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平和の芽 語りつぐ原爆・沼田鈴子ものがたり

2007年07月30日 | 読書日記など
『平和の芽 語りつぐ原爆・沼田鈴子ものがたり』
    横山秀夫・著/講談社1995年

歴史のことも、わりときちんと書かれてあります。若い人に向けられて書かれてあると思います。ここに等身大の人間の人生がある……といってもいいのではないでしょうか?



沼田鈴子さんは、語り部として有名な方だと思います。

有名ならセレブとかいって、世の中をなめている人たちとは関係のない方です。

沼田さんとアオギリの関係も、有名な話だと思います。下「」引用。

「鈴子は原爆で片足をうしないました。そのとき二十二歳。結婚式をあげる三日まえのことでした。原爆によって、足も、青春も、お嫁にいく喜びも、よき母になる夢も、すべてうばわれたのです。鈴子は、生きることに絶望し、死をえらぼうとしました。
 しかし--。
 鈴子は長い時間をかけて死の淵から立ちあがりました。きょうを、あしたを、せいいっぱい生きようと誓ったのです。その力を鈴子にあたえたのが、ほかでもない。この被爆したアオギリだったのです。」

当時、後に「十五年戦争」といわれる長い戦争を日本はしていました。

そんな戦争をしていると、街の景色もかわります。下「」引用。

「女学校の行き帰り通る道ばたの店です。その店のウインドーには、たくさんの義手や義足、松葉づえなど、体が不自由な人のための装具がならんでいました。当時は、戦争で傷つく人も多く、そうした専門の店が街にいくつもあったのです。」

今の時代も戦争や紛争があるところでは、このような方たちが増えます。

広島逓信局(現在の中国郵政局)で働く沼田さん。
その運動場に植わっていた大木をみる。
鈴子が生まれたころ、この世に生を受けたあのアオギリ……。

戦争があると、夏休みなどがなくなったそうです。

「楽しいはずの夏休みは、「夏期練成期間(かきねんせいきかん)」とされ、子どもたちはみな、合宿をして軍隊のきまりを学んでいたのです。」

そのアオギリも被爆。燃えていたという……。

家族のはげましなどで、沼田さんは学校の先生に。

10フィート映画運動で、35年前の沼田さんの映像をみることに……。

1983年3月、被爆体験をはじめて話す。
相手は修学旅行で広島にきた東京の高校生。
のちに「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」をつくる江口保さんの紹介。

たくさんの人たちに語られます。
その中には、ツッパリたちもおり、ツッパリたちはやさしかったという。










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1 コメント

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Unknown (大坪久夫)
2010-08-23 20:22:12
沼田さんの友人であった亡母大坪ハルミが沼田さんの語りべとしての旅立ちに歌った句(一橋会会誌より):

題 旅人

和服にて傷痍を包み原爆の語りべとして旅発てる友

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