『レッグス-平和への道はない、平和が道である-On third world legs』
ブライアン・ウィルソンWillson,S.Brian(著)/
仙田典子、島田啓介(訳)/カタツムリ社1993年
平和運動のために、脚(レッグス)を失った……。
--帯に書かれてあります。下「」引用。
「私はをひいたその列車は、あなたをもひいたのだ。それはわたしたちが所有し、わたしたちが走らせている。わたしたちの列車なのだ。わたしたちは責任をもってそれを止め、その方向を変えねばならない。
ブライアン・ウィルソン」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/b5/29ef9d9cc11e4f7e9017510ef3df02a6.jpg)
ベトナム戦争へ行ったという……。下「」引用。
「わたしたが任地につくや、ベトナム人の基地司令官アン大佐から命令をうけた。彼は特殊戦闘保安隊の責任者で、わたしは特別の保安・諜報活動を命ぜられた。-略-」
そこには死臭があったという。下「」引用。
「そのころピンツイ基地は、およそ週に一度の割で攻撃をうけていた。基地にはアメリカ人やベトナム人の死体が、次から次へと運びこまれてきた。それらの多くはすでに死体袋に入れられており、ここを経由してサイゴンの死体安置所に運ばれるのである。死臭がそこらじゅうに漂っていた。-略-」
そして帰国後、反戦運動へ。下「」引用。
「そのうちわたしは、帰還兵にかかわる仕事で世間に知られるようになった。同じ年には、帰還兵の枯葉剤被害につしいて調査するマサチューセッツ委員会に入った。また八五年から八六年には、デュカキス知事のもとで、家のない帰還兵のための特別委員をつとめ、ジョン・ケリー上院議員の帰還兵援助委員会でも働いた。一九八五年には、「ベトナム帰還兵へのたぐいまれな人道的奉仕」にたいして、デュカキス知事から表彰された。」
裁判に敗けたアメリカ……。下「」引用。
「二日後、国際司法裁判所は次のように合衆国の有罪を宣言した。
「合衆国はコントラ軍を訓練し、武装させ、武器や資金を供給し続けている。またニカラグアを攻撃するため、内外から軍事的、準軍事的活動をあおり、支援している」
これにたいして、合衆国政府は即座に、
「わが国には今回の国際司法裁判所の裁決にしたがう義務はない」と発表した。」
列車に轢かれる時の写真が何枚かあります。
テープも残してあるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4c/eda8dffb3761e634e77edc526389fb3f.jpg)
そして、脚を切断など……。下「」引用。
「わたしはだんだんと、自分のけがの深刻さを知るようになった。わたしの傷は、重度の頭蓋骨挫傷、右前頭部のゴルフボール大の損傷、右前頭葉のひどい裂傷、ちぎれる寸前だった左耳、そして膝下から切断された両脚である。
わたしがひかれてから二、三分後に海軍の救急車が到着したが、わたしの体が軍の敷地内になかったという理由で、応急手当てや病院への移送は断られたという。わたしが死ななかったのはまったく奇跡だった。」
『カトリック新聞』 下「」引用。
「これら乗務員の証言は、一九八八年一月二九日の『カトリック全国新聞』に、「武器輸送の列車、平和活動家に重傷を負わすり。海軍当局は止まるなと指令」という見出しで掲載された。」
〈解説〉石谷行・著。下「」引用。
「著者はブライアン・ウイルソンが「行く手をはっきりと照らし出してくれた」と感謝し、「この本を捧げる」と冒頭に書いた。ノーマン・モリソンの件にまず触れたい。
高校教師であった彼が、合衆国のベトナム爆撃に抗議して焼身自殺をしたのは一九六三年十一月二日で、わたしが合衆国留学中のことであった。自国が始めた爆撃政策の非人道性に抗議して、国防総省の入口で、赤子のわが子を腕に抱えて焼身自殺であった。火が燃え上がった最後の時点で、彼はその子を地面に投げ出し、自分だけが火を被った。このことは広く全米に報道された。
それ以前にも、仏教の僧侶がベトナムで抗議の焼身自殺をしたことは聞いていたが、多くの場合私たちは、こうした焼身自殺などについて、それらは特殊な宗教的な変人か、精神的に不安定な病的な人がやったことで、自分たち「正常人」とは関わりのないことととして簡単に片付けて済ましがちである。
ところが、私が当時滞在していたクエーカーの成人・教育機関であるベンデルヒルの人たちの反応は、そうした合衆国社会の一般的な傾向とは違っていた。キリスト教でタブー視されている自殺行為を、肯定こそしなかったが、彼の行為を悲痛な思いで同情をもって語っていたのである。爆弾の犠牲となるベトナムの子供たちをわが子と区別せず、同等に大切なものとしていとおしむ心は正しいし、戦争を止める他のすべての手段が尽きたとしてわが身に「十字架を負い」、合衆国の良心に訴えようとする一途な気持ちが痛ましい--こういう思いが込められていた。-略-」
アメリカ人で、ベトナム戦争に抗議して、最初に焼身自殺したのは、クエーカー教徒のアリス・ハーズ。
もくじ
