磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆を見た聞こえない人々

2006年08月30日 | 読書日記など
『原爆を見た聞こえない人々
   長崎からの手話証言』
    長崎県ろうあ福祉協会、
     全国手話通訳問題研究会長支部(編)/
       文理閣1995年

ろうあ者の被爆体験を伝えられている本です。
苦労とは言葉にしづらいものですね。




当時の本島等・長崎市長が「まえがき」を書かれています。下「」引用。

「十年以上にも亘る聞き書き作業は、かなり苦難の道のりだったであろうことは想像するに難くない。その地道で根気強いご努力に対し敬意を表し、感謝を申し上げたい。」


1913年生まれで、3歳のとき中耳炎のために耳が不自由になる。

重松家具製作所に就職。
1941年園田鉄工所(三菱重工の下請け会社)で働く。
魚雷などの兵器を作る。

1943年結婚。
木工職人のとき20円、
鉄工所は30円の給料。

1945年8月9日朝、歯医受診。

浦上駅まで歩いて汽車に乗り、すぐ踏切で自動車と衝突事故。
10時45分に出発、道の尾駅に着いたのが10時57分。
園田鉄工所に着いたのが11時頃。

その時の様子も書かれています。下「」引用。

「原爆が落ちたのは十一時二分でした。
 ピカーッ!
 その瞬間、耳にひどく圧迫を感じました。
 爆風でビンタを食らったような衝撃を受け、髪の毛も逆立った感じさえしました。
 私は工場の建物の外にいて、一生懸命物の下に隠れようとしたのですが、その瞬間うしろから爆風で破壊された工場の鉄骨が背中にぶつかり、七メートルくらいはね飛ばされました。私の背中が丸いのはそれで背骨が変形したためです。」

街はすっかり変わり、朝行った歯医者もなくなっていたという。




手よ語れ--ろうあ被爆者の証言』
『手よ語れ--ビデオ版』
『サイレントサンダー(手を語れ英訳版)』


1946年『青ろう会』結成。
『長崎ろうあ教会』に名称変更。
1947年、県北に『佐世保ろうあ交友会』。
1950年、『長崎県ろうあ福祉協会』誕生。


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