サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

イスラムのお話❷

2016-02-04 00:00:11 | 日記
感情、情念、衝動、態度、反応を浄化しなさい。
それこそが、あらゆる宗教で定められている霊性修行の本質です。
心と思いを点検しなさい。
過ちの多い人間を求めてはなりません。
純粋なるものだけを求めなさい。
いかなる人の悪口をも言ってはなりません。
だれをもはずかしめてはなりません。
長所を見てその人を敬いなさい。
あなたの行いに対する人々の嘆きは、あなたが息を引き取るとき心につきまとって離れません。1008の宝石 P.97

ポニョ:昨日はどうして天使ガブリエルがイスラムに登場したのかと質問したところまでお送りしました。という事でなんでやねん?

ヨシオ:いきなり本題に入るんか?まあええけど。それは、昔、セム族という種族が一神教を信じていて、全てはただ一つの神から来ているというまるで、ヴェーダの不二一元の教えを信じていたんや。ポニョはもちろん人類の始祖といわれるアブラハム、また十戒で有名な預言者モーゼなどを知ってるやろ。彼らはみんなセム族に属しているんや。もちろんムハンマドも。みんな有名な予言者たちやもんな。

ポニョ:全部知っているぜよ。とくにモーゼの十戒は映画で見たぜよ。紅海が二つに割れて海の底を歩いて渡るシーンがすごかったぜよ。

ヨシオ:また映画か…。そのアブラハム、モーゼはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教に共通の予言者なんや。彼らは全員、セム族が信じていた一神教をバックグラウンドにしてるんや。その後にユダヤ教は、自分たちは神様から選ばれた民族、いわゆる選民思想を取り込んでいくんや。そしてユダヤ教徒は、神がメサイヤとして来られるのを信じているから、イエスがそのメサイヤだと思い、自分たちの世俗的な欲望、権力や富をメサイヤであるイエスを通じて得ようとしたんやけれど、イエスはもっと、精神的で、禁欲的、権威、権力や現世的な欲望を否定したので、ユダヤ人たちはイエスはメサイヤではなかったと分かり、迫害してイエスを十字架にかけるんや。一方キリスト教は三位一体、つまり神と聖霊そしてキリストの一体性を信じていて、ユダヤ教と袂を分かつんや。でも、ムハンマドはセム族が信じていた一神教の教えに戻り、ユダヤ教の選民思想を受け入れられないし、かと言ってキリスト教の三位一体の教えも受け入れられなかったんや。というのもキリストは普通の人間であって、ただのムハンマドのような神のメッセンジャーに過ぎない、イエスは神そのものではないと思ったんや。そして唯一の神は、目に見えぬ無形の太霊であって、そのメッセージを伝える者と、無形である神とは一線を画さねばならないと思ったんや。少しここで付け加えて言えば、イエスが、私を通じてのみ父である神の元に行けると説いたのを、イエスの意思に反して後世の学者は、キリスト教徒だけが神の元に行けると間違った解釈をしたんや。でもイエスは、私への信仰を通じて人々は無形の大元の神にたどり着けるという意味なんや。でもムハンマドは、キリスト教徒やユダヤ教徒だけが大元の神に到達出来るのではなく、すべての人が貧しい者に愛を捧げ、良い行いをすればアッラーは救い上げてくれると説いたんや。

ポニョ:その辺の解釈が難しいぜよ。でも何となくキリスト教やイスラム教、そしてユダヤ教が同じ根っこから来てるって理解出来てきたぜよ。だから旧約聖書に出て来る天使ガブリエルがムハンマドにやって来たんか。やっと分かったぜよ。でも、こうしていろんな宗教を見たら、どれも問題があるぜよ。だって不二一元的な教えは、あなたも私もみんな実は神様ですよやろ?ユダヤ教の選民思想でもなく、キリスト教の自分たちはメッセンジャーであるだけでもなく、実は目に見えない神でもあるけれども、そればかりでもない。だって神は人の身体をもとって、この世界に降臨されるもんな。だからイスラム世界では、偶像を否定しているから、神の化身であるババを受け入れるのが難しいんやろな。本当は自分たちや生きとし生けるもの、ひいては石ころやこの世にあるもの全ては神だっていうのが不二一元の教えやもんな。

ヨシオ:ここで、いろんな宗教を比較するのが目的ではないけれど、全ての宗教は実は真理を教えているんや。例えばユダヤ教は、神さんがメサイヤとして降臨されるって信じているけれど、それって正しいし、キリスト教の三位一体論もその三つは一つだっていう論も正しいわけやろ。また、イスラム教の大元の神さんは姿形が無く、全てに存在してるって言ってるけれどそれも正しいやろ。でも大元の神さんって象さんみたいにスケールが大きいから、一つひとつの宗教は、まるで盲目の人が象の鼻を触って、「象って蛇みたいにクネクネしてるよ。」と言ってみたり、耳を触った盲目の人は、「いや、象ってうちわみたいに平べったいぜ。」と言ったり、また足を触った人は「いや、象さんは丸太みたいやぞ。」と言ったりしているようなものなんや。でも全ての宗教が教えていることは、正しくて真理なんや。ただ全体象さんが見えないだけなんや。さっきの話に戻るけれど、俺が言いたかったのは、以上の三つの宗教の根っこはセム族の一神教から来てる兄弟宗教なんやって事なんや。

