をしなさい。
立派な人格を持った人々と、神についての平安に満ちた心の暖まる会話をすることは、非常に有意義なことです。
あなたは、神は愛であるという信念と信頼とで、心を一杯にしていなければなりません。
神は慈愛に満ちた方であるということを、決して忘れてはなりません。SIK P.114~115