磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ふたたび被爆者をつくらないために 第三集

2009年04月27日 | 読書日記など
『ふたたび被爆者をつくらないために 世田谷・被爆者の証言第三集』
   世田谷・被爆者の声を記録する会/
     世田谷・被爆者の声を記録する会2008年

『原爆の子』を編集された長田新さんの息子さんの文章がありました。

もくじ



「証言集発刊にあたって」世田谷区長 熊本哲之。
区長は呉市生れだという……。下「」引用。

「-略-私は、昭和六年、広島県呉市に生まれ、中学生時代に学徒動員を経験し、終戦の年には、広島の「きのこ雲」を目の当たりにしております。この日を境に運命を狂わされた人たちがどれほどおられるか、戦争というものは実に残酷なものです。唯一の被爆国であるわが国は、核兵器の脅威と被爆の実相を全世界に伝え、核兵器のない豊かで平和な社会の実現に向けて、なお一層努めていかなくてはならないと考えております。-略-」

医者の家庭に生れた人の文章もありました。
「六○年たっても忘れられない臭気」 下「」引用。

「私の生家は、山陽から山陰にの抜ける国道54号に沿って、病院を開業していたので、避難してきた人々が次々倒れこみ、あっという間に足の踏み場もない状態になった。
 直前に、軍医として父は徴用され、戦争末期には看護婦さんの数も激減してたので、祖父と一年八ケ月の弟の背中にくくりつけた母が、不眠不休で救援に奮闘とした。」

水だけで救助を手伝ったという……。下「」引用。

「そのうち、軍のトラックで被爆した人々を満載してきて、何人かを私の生家に降ろしていった。マーキロもすぐ底をつき、軍から一度は補給があったが、最後はどうしたのかわからない。私は、食べ物を口にしないで、水だけで、よく救助活動ができたものだと思うが、非常事態でよほど気が張っていたのだろう。」

原爆ドームの隣には郵便局があったという。下「」引用。

「私はいまの原爆ドームの隣にあった中央郵便局、そこで外国むけ郵便の検閲をしていました。-略-中央郵便局は原爆ドームのすぐとなりです。煉瓦ですからね。なにもなくなって、ぐしゃんとなって、そこへ私が行っていたら、たぶん誰の骨かわからないですね。」

戦中は、大学助教授も大学へ行けず。下「」引用。

「原爆前は、父もほとんど学校へ行かなくて、金輪島というところに行ったり、宇品に行ったり、学生の挺身隊やなんかで行っている先に監督に行っていたんです。大学にはほとんど行っていませんでしたね。」

--長田新の息子さん。
「『原爆の子』の五七年」長田五郎・著。

長田新は重症だったという……。下「」引用。

「父(*長田新)は、軍医から瀕死の重症であるという診断を受け、手当てを受けた。そこで、被服工場の倉庫の中に救護所が設けられていることを聞き、私は、そこに父を連れていって寝かせ、配給されたおむすびを食べさせた。父は、私に教え子である広島県師範学校の教授にすぐに連絡するように命じた。-略-」

ヒロシマ・レクイエム』という曲があるという。下「」引用。

「ヒロシマ生まれの世界で注目された新進作曲家・細川俊夫は、新作『ヒロシマ・レクイエム』(一九八九年、ファンティック)において、『原爆の子』の訴えを組曲として音楽化した。」

「一○○や二○○人は入れる防空壕で被爆」という文章があった。下「」引用。

「-略-私が、原爆が落ちたときに、西坂小学校の下に西坂町ってございますね。そこに二六聖人の像が建っておりますけれども、その下に防空壕が掘ってございまして、当時、国が掘った大きな防空壕が三本ありまして、その真ん中の防空壕に入っておりまして、助かったわけなんです。二キロですから、まともに来たら相当やられるはずなんですけれども。-略-」








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