磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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刻の影

2009年04月27日 | 読書日記など
『刻(とき)の影』
   徳光彩子・著/日本随筆家協会2002年

小説のような随筆です……。



■目 次■
疾風のように  11
あこがれ  57
訣別  101
少年の像  151
しのび寄る影  185


精神科のことが書かれてありました……。下「」引用。

「今回は精神科の病気で、幻覚症状がひどいという、療養医療センターに勤務される精神科の名医を頼っての入院だった。
 病院の敷地に足を踏み入れたときから、一種異様な雰囲気を感じた。通常の病院の混雑は見られない。私は、戦前に友人を見舞った結核療養所を連想した。」

レッド・パージのころの学校教師……。下「」引用。

「玲子は社交的で、行動力があった。自分が正しいと思ったことは迷わず実践していく。職員会議でも、よく意見を述べた。当時はまだ女性が発言するのは勇気が要ったが、彼女はそんなためらいもなく数人の男性を相手に意見をたたかわせることもあった。-略-
 アメリカ軍進駐のもとで朝鮮戦争が勃発し、各界の代表者のレッドパージが発表されたが、その後の教研集会でも玲子は、「平和を教えこむことこそ教育の原点だと思います」と、きっぱり発表した。戦争反対も、原爆の話題も、公然とは口にできなくなっていた当時としては、かなりの勇気のいる発言だった。」

ABCCのことが書かれてありました……。下「」引用。

「高さ一○○メートルにも満たない市街地の山は、今は市民の講演になっていて、美術館や遊園地が造られている。
 頂上にアメリカのABCC(放射線影響研究所)がある。戦後多くの被爆者が呼ばれて調べられたが、検査はしても治療はしてくれない研究所だとささやかれた。市民の立ち入れない恐怖の場所でもある。長い年月の間に建物も汚れ、さびれている。門が閉ざされた敷地内は、人影もなくひっそりとしていた。」

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その人のあの日……。下「」引用。

「沢野氏の話によると、父親が日赤の医師だった玲子は、昭和二十年に東京から広島に疎開してきた。女学院専門部の一年に編入した彼女だが、八月六日は登校日になっていた。郊外電車の中で、新型爆弾のすさまじい閃光を見たという。
「広島市は壊滅的な被害を受けました。救援活動に参加できた人は、駅前のトラックに乗ってください」
 緊急放送を聞いた玲子は迷うことなく、トラックに乗り換えて女学院に向かった。爆弾落下の直後に市の中心地に入ったことになる。
「いつものように、三十分早く学校に向かっていれば、私も死んでいたんだから」
 その思いは強かったらしい。家族との連絡もとれないまま、一週間も市内に踏みとどまって、重症の級友たちの看護に明け暮れた。今にも崩れそうな鉄筋校舎が残っているだけの母校には、食糧はもちろん、体を伸ばして眠る場所もなかった。
「原爆のあと、玲子が一週間も救援活動をしたでしょう。ぼくはどう考えても、あの一週間が命を縮めたとしか、考えられないんです」
 玲子の通夜の日、大阪から駆けつけた実兄が、唇を噛みしめながら悔んだという。」






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