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黄土の村の性暴力-大娘たちの戦争は終わらない-

2009年02月07日 | 読書日記など
『黄土の村の性暴力-大娘たちの戦争は終わらない-』
    石田米子、内田知行・編/創土社2004年

ひどいものです。
--七三一部隊だけが特殊なものではなかった……。
そういう人の言葉を思い起こした……。



■目次・主なものだけ■

はじめに 石田米子  6
第一部 証言・資料篇 山西省孟県農村からの訴え
盂県西部における性暴力被害者への聞き取り調査の概要 石田米子  15
山西省盂県農村における日本軍性暴力被害の証言記録  35
証言解説 大娘たちの村を襲った戦争 加藤修弘  126
李貴明さんのこと 川見公子  186
進圭社拠点日本軍による
 性暴力被害と羊泉村村長の殉難 張双兵 石田米子訳  188
『盂県文史資料』が記述する「惨案(住民殺戮事件)」 友野佳世訳  200
第二部 論文篇 山西省における性暴力とその背景
日本軍性暴力に関する記憶・記録・記述 石田米子  217
山西省の日本軍「慰安所」と盂県の性暴力 石田米子・内田知行  238
天津における娼妓制度と日本軍「慰安婦」 佐藤佳子  272
田村泰次郎が描いた戦場の性 池田恵理子  272
山西省における日本軍特務機関と傀儡政権機構 堀井弘一郎  326
山西省盂県における日本軍占領統治と抗日運動 内田知行  407
あとがき 内田知行  407
年表  414

大娘(ダーニャン)とは……。下「」引用。

「高齢の女性たちを愛情を込めて呼ぶ「おばあちゃん」は、この地域では「ダーニャン(大娘)」と言う。」

国際公聴会から……。下「」引用。

「私たちの中国孟県の性暴力被害女性との出会いは、一九九二年に東京で開かれた「慰安婦」問題の国際公聴会で、中国人女性では初めて世界に向かって自らの性暴力被害を訴えた万愛花さんとの出会いから始まったが、本格的に現地農村に入って聞き取りによる実態調査を開始したのは一九九六年一○月であった。」

ビデオもあるという。下「」引用。

「私たちの共同の調査・記録・研究を進めることと並行して、池田及びビデオ塾が撮影・編集した日本のビデオ記録『ダーニャンたちの記憶』『ダーニャンたちの歳月』があることを付記しておきたい。」

戦後も大変だったようです。

逃げた姉の見せしめに妹にひどい仕打ちをして、姉が出てくるようにしたという……。

漢奸」という人たちもいた……。下「」引用。

「姉が再び捕まった後、「漢奸」が私たちの父に「日本兵にの金を渡せば、娘を買い戻すことができる」と言ったので、父は「漢奸」に大金を渡しました。しかし、父によれば、結局その金は「漢奸」に使われ阿片代などになってしまい、姉を取り戻すことはできませんでした。-略-」

戦後、姉と逃げた男は自殺。下「」引用。

「姉はようやく日本兵の所から戻ってくることができましたが、今度は進軍してきた八路軍に処罰されるおそれがあり、維持会の会長だった南存年という人に逃げることを勧められ、北の方に逃げました。南存年地震も北に逃げましたが、後年南頭村に戻ってきた後、建国初期の反革命鎮圧運動の頃に首を吊って自殺しました。」

「天津における娼妓制度と日本軍「慰安婦」」下「」引用。

「近年、「慰安婦」研究において、抗日戦争期の中国占領地区における調査が進み、その結果、中国大陸における中国人「慰安婦」と「慰安所」の存在がしだいに明らかになっている。私たちのグループも山西省太原市やその東に位置する陽泉市内を歩いて聞き取り調査を行う作業はたいへんにむずかしい。-略-」 

田村泰次郎が描いた戦場の性--山西省・日本軍支配下の買春と強姦」 下「」引用。

「兵士たちは掃蕩(そうとう)作戦や燼滅(じんめつ)作戦の虐殺の凄まじさは語るが、強姦や強姦所についてほとんどの場合、沈黙するか否定する。ところが、田村泰次郎の小説は極めて饒舌である。」

肉体作家と呼ばれたという。下「」引用。

「翌一九四七年には、敗戦によって生まれた街娼たちの生態を『肉体の門』に著して爆発的な反響を呼んだ。やがて同書は「空気座」で劇化されてロングランとなった。同年三月から四月にかけて、山西省の兵士と朝鮮人「慰安婦」との恋愛を描いた『春婦傳』を発表。これは東宝で『曉の脱走』(一九五○年)として映画化され、谷口千吉監督、池部良・山口淑子主演でヒットした。田村は自ら、「『肉体の悪魔』、『肉体の門』、『春婦傳」の三作で、私の作品は、肉体文学と呼ばれ、私は肉体作家と称されるようになった」と、得意満面である。」

それだけでは終わらなかったようだ。下「」引用。

「しかし、戦後一○年、二○年と歳月がたつうちに、田村は戦場の日本軍の現実を見据えた作品を描くようになる。作品数は減少し、短編が多いが、歳月がたつにつれて強烈な印象を残す作品になっている。一九五四年に書いた『裸女のいる隊列』では、田村は日本軍の残虐さを描いて、次のように述べる。
 戦後十年すぎたいま、ふたたび、民族優越の自信をとり戻すことが叫ばれても、私にはとてもそんな気持ちが動かない。私は日本人の一人である自分自身を信じられぬし、また人間全体をも容易に信じることは出来ない。」








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