ポニョ:全体象さんってなんですか?そのセム族の一神教は、多分ヴェーダの不二一元論から来てるんやろな。

ヨシオ:多分そうやろな。でもムハンマドはセム族というひとつの部族だけではなく、全ての部族、民族、人種を超えた全ての人々がアッラーと呼ばれる大元の神の前に等しいと説いたんや。そして、人が生きている時に為した善行のみが、その人が死んでから神から審判を受ける時に恩寵をもらえると説いたんや。

ポニョ:それって当たってるやないの。ええ事を言ってるな。

ヨシオ:そうやろ。ムハンマドは、こういう神からの啓示をアラビア語に書き記し本にしたんや。

ポニョ:それがコーランってわけやな。

ヨシオ:今、ポニョはコーランって言ったけれどそれは英語の読み方で、本当はアラビア語で「読誦」を意味するクルアーヌンから来てるんや。それにクルアーンの著者はムハンマドって言われているけれど、これも間違いで、本当はムハンマドはただのラジオの受信機のようなもので、天界からのメッセージをアラビア語にしただけの人やという事になっているんや。俺はそうは思わないけどな。

ポニョ:そうなんや。今まで信じていた事と違うことが多いな。

ヨシオ:このようにイスラム教って、世界で一番誤解されている宗教なんや。そして、このクルアーンの原典は天の銘文に刻まれており、それを天使ガブリエルが、人類啓示のためにムハンマドにアラビア語で読んで聞かせた事になっているんや。だから、元々このクルアーンは、アラビア語の大詩人が作ったような格調高い響きと構成で作られていて、それを聞いた人は誰でも体を揺らして恍惚状態になるほどの素晴らしい文章なんや。しかもそれを両親が亡くなり、貧しい学校にも行っていない無学のただの店員だったムハンマドが書いたなんて誰も信じないやろ。だから人々は、クルアーンは天からの啓示だってすぐに認めたんや。そしてそのすばらしい文章の格調を壊さないためにも、長い間クルアーンはアラビア語以外の翻訳をする事はタブーやったんや。

ポニョ:そうやったんか。それであまりイスラム以外の人々はクルアーンの教えに触れる機会はなかったんやな。

ヨシオ:ムハンマドは、このクルアーンに書かれた教えを人々に伝えようとしたんやけれど、いろんな妨害にあったり、暗殺されそうになったことも一度や二度ではないんや。それでとうとうメッカを離れてあちこちをさ迷い歩くんや。しかしそのうちにたくさんの人々がそのクルアーンの教えに触れて感動し勢力を伸ばし、とうとう自分の故郷であるメッカに、一万人の軍隊を率いて戻って来て無血開城を果たすんや。

ポニョ:その時に、昨日紹介してくれた奴隷解放宣言をしたんやな。

ヨシオ:そう。当時のしきたりで、占領された都市の住人は自動的に征服者の奴隷になるんや。でもそういう習慣を廃止した。それだけではなく、既得権益や特権を廃止し、アッラーは目に見えないが全てに存在してるという教えに従って、偶像崇拝を禁じて、アブラハム由来の由緒あるカーバ神殿にあった360体の神像を破壊し、人々に大元の神である無形のアッラーを信仰するように促したんや。

ポニョ:イスラム教徒が、アーヨディアにあるラーマの神殿を破壊して、その上にモスクを建てたって言われているけれど、イスラムが侵入したところの仏像やヒンドゥー教の神さんが破壊されるのは、こういう理由からなんやろな。ババは姿形が無い大元の神を信仰するには、先ず、神様に姿形を持たせてそれを信仰し、その後、徐々に姿形が無く、全てに充満されている無形の至高の神を信仰するようにしないといけないと仰っているよな。でないと、なかなか神様のイメージを心の中で浮かべるのは難しいもんな。

ヨシオ:という事で四千字近くになったので、この続きは明日にしよか?

ポニョ:あのね。もしもし?ムハンマドの天界大冒険はどうなったのですか?おいらはそれを楽しみにしてたんですが…。

ヨシオ:という事で、明日はポニョのリクエストに応えて、ムハンマドの天界大冒険をお送りいたしますね。それではさよなら、さよなら、さよなら。

ポニョ:勿体(もったい)ぶらんとってくれませんか?大阪の人間はこれやから嫌われるんやぜよ。

人間は確かに万物の長ですが、にもかかわらず、弱く、他者に依存する存在として生まれてきます。
社会の文化と伝統、家、国、宗教、つまり歴史は、個々の人間の人生と思考に影響を与えます。
歴史は人の個性を形作り、国家への忠誠心や親近感を与えます。
それゆえ、人は孤立無援の存在としてではなく、万人に内在する神性を意識しながら成長するものであり、それによってついには一体性を体験することになるのです。21/11/85