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ブライアン・ウィルソンWillson,S.Brian(著)/
仙田典子、島田啓介(訳)/カタツムリ社1993年
平和運動のために、脚(レッグス)を失った……。
--帯に書かれてあります。下「」引用。
「私はをひいたその列車は、あなたをもひいたのだ。それはわたしたちが所有し、わたしたちが走らせている。わたしたちの列車なのだ。わたしたちは責任をもってそれを止め、その方向を変えねばならない。
ブライアン・ウィルソン」
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ベトナム戦争へ行ったという……。下「」引用。
「わたしたが任地につくや、ベトナム人の基地司令官アン大佐から命令をうけた。彼は特殊戦闘保安隊の責任者で、わたしは特別の保安・諜報活動を命ぜられた。-略-」
そこには死臭があったという。下「」引用。
「そのころピンツイ基地は、およそ週に一度の割で攻撃をうけていた。基地にはアメリカ人やベトナム人の死体が、次から次へと運びこまれてきた。それらの多くはすでに死体袋に入れられており、ここを経由してサイゴンの死体安置所に運ばれるのである。死臭がそこらじゅうに漂っていた。-略-」
そして帰国後、反戦運動へ。下「」引用。
「そのうちわたしは、帰還兵にかかわる仕事で世間に知られるようになった。同じ年には、帰還兵の枯葉剤被害につしいて調査するマサチューセッツ委員会に入った。また八五年から八六年には、デュカキス知事のもとで、家のない帰還兵のための特別委員をつとめ、ジョン・ケリー上院議員の帰還兵援助委員会でも働いた。一九八五年には、「ベトナム帰還兵へのたぐいまれな人道的奉仕」にたいして、デュカキス知事から表彰された。」
裁判に敗けたアメリカ……。下「」引用。
「二日後、国際司法裁判所は次のように合衆国の有罪を宣言した。
「合衆国はコントラ軍を訓練し、武装させ、武器や資金を供給し続けている。またニカラグアを攻撃するため、内外から軍事的、準軍事的活動をあおり、支援している」
これにたいして、合衆国政府は即座に、
「わが国には今回の国際司法裁判所の裁決にしたがう義務はない」と発表した。」
列車に轢かれる時の写真が何枚かあります。
テープも残してあるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4c/eda8dffb3761e634e77edc526389fb3f.jpg)
そして、脚を切断など……。下「」引用。
「わたしはだんだんと、自分のけがの深刻さを知るようになった。わたしの傷は、重度の頭蓋骨挫傷、右前頭部のゴルフボール大の損傷、右前頭葉のひどい裂傷、ちぎれる寸前だった左耳、そして膝下から切断された両脚である。
わたしがひかれてから二、三分後に海軍の救急車が到着したが、わたしの体が軍の敷地内になかったという理由で、応急手当てや病院への移送は断られたという。わたしが死ななかったのはまったく奇跡だった。」
『カトリック新聞』 下「」引用。
「これら乗務員の証言は、一九八八年一月二九日の『カトリック全国新聞』に、「武器輸送の列車、平和活動家に重傷を負わすり。海軍当局は止まるなと指令」という見出しで掲載された。」
〈解説〉石谷行・著。下「」引用。
「著者はブライアン・ウイルソンが「行く手をはっきりと照らし出してくれた」と感謝し、「この本を捧げる」と冒頭に書いた。ノーマン・モリソンの件にまず触れたい。
高校教師であった彼が、合衆国のベトナム爆撃に抗議して焼身自殺をしたのは一九六三年十一月二日で、わたしが合衆国留学中のことであった。自国が始めた爆撃政策の非人道性に抗議して、国防総省の入口で、赤子のわが子を腕に抱えて焼身自殺であった。火が燃え上がった最後の時点で、彼はその子を地面に投げ出し、自分だけが火を被った。このことは広く全米に報道された。
それ以前にも、仏教の僧侶がベトナムで抗議の焼身自殺をしたことは聞いていたが、多くの場合私たちは、こうした焼身自殺などについて、それらは特殊な宗教的な変人か、精神的に不安定な病的な人がやったことで、自分たち「正常人」とは関わりのないことととして簡単に片付けて済ましがちである。
ところが、私が当時滞在していたクエーカーの成人・教育機関であるベンデルヒルの人たちの反応は、そうした合衆国社会の一般的な傾向とは違っていた。キリスト教でタブー視されている自殺行為を、肯定こそしなかったが、彼の行為を悲痛な思いで同情をもって語っていたのである。爆弾の犠牲となるベトナムの子供たちをわが子と区別せず、同等に大切なものとしていとおしむ心は正しいし、戦争を止める他のすべての手段が尽きたとしてわが身に「十字架を負い」、合衆国の良心に訴えようとする一途な気持ちが痛ましい--こういう思いが込められていた。-略-」
アメリカ人で、ベトナム戦争に抗議して、最初に焼身自殺したのは、クエーカー教徒のアリス・ハーズ。
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