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くもんのノンフィクション・愛のシリーズ17 緑のドクター-老木の治療に生涯をささげる樹医・山野忠彦-

2009年03月23日 | 読書日記など
『くもんのノンフィクション・愛のシリーズ17 緑のドクター-老木の治療に生涯をささげる樹医・山野忠彦-』
   藤崎康夫・作/根岸佐千子・写真/くもん出版1988年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「老木に生命(いのち)をふきこむ名医
「木にも病気やけがをなおす医者がいてもいいでしょう。木も人間と同じ生きもの。いや、百年千年と生きる樹木は、人間よりもはるかに生命力が上まわるのです。
 そんな樹木たちに、耳をかたむけてやる人間がいなくてはならないのです。」
と、樹医(じゅい)・山野忠彦(やまのただひこ)は日本中の名木といわれる木ぎの治療にきょうも奔走するのです。」



■もくじ■
生きぬいた被爆エノキ  6
朝鮮の山やま  27
樹医をめざして  44
よみがえれ、古木  69
緑の名医  84
いそがしい日び  97
工夫  111
後継者   124
おられるイチョウ  138


陸軍病院にあったエノキ。下「」引用。

「太田川のほとりの基(もと)町に大きな陸軍病院がありました。おもいけがや病気をした兵士が戦場からおくりかえされ、傷や病をいやしていました。病院の娯楽室の窓から大きなエノキが見えました。
 夏の日、あおあおと葉をしげらした元気なエノキをながめていると、傷病兵たちは傷ついた心にやすらぎをおぼえました。-略-」

社会科で、他のエノキの話をする先生……。下「」引用。

「原爆投下から三十四年たった一九七九(昭和五十四)年、広島市立基町小学校六年三組の社会科の時間でした。
 担任の榎野譲(えのゆずる)先生は、クラスの子どもたちに基町に立っていたクスノキの話をしました。このクスノキは被爆しながら生きのびたのですが、太田川の護岸工事のためにきりたおされてしまったのです。-略-」

運動がはじまる……。下「」引用。

「エノキをまもる運動は、しだいに学校全体にひろがっていきました。」

山野さんへ。下「」引用。

「広島市中区役所は、子どもたちのこの熱意をしって、被爆エノキを保存していくことにきめました。
 区役所は、大阪にすんでいる樹医(木の医者)の山野忠彦に治療してもらうことにました。-略-」

若木の根をつぐ……。下「」引用。

「忠彦は、ちかくに生えている若いエノキの根のしっかりした部分をきりとり、被爆エノキの根につないでやりました。
「いたかったろう。でもよくがんばったなー。これできっと元気になるよ。」
 忠彦は、手術をおえた被爆エノキにやさしくいいました。-略-」

法隆寺からも要請……。下「」引用。

「この長い歴史もつ法隆寺の境内には、たくさんの建物とともに、千本ちかくのマツをはじめ、スギ、サワラ、モミジなど、数おおくの木があります。老木もおおいのです。こうした老木のなかでも樹齢三百年以上のマツに、葉が赤くなり、かれかかっているものが目立ちました。
 法隆寺では、原因が車の排気ガスとマツケムシだといわれ、排気ガスの対策を立てたり、殺虫剤を散布したりしてきましたが、結果がおもわしくありませんでした。-略-」

外国からも……。下「」引用。

「いろいろ人が、忠彦の治療を見学にやってきます。そのなかには、外国人の見学者もいます。フランス、イタリア、オーストラリア、アメリカ、オランダ、西ドイツなどの植物学者や園芸関係者たちでした。
 この人たちは、とても熱心でした。-略-」

そして……。下「」引用。

「忠彦の治療法は、「山野方式」として海外でもしられるようになっていたのです。」










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