『長崎の証言双書1
原子野に生きる 福田須磨子集』
長崎の証言の会・編/汐文社1989年
福田須磨子は大田洋子と並ぶ、
作品を書いた方のようにボクは思います。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」ということばが流行した。
これもワンセンテンスで人を扇動するには、活用できる言葉だったように思えます。
人間も作品もそんなに簡単には存在しないと私は思います。
イメージばかりが先行しているのは、軽薄な文化だと思います。
内容が肝心ですね。
この作家・詩人は、内容があります。
一番に最初にもってこられた編集をされた方はセンスのいい方だと思います。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」についても、納得できる文章でした。
福田須磨子・作の『原爆を作る人々に』が掲載されていました。
北朝鮮の方や、アメリカの方たちに理解してもらいたい作品です。
この詩は、平和活動や生徒さんたちの文化祭でも使用されているようです。
「瓦礫の中の群像−浦上天主堂廃虚取り壊し−」という詩も掲載されています。
浦上天主堂取り壊し 1958年3月14日【長崎新聞】 という記事があります。
戦後13年も、浦上天主堂廃虚は存在したというわけですね。
残した方がよかったと言われる方がいてもボクは否定できませんね。
そして活動家だけではいけないと書かれています。下「」引用。
「原水禁運動は活動家だけのものであってはならいと思う。−−あの人たちに話したちゃ解らん−−とサジをなげることは、民衆を馬鹿にしたやり方だと思う。おたかくとまらないで、隣人から、いや家の者から、原水禁運動に参加させる努力を地道に続けるのが大切なことではないだろうか。私は病院に行っても、原水爆禁止の話を、一人でも多くの人に話すつもりだ。私に手紙をくれる若い層の人たちへの返事も、それにつきている。どんな場所にあっても、民衆と共にある原水禁運動であることを忘れてはならないと思う。」
昭和30年に「長崎生活をつづる会」入会。
この会ができたことは福田須磨子にとって幸運だったと思う。
目 次
原子野に生きる 福田須磨子集』
長崎の証言の会・編/汐文社1989年
福田須磨子は大田洋子と並ぶ、
作品を書いた方のようにボクは思います。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」ということばが流行した。
これもワンセンテンスで人を扇動するには、活用できる言葉だったように思えます。
人間も作品もそんなに簡単には存在しないと私は思います。
イメージばかりが先行しているのは、軽薄な文化だと思います。
内容が肝心ですね。
この作家・詩人は、内容があります。
一番に最初にもってこられた編集をされた方はセンスのいい方だと思います。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」についても、納得できる文章でした。
福田須磨子・作の『原爆を作る人々に』が掲載されていました。
北朝鮮の方や、アメリカの方たちに理解してもらいたい作品です。
この詩は、平和活動や生徒さんたちの文化祭でも使用されているようです。
「瓦礫の中の群像−浦上天主堂廃虚取り壊し−」という詩も掲載されています。
浦上天主堂取り壊し 1958年3月14日【長崎新聞】 という記事があります。
戦後13年も、浦上天主堂廃虚は存在したというわけですね。
残した方がよかったと言われる方がいてもボクは否定できませんね。
そして活動家だけではいけないと書かれています。下「」引用。
「原水禁運動は活動家だけのものであってはならいと思う。−−あの人たちに話したちゃ解らん−−とサジをなげることは、民衆を馬鹿にしたやり方だと思う。おたかくとまらないで、隣人から、いや家の者から、原水禁運動に参加させる努力を地道に続けるのが大切なことではないだろうか。私は病院に行っても、原水爆禁止の話を、一人でも多くの人に話すつもりだ。私に手紙をくれる若い層の人たちへの返事も、それにつきている。どんな場所にあっても、民衆と共にある原水禁運動であることを忘れてはならないと思う。」
昭和30年に「長崎生活をつづる会」入会。
この会ができたことは福田須磨子にとって幸運だったと思う。
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