磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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アメリカ兵【広島原爆被爆】

2006年08月30日 | 読書日記など
NHK教育2006年8月6日
NHKアーカイブス

「爆撃機ローンサム・レディ号 ~広島原爆秘話~」
NHK特集(49分)
1978年(昭和53年)10月29日放送分


被爆したアメリカ兵たちの記録です。

昭和20年7月、爆撃機ローンサム・レディ号は
広島県・呉の軍港を攻撃するために出撃。

ローンサム・レディ号は撃墜され、
乗組員は捕虜。

乗組員のうち数名が広島に送られ、
8月6日の原爆にあって死亡。

日本の目撃者は機長は亡くなったという。
しかし、後に機長は生きていたという。

【遺品・方位磁石】
元憲兵は遺品の方位磁石をもっていた。
彼らは喉がかわいていたようだ。
上官と広島へ護送した。

【当時・広島】
城を中心に広大な軍需施設があった。
中国憲兵隊司令部に送られる。

【8月6日、捕虜たち】
どんな運命をたどったか?

戦後33年間、一切の公式見解はない。

【連合軍の捕虜名簿発見】
広島原爆で20名が死亡と記載されいたという。
アメリカでも報道される。
この資料を発見した広大の助手の
ところにアトキンソン軍曹の父が
連絡してきた。

【アトキンソン軍曹の父宅へ】
元憲兵から磁石をもらっていく。
すでに再婚している息子の妻もきていた。
「10日前に広島に移送されていた」



磁石は息子の物ではないという。

「無論、あの子のことを
思わぬ日はありません」と父。

そして、「一都市の全滅など
想像外だしおろかなことです」


【生きていた機長】
テキサスの農工大学で教授。



コンパス(磁石)を手にする。
B-24が墜落した山口県にあったという。

農夫たちは手荒い扱いはしなかった。

当時、機長だけは尋問のため東京に送られたという。

遺伝学者なので、今も苦しんでおられるのがわかります……。


【他の捕虜を送った憲兵】
北九州で捕虜となった10人を、
護送していた憲兵は広島を通った。

「あれを見ろ子供が焼かれている…
女たちが焼かれている……
君らは得意に思うか?」と質問。

彼らは「ノー・サー」と答えたという。
宇品に捕虜をトラックで運んだという。

宇品に二人の捕虜がいた。
別室でわずらう声。

あなたの国が落とした爆弾だから、
二人にどんな治療をしたらいいか
質問したが、本当に知らないといって、
泣き出したという。

【ホールデン元中尉】
被爆した二人は病んでいたという。
出血が止まらなかった。



原爆のことは全く知らなかった。

【ニール少尉】
遺族をホールデン元中尉から聞く。
ニールの母は、アパートで一人暮らし。
磁石に見覚えがあるという。
ニール少尉の元に返しました。

出撃の直前、たまたま乗り込んだのが、
ロンサム・レディ号だったという。

【エリソン軍曹】
遺族はいないかと電話帳で調べる。
タクシーの運転手と捜すが発見できず。


【エイブル軍曹】後部射撃手
山の中で10日間、
空腹で脱出した日が8月6日の朝。
生存しているが、取材を拒否。
政府との間で署名で約束もしたという。

【ライアン少尉】前部銃座
母が健在。
3人の息子を戦場に送り出したという。
原爆で死んだのは末っ子。
父子とも志願兵だったという。

【ルーパー少尉】副操縦士
妻は再婚していました。
戦後6年で日本は名簿を公開し、
死亡日までのっているが、
軍は知らない顔だという。
初めてみたと遺族(兄)は怒る。

母「セント・ルイスの葬儀は
一生忘れられない」という。




日本での被爆死した人の墓。






この後、機長が来日。そのことなどが書かれた本。


爆撃機ロンサムレディー号  被爆死したアメリカ兵


くちなしの花 八月 ヒロシマ ヤケノハラニ ナル






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